増やされる感情−ゆっきゅん『生まれ変わらないあなたを』で行われる「再記述」について
0.はじめにー歌われることによる祝福
例えば電車の「ゼクシィ」の広告から発せられる、結婚というものはすばらしいからこそ、工夫してもっと良くしていきましょう、というメッセージ。労働の場にある、組織に貢献できるよう"成長"すべき、という暗黙の了解。恋愛や性愛を経験し、パートナーを獲得してこそ成熟した大人であるという風潮。生活の中は社会的な規範による、「規範の中でより良くあれ」という要請に息が詰まるほど満ちている。そして、こうした規範の要請に従わない、従えない状態は、容易に望ましくない状態と見なされうる。しかし、私たちの現実は(たとえ規範の中でなくても)つねにより良くあることができるようなものではない。そもそも「このようにあるべき」というかたちを社会、ひいては他者―いくら親密であったとしても自分以外の誰かの―まなざしによって押しつけられてそのまま引き受ける必要もない。ゆっきゅん『生まれ変わらないあなたを』においては、望ましいあり方が想定される社会において、規範的ではない感情、感情そのもののままならなさを抱えて、「あなたがあなたのまま」生きることが歌われている。こうした歌詞によってもたらされるのは規範の中で祝福されえない状態への祝福である。
1.親密さの最上の形のひとつとしての友情
ゆっきゅん自身が、児玉雨子+ゆっきゅん「ラブソングのその先へ」(「現代思想」2024年6月号)で〈友情の歌はまだまだ足りていない気がする〉と友情の歌の必要性を述べているのが反映されているかのように、『生まれ変わらないあなたを』の楽曲は親密な関係を歌っていてもいわゆる「ラブソング」に分類されない、友情の楽曲の割合が高い(友情が主題として置かれていることが明確な曲だけ挙げても「幼ななじみになりそう」「プライベート・スーパースター」「年一」「日帰りで」「いつでも会えるよ」と十二曲中五曲)。ラブソングより友情の歌の方が多いことからも、恋愛感情が歌われやすい現状において、友情における感情を楽曲の中に切り取るという明確な意識を見て取ることができる。
こんなにも友情を歌うことが意味を持つ理由を考えるためには、愛と呼ばれる親密な関係性の中に潜む規範について目を向けるべきだろう。異性愛規範や強制的異性愛といった言葉の存在からもわかるように、恋愛や性愛といった個人間の親密なあり方も容易に規範に転じうるし、こうした語の中で「愛」という単語が暗黙のうちに恋愛・性愛を指示することで、「愛」なる感情の形が単一的なあり方、主に恋愛として想定されているとも言える。〈作詞がラブソングに回収されていく誘惑に作詞をする人は抗ってほしいし、解放されてほしい〉とゆっきゅんが言うように、楽曲の歌詞では、恋愛を主題とするものが支配的である現実がある。「愛」という言葉を歌詞の中に見つけてそれを恋愛であると読み取らない方が困難であるかのように思われるほどに、恋愛は素晴らしい親密さ、"愛"として歌われつづけてきているのだ。しかし、『生まれ変わらないあなたを』の楽曲の歌詞の中では「愛」は必ずしも「恋愛」を指示しないのである。「プライベート・スーパースター」の中で
と叫ばれる対象との親密な関係、愛は〈僕がスーパースターになっても友達でいてくれる?〉と呼びかけられるように、まぎれもない友情として描かれている。「君」と出会えたことで〈悲しみも もう怖くないんだよ/喜びも もうさみしくないんだよ〉と信じることができるようなかけがえのない親密さが友情として描かれている「プライベート・スーパースター」では、恋愛にほぼ寡占されていた二者関係における親密さの最上の形としての「愛」の地位を友情が奪い返している。
他の楽曲の歌詞からも、必ずしも親密さの形の最上位に置かれる関係性が必ずしも恋愛ではないことを読み取ることができる。例えば、「年一」では、歌詞の主体は〈これどうしよ お揃いのペンダント/受け取ってよ お願い今すぐつけて!〉と、クリスマスの待ち合わせに来ることができなかった恋人に渡す予定であったお揃いのペンダントを友達に渡す。恋愛と友情が感情の重さとして等しく、それゆえに恋愛が友情に置き換え可能であるかのように。〈同じ人に恋 焦がれたよね 本気で〉という過去を持つ二人は、恋愛ごときでは崩れない強固な友情を築きあげている二人でもある。「いつでも会えるよ」ではおそらく友人の結婚か同棲が理由で(「いつでも会えるよ」と言われていることから、関係性の悪化が原因ではなく、〈君は未来を愛すると決めた〉と「君」のライフステージの問題であることが暗示されている)ルームシェアを解消した友人のことを〈好きな人より大事なのに約束ないともうダメかな?〉〈君が僕の二十代〉と表現し、友情による親密な感情が、ときに恋愛より重要であることが歌われている。こうした楽曲の歌詞から読み取ることができるのは、親密さの最上位の関係性として友情が置かれていることである。
