アドボカタス 『帰らないで』
『送信履歴』毎回読み切りのスピンアウト ~readerのボランティア 9~
ジュリ物語2
ワタシはreader。
読み上げる人。
訳あって、ボランティアでアドボカタスをしているの。
アドボカタスとは代弁する人。
ワタシなりの解釈では代筆ならぬ代述する人なのだけれども。
言いたいのに言えない人、伝えたいのに伝えられない人、届けたいのに届けられない人、そんな人って思いのほか、たくさんいるのよね。
私はそんな言葉にならない言葉を読み上げる。
僕が電話をかけずにバー・ジュリを訪ねたのは初めてのことだった。
ドアには目の高さにひし形のステンドグラスが埋め込まれており、中の気配が少しだけ漏れている。気配はジュリであり、またジュリの作り上げた一国の小さな脈動でもあった。
ドアノブに手をかけ引くと、カウベルがいちど大きく揺れる。直後に蓋をかぶせるみたいに収束するベルの音が消えるまで、今日も無事に抜けてきた路地の毒づいたネオンがフラッシュバックした。誘う光は一間幅の居酒屋であり、チャージ金不明のスナックであり、不穏なマッサージ店であり、化石のようなテレクラであった。中にはスリットから妖艶な太腿を突き出し、前置きなしの勝負を仕掛ける店もある。空気がよどみ、酸欠で呼吸が早くなるその道を襟をたて、息を殺してここまで抜ける。
「ふう」
「いらっしゃい」、言い終わるや否や、ストゥールから振り返ったジュリの顔が、橙色のスポット下で青く変わる。隣客の膝に置いた手が場違いを装い宙に舞い、踊って見えた。
一線を越えたわけでもあるまいに、居住まいを正し乱れてもいない髪をかき上げてジュリはバツを悪くした。明らかに、見られたくはない汚点として彼女はとらえた。
「あ、あら」
動揺を抑えきれないジュリ。言い訳しにくい状況だけにジュリはうわつき、カウンターに戻る姿につい後ろめたさを残した。これでは、起こってもいない不義を認めているようなものだ。
「なんだよ」、膝に手を置かれていた客が憤懣を吐き出すと、ジュリがカウンターの向こうで劣勢の体制を整え始めた。
「これからいいとこだったのに、お預けか?」
荒げた口調だったが、機嫌は上々でその余韻を残している酔客に平静を装ったジュリが「お得意様になってくれたらね」と憂いた色目で返した。
男は呂律の心もとない口調でなにやら返したけれども、文句に勢いはなかった。金を使わない者はいい思いにありつけない、さしづめそんな過去の経験が暴言を封じ込めたのだろう。
ジュリの瞳孔が僕の顔色をかすめるように窺ったが、視線はすぐさま酔客に移った。そして言った。
「お客様がおみえになったので、お仕事に戻りますね」
言い方に、夜の女らしからぬ几帳面で毅然とした意志がこもっていた。これまで何度か彼女と話をしてきたが、そんなジュリにふれたことはない。なんとはなしに理解はしていたものの、秘めていたものをさらけ出されたようでうれしくもあり、また僕以外の第三者が耳にしたことでおもしろくもない。
勝手なジュリ観を抱いていた。
男にだらしなくふしだらでルーズな女と自らを卑しめながらも、実はそれがつくられたものだと過去の来店で描いていた彼女像。ジュリの深層はわかりようもないけれども、彼女だって夜の世界で生きているのだ。望むものもあれば現実とのギャップに苛まれることもある。そのくらいの察しはつく。嫌な客から罵声を浴びせられることもあるだろう。ジュリのプライドが表に立てば、キャバ嬢ホステスを蔑む連中からのとめどもしらない罵詈雑言の雨あられが容赦なく降り注ぐことだって考えられないことではない。
夜の女は、身を護る術を身につけていくものだ。
ある女は毒舌で客を打ち負かし、ある女は色香で惑わす。
またある女は自分を蔑み計算づくで客を持ち上げる。自分を貶めれば客の機嫌が上を向く。そこに生じるわずかな上澄みを口に含み、日々の営みの糧として我慢した不快をちゃらにする。ジュリはこのタイプだ。
上機嫌に声をあげる男の向こうに、礼儀正しく黙してカウンターに目を落とした男がいた。空席はあるのに酔客の隣に座っていたところをみると、男の部下だろうか。僕が店に入ってきても、ジュリがそそくさとカウンターに戻っても、耳をそばだてただけで顔色は変えなかった。姿勢もかしこまったまま動かずにいる。ただ、忘れたころにグラスに口をつけてはカウンターに戻し、また飲んではカウンターに戻す、その所作を機械的に繰り返していた。
僕はその男の背中を抜け、カウンターのいちばん奥まったストゥールを引き腰を降ろし、ジュリが注文を取りに来るのを待っていたのだった。そこは、バー・ジュリでもっとも光が届かない席。天井から降りる電球が傘のせいで肩から脇にかけて明暗を分ける。光を受けるカウンターとは違って、ジュリの側からこちらの表情をうかがうのは難しい。
「どうしたの? 連絡もなくとつぜんに」
しばらくしてジュリが注文をとってからカウンターから身を乗り出し、声を潜めて訊いてきた。いつもの下卑た言い方ではなかった。
「なんとなく」
ぼくの対応にジュリは無音で“なんとなく”と唇で反芻しながら疑問に首を傾げてみせた。心配顔が消えないのは、謂れのない不埒で見透かされたと思われることを懸念しているからに違いなかった。
それからジュリは、「そう」と気怠そうに息を吐き、僕の出方をうかがった。彼女は僕の放った言葉の意図をなぞろうとしているのだと僕は思った。僕の「なんとなく」には、いい意味で解釈すれば「会いたかった」が裏側に潜んでいるし、悪い意味では「監視」を匂わせる。
ジュリの負い目は、悪いほうの意味を拡大させていた。
だから、ビールを1本だけ飲んで「帰る」と席を立った僕にジュリは必要以上に敏感に反応した。寡黙な男は目玉だけで僕をとらえ、上機嫌の上司は「おっ、もうお帰りかい? あ楽しみはこれからなんだけどさあ」と気をもたせたような、それでいてまとまりのない嘲謔(ちょうぎゃく)を能天気に口にした。
立ち上がって背を向けた僕にジュリの切なさが投じられている。彼女は僕を引き留めようとしている。
それでも。
ドアの前で戸惑い、ドアを開けてからも一度躊躇した。そのたびに振り向こうとしたけれども、思いとどまった。振り返れば切なさをこぼし始めたジュリを目の当たりにすることになる。
readerは読んだ。
「帰らないで」
ジュリの本心だった。
僕はジュリの思いを振り切り、ドアを閉めた。