彼らをヒーローにしてはいけない。でも、どうしたって物語性を考える。それは、物書きの性に違いない。
勘のいい人なら分かるはずだ。れいの事件についてだよ。でもね、前の7月の時もそうだった。とにかく僕たちはどうしたって彼らの生い立ちや動機とやらを知らずにはいられない。そういう、弱い生き物なのだから。
初めに断っておく、事件についての話はしない。ただ、警鐘を鳴らしているにすぎない。とは言っても処方箋があるわけでもない。「悪名は無名に勝る」そんな言葉がある。ささやかではあるが、唯一僕にできることは、彼らの名前を言わないことだ。
さて、物語性についてだ。
懺悔する。物書きの性だよ。
どうしたって考える。
もちろん、フィクションとしてだ。
要は、ネタになるのだ。
たとえば僕は、『正邪』という小説を書いた。
これは、2019年の川崎殺傷事件と、その悪に伝播されたように起きた元農水事務次官による、子殺しの事件をモチーフにしたものだ。
子は、ひきこもりだった。殺された彼の友人が、留置所の父親を訪ねる場面からスタートする。
「教えてください。どうして殺す必要があったのですか?」
父親は、息子が第2の○○になる。だから殺した、的なことを言うのだが、
とにかくその友人※は納得がいかなかった。
※友人と書くが、関係は微妙なものであった。
そして、それから長い長い父親の話が始まる。彼の生い立ちのようなものと、いかに自身の行いが英断であったか、などということだ。
友人は、彼と、彼が殺される前に偶然合っていた。父親に殺される、少し前にだ。友人が見た彼は、かつて友人が知っていた彼ではなかった。彼は、いわゆるエリートの息子らしく順風満帆な幼少期を過ごしていた。なのに、10何年ぶりに友人が見た彼は、そんな過去が嘘みたい様子だった。
物語は友人の目線で、彼を思い出す。
死人に口なし。彼は、この小説で、友人が聞くことでその時になんと言ったのかは分かる。しかし、心の声は分からない。なにも語ることはない。当たり前だ。
事件はフックでしかない。結局のところ友人を、「僕」として書いた一人称の小説だ。僕には同棲する彼女がいる。彼女も、物語の上で重要なパーソンだ。要は僕と、彼と、彼女と、子殺しの話だ。
思い出した。あの小説も、僕の青春だ。読み返してみることにしよう。
また、せっかくこういう場を手に入れたのだ。少し手直しをして、ここに投稿してみようかな。それで少し、報われるはずだ。3年前に書いたものだ。
と書く上で、また実際にその物語のなかでも触れるが、
僕は確実にカポーティの『冷血』の影響を受けていることがわかる。というか、事件と同じくらいその時に読んでいたのが、あまりに強烈だったので、なんとか関連させようとした。というのが、正直なところだ。
せっかくなので『正邪』から抜粋してみる。
という、親父の長セリフです笑
さいごに余談を。
作家・町田康の『告白』を読み、衝撃を受けた。それからデビュー作となる『くっすん大黒』⇒『きれぎれ』と読んだ。
面白いよ!と同時に、この経験はどこかで生きると思った。
というのは、前の前の小説の話だが、僕はあまりに荒唐無稽な物語を書いた。普通じゃない筋だ。もし、(叶わなかったが)その小説が賞をとって、それについて話すことがあれば、僕はこう話したと思うだ。「町田康を読んだからです」きっとそうだ。
影響は、どうしたって受ける。というか、過去に町田康を読んでいなければ、着想できない物語もある。朝起きて、たぶん夢でみたのだろう、たしかに荒唐無稽ではある。でも、それをアウトプットしようと思ったのだ。そしてその夢は、町田康に触れていなけば、絶対に見ることのない夢だった。という話だ。これは、「絶対」案件です笑
最後までに読んでくれてありがとうございます。
また次の記事も読んでくれたら嬉しいです(過去記事も)。それでは。