しかし、ここで注意する必要があるのは、『生まれ変わらないあなたを』の中で友情が親密さの最上の形として描かれていても、友情のみが親密さの最上の形として描かれているわけではないということである。「次行かない次」で〈冬服の似合う夏生まれで/ルール知らないスポーツ見て泣いて/わざとらしくて嘘もつけずに/七月をなながつって読まれる度に/君と生きてるって感じたの〉と歌われる経験の個別性から生まれる強い親密さは、明らかに恋愛感情由来のかけがえのなかった関係として表現されている。友情をただひとつの親密さの最上の形として表現すると、友情もまた規範的なものとなってしまうが、「生まれ変わらないあなたを」で表現される親密さは単一の規範ではない。恋愛が親密さの最上の形として表現され続けている中で、友情が数ある親密さの最上の形のうちのひとつとなることによって、実は親密な関係性のあり方が複数あり、それらに本当は優劣などないことが明示されている。
それでもまだ一般的には恋愛が優位に置かれがちである。例えば岸雅彦が『断片的なものの社会学』で結婚を祝福することについて、
と述べるように、実際には恋愛(岸の文章は同性婚が制度化されていない現状における制度上の結婚の話題なので異性愛のみの言及となっているが、ここでは当然異性愛に限定しない)には祝福が用意されている―婚姻でなくとも、恋人ができた人に「おめでとう」と軽い気持ちで声をかけるように―が、一方で友情は特段祝福されることのない関係性であり、社会的な制度による保障もない。恋愛から疎外されることは、恋愛に伴う祝福からの疎外の連続を意味するため、人に欠落感を抱かせるに充分な痛みをともなうものでもある。社会の規範の中では友情に重きが置かれることがないからこそ、恋愛に疎外される人々が存在する中で、社会的な制度による後ろ盾や祝福が与えられていない感情である友情をゆっきゅんが『生まれ変わらないあなたを』の中で親密さの最上の形のうちのひとつとして表象することは、自らの親密圏において恋愛を選ばず友情を選ぶ人々の生の祝福であり、異性愛規範ならぬ恋愛規範に対する撹乱として機能するのである。
2.クィア・リーディングへの開かれ方
『生まれ変わらないあなたを』は全ての楽曲をゆっきゅんが歌う形を取っている(「プライベート・スーパースター」も君島大空と二人で歌う形である)。にもかかわらず、ほとんどの曲で歌詞における主体もしくは主人公の属性に歌唱者であるゆっきゅんを投影して受容することはむしろ難しい。仮に主体および主人公に代入可能な存在があるとしたら、歌詞を受け止める「わたし(たち)」だろう。これは収録曲の多くが物語のような記述の形を取っており、描写される主体の属性や置かれている状況をある程度絞り込むことができること、そして物語的な歌詞の主人公に位置する人物が決してひとつの像を結ばないことによる。例えば「ログアウト・ボーナス」の退職したばかりの主人公や、「lucky cat」のカラオケで片思いする主体、失恋の痛みを反芻しつつあえて前に進まないことを選ぶ「次行かない次」の主体をひとつに統合するよりは、それぞれの物語があるとしたほうが受け止めやすい。アルバム曲の歌詞での主体のありようがばらばらであるからこそ、わたしたちは好きなように自分の状況や感情、過去を投影して、自身の感情の再発見や追体験をすることができる。
だからこそ、『生まれ変わらないあなたを』の楽曲はクィア・リーディングの可能性に開かれてる。先に曲の主体の属性の特定しがたさについて触れたが、歌われる「君」との関係性は細かいディティールで書き込まれていたとしても、「君」のジェンダーを特定することもまた難しい。異性愛規範を前提にして歌詞を読み解く場合、歌われる二人称は主体の「異性」だと推測可能だが、そもそも歌詞の主体・主人公のジェンダーが固定されていない以上、異性愛規範を前提として「君」のジェンダーを読み解くという行為がある程度無化される。
