【甘いマスクは、イチゴジャムがお好き】第32話
人員が漸く補充されたのは、次の秋が深まった頃だった。
「初めまして、嶋井弘庸です。宜しくお願い致します」
「同じく宜しくお願いします。宝田迅です」
嶋井の方は、警察庁長官の次男だ。くれぐれもよろしく頼むと言われたが、梓藤はきちんと危険な部署であるため、命が保証できない点を伝えた。電話越しに、長官は焦ったような様子だったが、気にせず梓藤は通話を切った記憶が鮮明にある。
宝田の方は、嶋井の付き人らしい。だが付き人というのが、どういう職務なのかを、いまいち梓藤は把握できずにいた。
いずれにせよ、二人の心の内側を確認したいと考えている。折角得てきた力である以上、使わないのは損だ。ただ……この場で指輪を外せば、何も聞こえない西園寺とは別に、ひたすら呪詛のような言葉を繰り返している静間の内心も聞くことになる。痛みと憎悪と自殺願望が、日に日に強くなっているのが分かる。それに触れていると、全く身知らぬ他人ならば兎も角、静間というそれなりに親しい相手――しかも、痛みなどの理由が全て、己にある事から、梓藤は胸が痛む。あの時、きちんと周囲を確認していれば、とも、考えてはみたが、それは今だから言える事に過ぎない。当時に戻っても、出来なかっただろう。
「主任の梓藤だ。よろしく」
梓藤は指輪を外す事にし、静間の声を頭から振り払い、まずは嶋井を見据えた。
『すぐに主任の座から蹴落としてみせます。僕こそがエリート中のエリートなのですから、主任になるのが相応しい。お父様も間違いなくお喜びになります。僕こそがナンバー1。過去に、一度も挫折も屈辱も味わったことがない、天才の僕にかかれば、マスクなんてひとたまりもないはずです』
凄い自信家だなと、梓藤は感じたが、別段主任の座にこだわりがないため、今明け渡しても特に問題は感じなかった。それこそ警察庁長官に人事をお願いすればよかったのではないかと漠然と考えた。ひとまずそこまで注意深く観察する内心ではないとすぐに結論づけ、続いて宝田を見る。
『またおもりかよ。怠い。帰りたい。こいつなんなんだよ。小さい頃から俺に宿題をやらせ、大人になった今は、尻拭いをさせ……頭大丈夫なのか?』
宝田は優しげな瞳を嶋井に向けているが、内心は百八十度違い、罵詈雑言の嵐だった。
ただ、宿題という部分から、宝田が回想した内容を読み取ったかぎり、剣道も柔道も有段者であるし、警察学校での射撃の成績も完璧だった。これならば、宝田は上手くすれば、よい戦力になるだろうと、心の中で梓藤は記憶した。
「こちらは西園寺、そちらは静間だ」
『俺の方が名前を後に呼ばれたのは、役に立たないって意味だよね』
「静間は主に、大切な情報の扱いを担当してくれている。俺と西園寺は、ありきたりなマスク退治だ」
梓藤なりに気を遣って話した。同時に慌てて指輪を嵌めた。
チラリと西園寺を見れば、一歩前に出てお辞儀をしている。
「西園寺色です。よろしくお願いします」
淡々とした無感情の声が響く。素直に嶋井と宝田も頭を下げている。
次に静間を見た瞬間、嶋井は腕に釘付けになり硬直し、宝田は無表情になった。そして先に宝田が頭を下げた。
「宝田です、よろしくお願い致します。こちらは嶋井です。少々あがり症なもので、代わりにご挨拶させて頂きました。どうぞ俺達をよろしくお願いします」
見事に取り繕った宝田を見て、付き人とは所謂フォロー係のようなものなのだろうかと、梓藤は考察する。
「――嶋井くん、言っていいよ? 俺の腕が気になるんでしょー?」
すると静間が微笑して、嶋井を見た。
恐怖に駆られた様子で、何度も嶋井が頷く。完全に震え上がっている。
「可愛いなぁ。腕の一本で生還できたら、とってもマシな方なんだよ。嶋井くんも足の一つや二つは、覚悟しておいたら?」
静間の声に、その場で嶋井が目眩を起こして倒れた。慌てた様子で宝田が支える。
梓藤は咳払いをした。
「静間、新人に今の冗談はきついだろう。これから同僚になる以上、相応の敬意を持って接してくれ。俺はそう期待している」
「はーい」
「よし。とりあえず今後は、この五名で任務をまわすことになる。宜しく頼む」
最後に梓藤がそう締めくくり、新人達の挨拶は終了した。
