「アルカエア」第3話
校門前で二人と別れた俺は、教授室へと真っ直ぐ戻った。中の気配を窺うと、人の良さそうな吸血鬼は、卒論指導を行っている。懐いている様子の何も知らない人間の生徒は、憧憬を滲ませた瞳を、夏瑪夜明の偽物へと向けていた。
俺は、それが終わるのを待った。さすがに一般人の前で虐殺しようとは思わない。目を伏せ、時計の秒針の音に耳を傾ける。彼らの会話が終わったのは、夕方の六時を過ぎた頃の事だった。窓から差し込む西日が、俺を照らしている。
「――まだ、何か用かな?」
学生が帰路に着いてから、先に声をかけてきたのは、吸血鬼の方だった。俺は小さく頷き、視線で教授室に入りたいと希望する。頷いた彼は、中へと踵を返す。入ってすぐに、俺は施錠し、ポケットの中のバタフライナイフの存在を指先で確認した。
「それで、どんな用事だい?」
平和ボケしているらしいヴァンパイアが、微笑さえ浮かべながら俺に問った瞬間には、俺はナイフを取り出し、彼を押し倒していた。吸血鬼が目を見開く。
「随分と平和な頭をしているらしいね、この国の怪異は」
「っ、な、何を――」
「どうして排除されないと盲信しているの?」
問いかけながら、彼の右目をくり抜くように、眼窩の下側にナイフを突き立てる。それをくるりと回すと、右の眼球が飛び跳ねた。人を喰い殺す罪をきちんと自覚させて屠るのは、人類の優しさだ。ナイフに力を込めると半分潰れて濁った眼球が垂れてきて、視神経が見えた。呻き声を上げ、それから絶叫した吸血鬼の首を左手で締めながら、俺は見下ろす。彼の艷やかな髪が、象牙色のソファの上で乱れている。俺は防音装置を起動し、この部屋の外には悲鳴が何一つ聞こえないようになる雑音処理をした。
床へと零れ落ちた眼球は、床の上で、再び球体を形作っていく。視神経が蠢いている。次は、左目だ。今度は瞳にナイフを突き立てて、俺は吸血鬼へと冷めた眼差しを向ける。
「わ、私は――きちんと裏法律を遵守し、して」
「それが、何?」
「やめろ、やめてくれ、ああ!」
続いて鼻を削ぎ落とす。特別な酸を放出するナイフのおかげで、すっと削げた。徐々に徐々に、彼の顔が無くなっていく。それが、心地良い。吸血鬼など、見たくもないからだ。そもそも視認してはならない存在だ。それこそが、怪異だ。唇の周囲をナイフでなぞり、そちらも剥いでから、俺はナイフを握り直す。そして絞めていた首から手を離して、ポケットから銀の銃弾が入る拳銃を取り出した。
「今俺が、楽に逝かせてあげるのは、善意からだよ。この平和な国に浸っていた吸血鬼を憐れむからだ。もしもこの土地でなかったならば、このように楽には逝けない」
そう告げて、俺は彼の額に銃口をあてがった。そして銃把を握り締め、二発打った。脳漿が飛び散る。最後は声もなく、その吸血鬼は――死んだ。死体が透き通り始め、指先から透過していく。遺体が残らないのは、弱い吸血鬼の特徴だ。
全てが、予定通りに完結した。俺はそれに満足しながら立ち上がり、そして踵を返した。その瞬間――眼前の光景に硬直した。そこには腕を組んでいる紗衣がいたからだ。目を見開いた俺は、最初に、考えてしまった。見られたくは、無かったと。
「ダメだって、言ったじゃない?」
「……吸血鬼は、排除しなければならない」
「縲くんの気持ちは、分かったよ。だけどね、それは、プロフィールを見る限り、ただの洗脳結果だよ」
「だとしても、俺がなすべき事は変わらない」
吸血鬼の排除は、既に俺の本能だ。ヴァンパイアに対する嫌悪、憎悪、人類の敵であるという感覚、それは、俺の全てを支配している。
「――この大学に、夏瑪夜明という教授は、もういない」
その時、紗衣が言った。
「今夜から、特別な研究のために、海外へと旅立った。そうなっているよ」
「え?」
「処理は、私の大切なお仕事だからね!」
俺は、今度は驚いて刮目した。すると紗衣が微苦笑した。綺麗な髪が揺れている。
「縲くんは、何も悪くないよ。縲くんの正義に従っただけだもんね。それが、ただ少しだけ、私とは相容れないだけだよ。だけどさ、もう私達は夫婦になるんだから、ちょっとずつ、そこの温度も合わせて行こうね! なんていうの、今回の処理は、内助の功かな? 褒めてくれる?」
冗談めかして紗衣はそう言うと、俺に歩み寄ってきた。そして俺を抱きしめた。
「だから、そんな風に悲しそうな顔をしないで」
「悲しそう……?」
「苦しそう、でもあるし、泣きそうにも見えるよ」
「何言ってるの? バカじゃないの? 達成感でいっぱいなんだけど」
けれど紗衣の腕の中にいると、その胸の柔らかさを感じると、なぜなのか俺は力が抜けていくのを感じていた。紗衣に拒まれなかったという現実が、嫌われなかったらしいという現実が、無性に俺に安堵をもたらした。
――この日。
紗衣は、完璧に、後処理をしてくれたのだった。