「君」への感情が恋愛であることが示されている「lucky cat」「次行かない次」を例にとってみよう。「lucky cat」では歌い出しの〈じゃあ1曲目 どれ選んだら 最短で心開ける?〉から、二人でカラオケに来ることがおそらく初めてであること、〈君の歌が終わるまでに僕の恋に気づいてくれない?〉〈二人はこの部屋を出るまでは両想いでいたらいいよ〉から、「君」との関係は「僕」の片思いであり、「君」にとって「僕」は友人と思われているであろう、と読み取ることができるが、「君」は具体的な像を結ぶことがない。「次行かない次」では「あたし」は恋愛関係にあった「君」に別れを告げられているが、回想される「君」との思い出は〈空いたリュックのジッパー/もう閉めてくれないの?〉〈調べればわかるような話/もう聞いてくれないの?〉〈冬服の似合う夏生まれで/ルール知らないスポーツ見て泣いて/わざとらしくて嘘もつけずに/七月をなながつって読まれる度に/君と生きてるって感じたの/誰もしないようなおまじない信じて/同じ映画を何回も観ていた〉とかなり細かいディティールが書き込まれているものの、「君」の属性についてわかることがあるとすれば、おそらく関西出身であること(関西では「七」を「なな」と読む)くらいで、やはり「君」のジェンダーを特定することは難しい。一人称の人物も二人称の人物もそのジェンダーが固定されていないだからこそ、『生まれ変わらないあなたを』の恋愛の曲は必ずしもヘテロロマンティックなものとして読む必要はなく、クィアな恋愛にもその読みが開かれている。
また、恋愛の主題に限定せずとも、曲によってはクィアの体験や過去が歌われている、と読み解くことができる。「シャトルバス」は式典の曲で、席次が決まっていることからおそらく結婚式の曲だが、〈ああ みんな 笑顔で/はあ なんか 綺麗な感動/少しトイレで座ろ しばらくいよう〉〈知りたくないあたしにも出合いそうで帰ろ〉から、〈幸せでいて 邪魔したくない〉と思っており、友人の幸せを祝いつつも、歌詞の主体は結婚式に対して居心地の悪さを感じている。ヘテロロマンティックな恋愛が家父長制に回収されていく結婚式の場に対するある種の馴染めなさが描かれており、結婚を選べない/選ばないクィアな人々が結婚式に参列した際に感じうる、その祝福が自分には決して降りかかることはない、と突きつけられるような感情を重ねて読むことができるだろう。ほかにも、高校の同じ部活の人と再会が描かれる「遅刻」では〈どっか諦めたように普通を頑張ってたよね〉〈どうか諦めたような目で明日を見ないで〉から、「君」は高校時代は「普通」になろうとしていたクィア、〈なんかしてあげたかった/望んでないだろうけど〉という「私」もクィアであり、「君」が〈本当の気持ちを言える〉ことを諦めないで済むよう祈っている、再会によってクィア同士の関係性が新しく始まりかけている、と読むこともできる。
友情の歌ももちろん不足しているけれど、クィアが自身の感情や経験を投影することのできる歌もまた不足しているのではないか? ゆっきゅんのTwitter(現:X)に〈そういえば作り終えてから気づいたことだけど、これは色んな人生の局面からクィア・テンポラリティを見つめたアルバムになっていると思う〉という投稿がある(https://x.com/guilty_kyun/status/1834136786668527957?s=46&t=RBy9yPcfmcWMjYk7uYoivQ)。「シャトルバス」「いつでも会えるよ」は、クィアな人々が、そうでない人々と同じ時間を歩まない、歩めないことの曲として読むことができるように、『生まれ変わらないあなたを』はクィアな人々が自身の感情や経験を投影するよりどころとなることのできるアルバムでもある。
3.結びー人間の生の可能性の再記述としての『生まれ変わらないあなたを』
ここまで、恋愛規範に対する友情の位置付けや、クィア・リーディングに開かれている、という反異性愛規範の観点から『生まれ変わらないあなたを』を読み解いてきた。異性愛規範に与していないアルバムであるだけでなく、わたしたちは誰かの思う理想を生きなくてもいいということ、そもそも人として「あるべき姿」という単一の理想などない、というのが『生まれ変わらないあなたを』に通底する価値観なのではないだろうか。
人間に「あるべき良い姿」のようなものがもしあるとするならば、無職であるよりは就労できている方がよいし、祝福の場では素直に祝福をすべきだし、心の傷は癒えるべきである、とされるだろう。就職や結婚は祝われるし、心の傷を引きずることは周囲を心配させうる。先に『断片的なものの社会学』から引用したように、「良いできごと」として祝われるものごとの裏側には、祝福されず暗黙のうちに「良くない」とされる状態がある。