それから嶋井をソファに寝かせて、梓藤は西園寺に、宝田への新人教育を任せることにした。最早、西園寺を新人扱いする段階にはない。実力面でもそうだが、この後の補充を考えても、先生役が出来る人材が多いに越したことはない。特に自分は片付けなければならない書類が山のようにある。また静間は既に嶋井とは相性が悪そうだ。教育にも相性はある。西園寺の場合は、幸い背中を見ればある程度学べる坂崎がいた。高雅の頃は、班目がいた。最早、高雅に関しては梓藤の中で、そういえばいたなという扱いになりさがっていたが、その顔だけは、梓藤ははっきりと思い出せる。自分が手にかけたからだ。忘れるわけがない。
そんな事を考えていると、嶋井が目を覚ました。
西園寺が丁度宝田を、用意した席に案内しているところだった。すると西園寺が、珍しく自発的に口を開いた。
「梓藤主任、二人とも教育は俺が担当しようと思うのですが、構いませんか?」
「ああ、俺も頼もうと思っていたんだ。なにかと一緒の方が、教えやすいだろうしな」
冷静な声で、梓藤は答えた。すると気を取り直した様子で、意気揚々と嶋井が西園寺達の方へと歩き出した。それを一瞥し、梓藤は自分の仕事を開始する。時折、静間の横顔を窺ったが、心の声さえ聞こえなければ、ごくいつも通りだ。少なくとも、そう見える。
第一報が入ったのは、それから三十分後の事だった。
「行くぞ西園寺。他は全員待機」
梓藤の声に、嶋井が勢いよく立ち上がった。椅子が床に倒れた。
「僕も行きます! 寧ろ僕が行かないで、どうするんですか!」
「……嶋井……今日着任したばかりでは、まだ排除銃の打ち方も……」
梓藤は嫌気が差しつつ、そう告げた。普段であれば、そのまま冷酷な声で斬り捨てた自信がある。しかし口ごもった。西園寺が頷いたからである。指導者は、現在西園寺だ。その意向は無視はできない。西園寺を信じて任せたのは、自分なのだから。
「……宝田も行くのか?」
「ええ! 僕が行く場所には、必ず宝田を伴いますので!」
答えたのは嶋井だが、梓藤が話しかけていたのは、西園寺である。西園寺は淡々と頷いた。何を考えているのかあまりよく分からず、だが西園寺が単に見殺しにして貴重な人でを減らすほど愚かにはどうしても思えなかったため、悩み抜いたあげく――まあ、死んだらそこまでであるし、すぐに急行する必要があったので、梓藤は頷いて返した。
こうして、静間が一人で待機をし、四人は覆面パトカーで現地へと急行した。
車内では、ひたすら西園寺が排除銃のレクチャーをしていたので、事件の詳細の共有をしている暇は無かった。
到着したのは、公園の片隅にある公衆トイレである。
女子トイレだ。
なんでも、トイレに行った誰一人として、帰ってこないのだという。
「どうせ下らない都市伝説なのでは? ほら、トイレの花子さんとやらが、僕の曾お祖父様の時代に流行したのだとか」
嶋井の声に、梓藤は腕を組んで西園寺を見た。
「お前はどう思う?」
「嶋井の知識は古いですね。昨今、都市伝説をモティーフにした作品が爆発的にヒットし、今の若い子供達は、誰でもトイレの花子さんを知っています」
「うっ」
嶋井が呻いた。それからキッと西園寺を睨めつける。
「僕はもういい大人です! 子供の流行など存じません! 寧ろ何故そのような事を西園寺さんはご存じなのですか?」
「妹がいてな」
「あ、はい……」
嶋井は言い返せないようだった。だが梓藤は、二人の掛け合いを期待して、西園寺に声をかけたわけではない。
「西園寺、改めて聞くが、どう思う?」
「宝田の見解を聞きたいです」
「……続けろ」
梓藤がしぶしぶといった調子で頷くと、宝田が腕を組んだ。
「失踪だけでは、本部に電話はきませんよね? なにか目撃情報とか、死体が見つかったとか」
「遺体と呼ぶように」
梓藤が訂正すると、宝田が半眼になった。そしてぼそっと呟いた。
「どっちでもいいだろ……」
「聞こえているからな」
眉間に皺を寄せて梓藤が疲れたような息を吐いた時、西園寺はトイレへと視線を向けた。
「惜しいな。あの完璧な壁の中をどうやって目撃し、そこで喰べているマスクから逃れるんだ? それにマスクは基本的に、邪魔をされなければ、骨以外全て食す。誰も帰ってこないと言うことは、ご遺体はトイレの中で喰べつくされている可能性が高いと思うが、そのご遺体をどうやって見つけるんだ?」