――バツが悪いというのは、こういう事を言うのかもしれない。
紗衣が運転する車の助手席にて、俺は俯いて、両膝の間に組んだ手を置いていた。紗衣は優しい癖に、何故、俺を糾弾せず、何もかもを受け入れるかのように処理してくれたのだろう。それには、明瞭な解答が一つだけある。それは、大人、だから。
しかし、そんなことは、俺には認め難かった。普段おっとりしている紗衣、そんな彼女を馬鹿にしている俺――そんな、そんな、そんな日常において、年齢こそ下であっても、大人であるのは俺の方であるはずだったのに、彼女の偉大な存在感を意識させられていく。
「お腹減ったね! なにか食べて帰る?」
「……よく、あの光景を見て、食欲がわくね」
「ルイくんって、繊細なんだね! やっぱり、可愛い」
馬鹿にされている気がした。それ以外の気がしない。
それでも実際に――俺は、今、物を食べられる心境には無い。食欲という概念が欠落してしまったかのように、胸が重い。仏国にいた頃は、このような事は感じなかった。そもそも簡易食料ばかりを齧るか飲むかしてばかりだったから、お弁当が存在するようなこの国とは、食事文化が異なったのだ。無論フレンチは美味しい。しかしながら、それは俺の食べ物では無かったのだ。
それが、変わった。
それが、鬱陶しい。
こんな世界は、望んでいなかった。紗衣の不在の世界の方が、彩が無い世界の方が、心地良かった。少なくとも嘗ての日常は、吐瀉物を撒き散らしそうになる胃の不調など齎さなかったのだから。
「そんなルイくんが、大好き」
ああ、重い。重かった。愛が、重い。そもそも、本当にここに、愛はあるのか――そう考えて、俺はハッとした。気づいてしまった。紗衣からの愛をどこかで求め、それが当然である事を祈っている己がいるという事実に。
ダメだ、このままでは、俺は堕ちていく。紗衣に絡め取られてしまう。
なのにどうして、彼女の言葉は、こんなにも心地よくて、胸に染み入ってくるのだろう。
「――……本当に、」
「ん?」
「っ、俺を好きなの?」
俺は顔を上げて、紗衣の横顔を窺った。すると彼女は、赤信号で丁度停車した時だったからなのか、俺を見るとふわりと笑った。その柔らかな笑顔には、曇りも嘘も見えない。虐殺をなしたばかりの俺を糾弾するでも無い。そこに孕む、矛盾。なのに、心が癒されていく。紗衣の嘯く愛に、近づいてしまいそうになる気配、それが我ながら怖い。
「まだ私の愛が伝わってないのかぁ。寂しいなぁ」
「冗談にしか聞こえないからね」
そうは告げつつ、俺の心拍数は上がっていた。本当は、本気にしか聞こえないから困るのだ。胸の動悸の理由を、この時の俺はまだ知りたくなかった。けれど、いやでも気づかされる。
「愛してる」
紗衣は、静かな声でそう言うと、アクセルを踏んだ。俺は何も言えないままで、再び俯いた。頬が熱い。その後、紗衣は、真っ直ぐに俺が暮らすマンションへと車を走らせた。
「またね」
シートベルトを締めたままで紗衣が言った時、俺は唾液を嚥下した。
「――上がっていけば?」
「え?」
「その、お腹減ってるんでしょう? 珈琲くらいなら、出せるから……」
取ってつけたように俺がそう言うと、紗衣が満面の笑みを浮かべた。俺はその表情に胸が締め付けられたようになる。その理由を知りたくはないと、何度も念じる。
「すごく嬉しいお誘いだけど、まだ、『処理』が残っているから」
紗衣はそう言うと、手で操作して助手席側の扉を自動で閉めた。それを見守るしかなかった俺は、その後遠ざかっていく車をただ眺めているしかなかった。
エントランスホールを抜けて、エレベーターで一人。
己の部屋の扉の前に立った時、俺はギリと拳を握り、無意味にドアに手を叩きつけた。
――何をやっているんだろう?
その後、空虚なガランとした室内へと入り、俺は無機質な天井を見上げた。ひとりきりの部屋には、閉め忘れたカーテンの向こうから夕日が差し込んでいる。
心を、奪われていく。それが、苦しい。どうしようもなく苦しい。
一体今、紗衣はどのような気持ちで、処理の続きをしているのだろうか? それは彼女が望まなかったはずの行為だ。けれど、そんな事を慮る自分という存在が奇っ怪に思えて、吐き気がする。
「どうして――俺は、悩んでいるんだ? 何を? そもそも、何を? 何も悩む必要なんてないはずなのに。なのに、なんで」
つらつらとブツブツと、言葉が溢れてくる。同じように、紗衣の笑顔が脳裏を埋め尽くしていく。きつく目を伏せ、俺は睫毛を震わせた。
――どうして。
どうして、心を占めるのは、紗衣の事ばかりなのだろう。
俺にはそれが不可解だった。紗衣の顔ばかり浮かんでくる。それが鬱陶しいのに、苛立ってならないというのに、なのに、なのに――胸が痛い。
「俺は……」
……紗衣が、大切なのだろうか?
答えが出ているはずの、愚問だった。