孤独な道で

素敵なものに触れた時
対照的にそうではない自分が見えたとしても
責める必要なんてない。

別の線上にある比べようがないものの虚像を
自分と同じ線上に錯覚して勝手に優劣をつけただけのことだから。

どうして私たちは
同じ一つの線の上で競走していると思い込んでしまうのだろう。

本当は一人一人別の線の上にいるのに。

もらった身体。生まれた場所。時間。見たもの。触れたもの。出会った人、されたこと。聞いたもの。感じたこと。全く同じでない限り
同じ線は生まれない。
生まれた瞬間
後にも先にも自分しか存在し得ない孤独な道で
有限の旅が始まる。

だけど私達は共通の言語を使って他者と世界を共有しようとする。
他者の言葉を使って他者の線上の景色を想像する。
それがいつしか、みんな同じ線上にいるという大きな勘違いを確信に変えていく。

それぞれの世界線で見る太陽を
「赤いね、綺麗だね」
なんて一緒に眺めている気になって。

相手の世界線では「太陽」と呼ばれる「月」かもしれないのに。

「燃えるような赤」と形容したその色を
もし相手の世界線で眺めることができるとしたら
全然違う色として知覚するのだろう。

太陽の美しさに心が動いたのなら
自分しか存在し得ない孤独なこの世界線で
ただ静かにその喜びを抱いて
そして、またひたすらにただ、ただ、歩んでいくんだ。

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