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本『もっと知りたいバウハウス』

 ビルの壁面に縦書きで貼りつけられた丸いゴシック体のアルファベット「BAUHAUS」。たしか17歳の頃、小遣いを工面して買い大切に眺めていたフルカラーA5版、バラエティに富んだ近年の美術の潮流を書いた『現代美術入門』の中、小さいモノクロ写真で見た気がする。

 私は、バウハウスは、一時期にあったドイツのデザイン様式だと思っていた。
 そして、何かの本で見た、四本脚ではない少し弾力のあるカーブしたスチールパイプでできた脚をもつ椅子。そこから、バウハウスは機能美を追求した様式であろうと、何となく想像していた。その機能美は冷たくも、私にはしっくりくるものに違いなく、いずれ行き着いて向き合うものだろうとも、漠然と思っていた。父は建築設計が仕事だった。実家が引っ越す前に、父の本棚からこっそり抜き取って持って来た数冊の70年代の建築雑誌、『SD』や『建築文化』にもバウハウスのプロダクト・デザインが色濃く反映されていると感じていた。父が向き合っていたものだから、当然いずれ私も向き合うことになる、そう思っていた。これは私の中に時々ある感覚だ。

 この本を読んで知ったのは、バウハウスは学校であり、その学校は実に十四年という短い期間しか存在しなかったこと。そして、全学生は百五十人足らずということだった。設立は想像以上に古く、第一次世界大戦後の1919年のドイツで、その時代に、現在につながるモダン・デザインの源流があることに驚く。

 また、バウハウスは、一つの完成された何かではなく、まして様式でもなかった。逆に様式として模すことは恥ずべきこととされていた。
 バウハウスのカリキュラムは繰り返し練り直されていたが、基礎教育の課程後に、金属、陶器、家具、壁画、版画、彫塑、舞台等のいずれかの工房に三年間所属し、マイスターから造形の基礎を学ぶことを義務づけられていた点は一貫していた。また、追究された造形は、建築に集約されるというのが、バウハウスの思想だった。

 こほ本のまえがきには、「造形の本質、形と色彩の根本原理、「人間」という存在を多角的に捉える壮大な試行だった」と書かれている。当時の一流の芸術家たち、クレーやカンディンスキー等も講師として参画していた。講師は全力で、持つものを学生に伝え、常に学生とともに議論し、試行錯誤を繰り返した。その「試みと失敗と発展と葛藤と障害と議論」がバウハウスであったという。
 バウハウスの機能美は、ドイツ人の几帳面な気質が自然に帰結した結果と思っていたが、実際は試行錯誤から作り出された流れだったことがわかる。バウハウス以前は、装飾こそがデザインの中心であり、人々の憧れだった。バウハウスには、機能美を追求した大量生産できるプロダクト・デザインによって、労働者にこそ使われる製品を作りたいという思想があった。装飾から機能美へと革命を起こしたのだった。

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 結局、バウハウスは、思想のもと教育をも支配下におくナチスの台頭により、強制捜査を受け、閉鎖に追い込まれた。しかし、そこで育った財産である「人」は、アメリカをはじめ各地に散り、バウハウスの考えを継いで、それぞれのやり方で教育や創作に携わった。その流れが、脈々と現在のプロダクト・デザインにつながっている。私たちは時間という淘汰を経た機能美を感じているのだろうが、実は既にバウハウスの初期に、そぎ落とされたピースは生まれていた。

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Ⓒ青海 陽 2020
書籍:もっと知りたいバウハウス 杣田 佳穂 東京美術 2020


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青海 陽
読んでいただき、ありがとうございます!☺ かつての私のように途方に暮れている難病や心筋梗塞の人の道しるべになればと、書き始めました。 始めたら、闘病記のほかにも書きたいことがたくさん生まれてきました。 「マガジン」から入ると、テーマ別に読めます(ぜんぶ無料です)🍀