西園寺の言葉に、宝田が目を瞠った。宝田は西園寺を見て、なにか感動したような顔をしている。どこに感動するポイントがあったのか、梓藤には分からなかった。
「罠って事ですか?」
宝田が導出した結論に対して頷くと、西園寺が梓藤を見た。
「正解を教えて頂けますか? 梓藤主任」
いつもは『梓藤さん』と、最近は呼んでいるのだが、新人の前では違うようだ。敬ってくれているらしい。
「罠の可能性が高いと通報を受けている。最寄りの交番に、トイレにマスクがいると通報があったそうで、交番から警備部に連絡があったんだ。そして第一係に連絡がまわってきた段階で、既に罠だろうと忠告を受けていた」
梓藤の声に、宝田が笑顔になった。正解したのが嬉しい様子だ。梓藤は呆れて告げる。
「喜んでいる場合か……」
「あ、すいません」
「すみません」
「だからどっちでもいいだろ」
「おい」
宝田は、あからさまに梓藤を軽く見ている。だが先程のやりとりで、西園寺の方は株が上がったらしい。
「僕を置いて、話を進めないで頂きたい! ようするに罠という事は――突撃して全部倒せば、無意味になると言うことですね!」
梓藤は胃が痛くなった気がした。その実力が、嶋井には欠落している。無根拠な自信しか無い。
本当に連れてきてよかったのだろうかと思案しながら西園寺を見る。
すると西園寺は大きく頷いていた。
「俺もそう思う。突撃あるのみだ」
理知的な声で西園寺が断言したものだから、いよいよ梓藤は咽せそうになった。それを嶋井が見とがめる。
「なんです? 情けありませんね! 主任なのでしょう? 率先して行ったらどうですか? まぁ今日のところは、僕が対処してあげます」
満面の笑みを浮かべた嶋井が、車内で西園寺が少し教えただけの銃を意気揚々と持ち、歩き出した。西園寺は動かない。
「おい……あいつ一人で行く気だぞ?」
「そのようですね」
「死ぬだろ?」
「そうなりますね」
「西園寺! お前は何を考えてるんだよ!」
思わず梓藤が走り出した。西園寺はそちらの方角を眺めている。そして、そのまま尋ねた。
「宝田。お前はどうするんだ?」
「あー……じゃあ、ちょっと、見学してきます。梓藤主任の手腕を」
「そうか。早くしないと終わるぞ」
「それは、あの二人が死ぬという意味では無いですよね?」
「どうだろうな?」
西園寺は無表情で、その声音からも真意が分からない。戸惑った宝田だったが、嶋井を見捨てるわけにはいかないようで、溜息をついてから走り出した。その姿を眺めてからゆっくりと西園寺が歩きはじめる。
梓藤はその西園寺の到着の遅さに苛立っていた。
女子トイレの個室の中では、成人女性が、三体のマスクに貪り喰われいる。
最悪な事が一つあるとすれば、その女性がまだ生きている事だ。
号泣しながら、今も喰べられている最中だ。梓藤は、マスクを撃ちたいのだが、そうすると位置的に、被害者女性の頭も貫通するというか木っ端微塵にするほかない。普段であれば、即三体と女性を射殺する。特に女性は最初に楽にしてやる。それが優しさだと梓藤は考えている。あそこまで喰われていたら、どうせ助からない以上、少しでも痛みと恐怖を緩和してやりたいという思いからだ。
だが今回は、西園寺がわざわざ二人を連れてきた上、突撃させようとした。倒してしまっていいのかという不安もある。何か考えがあるのかもしれない。
未だ嘗て本物のマスクを、教育に使ったことはない。西園寺のように実地で学ぶ者は珍しくないが、今回のようなケースは、梓藤も知らなかった。
梓藤は、チラチラと後方を見る。
そこにはマスクを見た瞬間に、絶叫して尻餅をつき泣いている、もらしてしまったせいで、スーツの下がぐちゃぐちゃの嶋井がいる。まずこの嶋井の位置も悪い。この状態で梓藤が殲滅したら、嶋井の心の傷は、計り知れないだろう。
「あっ、主任……まだ終わってませんか? え? 終わりなのってマスクの方っすよね?」
「急に来て何を言ってるんだ。宝田。どうでもいいが、嶋井を運んでくれないか?」
「あ、いえ、俺は主任の見学に来たので」
「見学? 俺の何を見るんだ?」
「西園寺さんは、『早くしないと終わるぞ』って」
西園寺の言葉をそのまま口にした宝田を見て、もう排除していいようだと、梓藤は判断した。なにより泣き叫んでいる被害者が哀れだ。相当な苦痛のはずだ。