そして、『生まれ変わらないあなたを』には、無職であったり(「ログアウト・ボーナス」)、祝福の気持ちがないわけではないものの、結婚式の空間に馴染めなかったり(「シャトルバス」)、主体的に失恋の傷つきを引き受け続けることを選び取ったり(「次行かない次」)と、歌詞の主体が「良くない」とされうる状態のままでいたり、「この状況ではこのようにあるべき」と規定される感情ではない感情を抱いている楽曲が複数ある。
「次行かない次」の失恋したばかりの主体は、〈次行こ次って言われても/バスケをやってたわけじゃない〉と、次の恋をして失恋を忘れたほうがよい、という呼びかけにはそうしたすぐ切り替えて次に向かう態度は自分になじむものではない、とする。その理由は、前の恋人が忘れられないからではなく、
と、失恋という傷つきの感情も、大切な感情の一つで、傷つきからすぐに癒えてゆくことではなく、失恋について、自分が納得いくまでその痛みを選びとることを主体的に選んでいるからである。ここでは、傷つきからから回復することが、必ずしも個人にとって喜ばしい状態ではない、という傷は癒えるべきである、という価値観と真逆の選択がなされている。痛みを痛みのまま、そこから回復しないで自身の感情と向きあうことも、そのようにある物語として歌われ、そのように人間の感情がありうる、起こりうる可能性として描かれることで、傷つきのまま痛みさえ大切な感情として引き受ける行為に、ささやかな祝福があたえられている。
また、「ログアウト・ボーナス」も暗黙のうちに「良くない」とされうる状態を、わたしたちに起こりうる可能性の物語として書き起こすことで、「大人」に想定される望ましさとは別のあり方を示す曲である。曲中の無職の主人公は、〈帰りたいところはみつからない〉〈くたびれた心じゃ傷もわからない〉〈ああ フードコートに同い年がいない/どんな不安をかかえたらいいの〉と、無職であることの不安の形さえとらえられない、帰りたい場所ーこの逃避行を終えて戻りたい日常ーもないような、辞めた職場で疲弊した大人として描かれる。仕事を辞めて〈念願の湖〉に向かうこの逃避行は〈ログアウト・ボーナス〉と呼ばれる。〈曜日感覚頑張って手放して 掴むは平日の喜びよ〉と表現され、〈ログアウト・ボーナス 誰にも何も思われたくない〉と繰り返し歌われるように、それは逃れようもない労働と隣り合わせの日常から「ログアウト」することで、誰かのまなざしや、「曜日感覚」のような押し付けられた時間感覚から自分自身をなんとか取り返そうとするかのようでもある。主体の現状や心境は、曲を通じて「改善」も「向上」もすることがないが、ただ日常の中で擦り切れた大人が、日常から離れて自分自身に立ち返ろうとする様に対して、最後に〈生まれ変わらないあなたを私が見てる〉と突然第三者の視点―ここで、「私」という一人称が楽曲の主人公から歌唱者であるゆっきゅんになる―に切り替わる。ぼろぼろの状態から「生まれ変わらない」こと、劇的に良くなりはしないという現状を、第三者の「私」≒「ゆっきゅん」が寄り添うかのように、ただ見ていることが示されることで、いまはまだこのままでもよい、と自分自身を取り戻す過程の状態であることもまた、そうした人生の可能性として記述されている。
こうした、『生まれ変わらないあなたを』で描かれる感情や状態が、「理想的」とされうるようある種の人間像から距離を置いていることは確認してきた通りである。むしろ、規範の中で祝福されえず、暗黙のうちに否定されてきた感情や状態を人間の生に起こりうる可能性そのものとして記述されなおしている。ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』において、ジェンダー規範をジェンダーの"増殖"において、どのように置換してゆくのか、という文脈で、
と記している。『ジェンダー・トラブル』に示される規範との対峙の仕方は、ジェンダーを更地として無化することではなく、あることのできるジェンダーのあり方を増殖させ、規範を攪乱してゆくことである。そこでは、文化的に葬られてきた可能性を記述し直してゆくことの重要性が語られている。明確に差別構造が存在するジェンダー規範の問題と同一視するわけではないが、ゆっきゅんが『生まれ変わらないあなたを』における人生に起こりうる可能性の数々の描写は言祝がれることのない感情や状態の再記述であり、規範的な感情のあり方に対する攪乱として機能する。「あるべき姿」を押しつけられる息も詰まりそうな日常で、わたしたちが後ろめたさを持たずに抱くことのできる感情を増やしてくれるアルバムとして『生まれ変わらないあなたを』は存在するのである。