家族のネガティブ感情を引き受けない
割と、トラブルの多い家庭だった。
もっと壮絶な家庭はいくらでもあるだろうし、ひとつのトラブルも抱えていない家庭なんてないだろう。幸せな瞬間だってたくさんあった。
だけど、家の中ではたいてい誰かと誰かが揉めていて、たいてい誰かが病んでいて、とても平和とは言い難い環境だった。
子どもの頃は、どうしてか、そのことに傷ついている自分を家族に悟られたくなくて、布団の中で声を殺して泣くのが日課だった。
多くの場合、わたしは調整役だった。揉めているこちらとあちらの間に入り、こちらをなだめ、あちらをなだめ、事態が悪化しないよう自分なりに心を砕いた。
憎しみに満ちたかれらの顔はあまりに醜く、そんなときはいつも消えてしまいたいような気持ちになった。
結婚を機に実家を出て、さらに地元を離れるときは、罪悪感でいっぱいだった。本当にこれでよかったのだろうかと自問自答を繰り返し暗い気持ちになった。
いざ離れてみて、罪悪感や寂寥はつきまとえど、不意に、今わたしはなんて自由なのだろうと、ここから新しい人生がはじまるのだと、壮大な気持ちになった。
思い返せば、幸福な恋愛の渦中にあるとき、友人とのバカンス直前、外でたのしいことがあったとき、わたしの心がふわふわと浮き立っているときに限って、家族のトラブルに巻き込まれることが多かった。
まるで、抜け駆けするなよと、釘を刺されるようにして。
だから外でどんなにはしゃいでいても、心のどこかには、お前の家族はあんな状態なのにお前はそんな風でいいのかと、自分を咎めるもう一人の自分がいた。
その感覚がすっかり消えたわけではないけれど、物理的に距離ができて、ずいぶん客観視できるようにはなった。
そうあるべきというわけでなく、生まれ育った家の家族を、わたしは今でも大事に思っている。必要なときにはできる範囲で手を貸すし、もちろん助けてもらうこともある。感謝もしている。
だからといって、家族のネガティブな感情までを引き受ける必要はなくて、わたしはわたしの人生を生きていい。
いまだに何かとトラブルの絶えない実家の現状を耳にするときには、どうしても気持ちが引っ張られてしまうけど、わたしが思い煩うことで、家族が幸せになるわけじゃない。
家族の人生は家族のもので、わたしの人生はわたしのものだ。
わたしはどこまでも、自由に幸せになっていい。