「では、まずこういう状況に置いてやる事を一つだけ説明する」
「はい!」
「お前、返事がきちんと出来たんだな?」
「……っ、はい」
「まずは、被害者女性をだな」
「救出するんですね? でも、この状況でどうや――……っ」
宝田が言い終わる前に、梓藤は被害者女性ごと、一体目のマスクを撃ち抜いた。
「救出不可能な状況の場合、楽にしてやるんだ。最重要事項だ」
「……はい」
宝田の声が目に見えて沈み、怯えが含まれた。だが梓藤は、あとは構わず、トイレに向かって姿勢を正し、二発撃って、二体を倒した。
「早い……それに、的確に頭部を……」
「何を言ってるんだ? 俺が早いように見えるのであれば、お前が遅いんだ。的確に射撃をするのは、当然だ。なんのために訓練をするんだ? 的に当ててるだろう、普通」
呆れかえって梓藤が述べると、宝田が身震いしてから、ぎこちなく笑った。
「しょ、精進します、梓藤主任」
なにやら、態度が変化した。先程変化した、西園寺に対する態度に近い。
しかし実を言えばそこまで態度を気にしていたわけではなく、単に己が新人の頃に知らなくて恥をかいた言い方をレクチャーしていただけの梓藤は首を傾げつつ、続いて問題の嶋井を見る。見事なほどに泣きじゃくっていて、鼻水をすすっている。
「嶋井」
「……っ、っ……」
「お前は勇敢だった。悲鳴が聞こえてきたトイレのドアを、迷いなく開けた。それに被害者を助けると意気込んでいたからな。またお前がドアという突破口を開いてくれたから、俺は楽に撃てた。そうでなければ、ドアごと吹き飛ばしていたと思う。ただな? 単独行動は、仲間の死にも繋がりかねないから、絶対にしては駄目だ。これはルールだ。今後、今日は四人で来たが、二人一組で動いてもらう機会が増える。その際に、片方がルールを破れば、もう片方が死ぬ可能性が上がる。だから、被害者を助けたいという気持ちがあったのなら、同僚も死んで欲しくないという気持ちもあるだろう。その感情に忠実に、以後は単独行動を控えるように」
淡々と梓藤が伝えた。感情的に怒鳴って威圧してもよかったのだが、素直に嶋井の褒められる部分は褒めることにした。褒める場所を探すのには、それほど苦労はしなかった。実際、単独行動でさえなければ、嶋井の判断は必ずしも間違ってはいない。
「お疲れ様です」
そこへ西園寺がやっと到着した。梓藤は目を据わらせた。
「遅い。どこで何をやっていたんだ?」
「ああ、このトイレの周囲を囲んでいたマスクの排除です。やはり、罠だったようですね」
「あー……それは俺が後でやっておこうと思ったのに。折角こっちで実地が出来るだろうと……」
梓藤が疲れた声を出すと、西園寺が首を捻った。
「実地? ですか?」
「違うのか? マスクを練習台にした、画期的な教育法じゃないのか?」
「俺の意図は、嶋井と宝田が、主任を馬鹿にしていたので、連れてきて強さを一度見せておこうと思っただけです。マスクに関しては……あ、嶋井のその状態は……ん……その、俺もそこまで鬼畜ではないので、さすがにマスクを教育には……まだ早いような……」
西園寺の声が小さくなっていった。梓藤は腕を組む。
「俺の強さなんか見せなくていいというか、今後嫌でも俺の戦い方は見る事になるんだから――……つまり今日こいつらを連れてきたのは無駄だったって事か? ん?」
梓藤は、西園寺に対しては圧を込めて、激怒した目をし、口元だけで無理に笑いながら強い口調で述べた。西園寺は、真っ直ぐに梓藤を見ている。悪びれた様子はない。自分の判断が間違っていると思っている気配は微塵も無い。
「無駄じゃありません!」
すると宝田が声を上げた。
「俺、主任の強さと、西園寺さんの冷静な判断と、マスクの凶悪さや、人間の無力さを知り、本当に勉強になりました」
きっぱりと宝田が言った。その純粋な言葉に、梓藤は呆気にとられて宝田を見る。
「ぼ、僕も来よかったです! マスクは恐ろしかったですが……次からは単独行動はしません!」
嶋井も叫ぶようにそう言った。涙声のままではあったが。
「……そうか。とりあえず、本部へ戻るぞ。帰ったら、西園寺は始末書を提出しろ」
「初めて始末書を書くのですが、テンプレートはどこにありますか?」
「自分で探せ!」
と、一同は、本部へと帰った。こうしてこの日、新たな捜査官二名が、加わった。