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映画「君たちはどう生きるか」

この記事は映画「君たちはどう生きるか」の内容に触れています。まだ観ていない方はご注意ください。


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宮崎駿監督作品「君たちはどう生きるか」を観た。
物語は唐突に終わり、映画館の電気が点き、現実に放り出された。
駅に向かう道すがらも、解釈に困り頭の中はぐるぐるしていた。
意味がわからないことはたくさんあった。
でも、1日経ち、2日経ち、そのわけのわからない世界こそ、私にとっては重要な要素だと思い至った。

ということで、この記事は、映画の考察でも解説でもなく、ごく個人的な感想(映画を観て考えたこと)です。


映画を観て思い出したのは、14歳の頃。
中学生の時だ。

私にとって中学時代は、過去に戻れるとしたらいつに戻りたいかと聞かれて、この頃だけには戻りたくないと答えるくらい、楽しくない時期だった。

何があったわけでもない。
むしろ何もない。
運動部だった。仲のいい友だちもいた。
学級委員をやったこともあるし、作文を褒められたこともある。
でも、毎日をつまらないと思って過ごしていた。
仲良しグループの輪から外れないように、教室で浮かないように、「普通の子」で居ることが何よりも重要だった。だからこそ毎日が窮屈だった。

なんてことはない、いわゆる思春期だ。

でも私は、その頃を「思春期」で片付けられないでいた。毎日がつまらないと思いながらも、抗うことをせず、己に正直に向き合うこともせず、表面上だけ取り繕い、従順に、うまいことやろうとしていた自分の在り方が許せないでいた。
だから14歳のあの頃は、できるだけ思い出したくないのに強い存在感を放つ、心のしこりだった。

でも映画を観て、その頃の自分を許してあげてもいいんじゃないか、と思った。

作中で主人公が迷い込んだ世界は、実に不条理で、脈絡にが不明瞭で、解釈に困るものだった。つまり、わけがわからなかった。
しかしそれは、少年と青年のはざまにある主人公の心情を表すための意図的なカオスだった(と私は解釈した)。
宮崎駿が、あえてそういう表現を選んだのだ(と私は解釈した)。

そう思い至った時に、誰にでもどうしようもできない時期ってあるんじゃないか、そう思った。

14歳の自分はその渦中にいたのだ。
未熟さゆえに自分でも説明できない世界に迷いこんで、それでも精一杯、居心地の悪さと闘っていたのだ。時を経た私にとって、その闘い方はまったく気に入らないものだったけれど、そうやって足掻いていた自分を認めてあげてもいいんじゃないか、そう思った。

映画には解釈しきれない展開やシーンがたくさんあった。
でも、それに巻き込んでもらえたからこそ、14歳のあの頃の自分を許すことができた。

観てよかったと思った。
忘れたくない映画だ。

おわり

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