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難病者のトリセツ 自治体難病者アンケートへの回答〔後編〕

住んでいる自治体からの「障害者基礎調査」アンケートの続きです。
ブツブツ言いながら答えを書いていて見えてきたのは、実は調査者である自治体も一般社会も、難病者の現状をほとんど知らないのではないかということでした。そのくらいに、アンケートの質問にズレを感じました。
アンケートの回答としてはあまり意味をなさないものかもしれませんが、当事者である私が、その感覚を一度言葉にすることは意味があるのかもしれないと思って、続きを書いています。


Q.悩み事や心配事を家族や親せき以外にどのようなところに相談していますか?

このあたりに難病者特有のデリケートな気持ちの動きがあるのです。この質問は、家族や親せきに相談できることを前提としていますよね。この点が既に実態と違っていると思います。

難病者の日常の体の異変や違和感や不調は、原因も解消法も見つけられないものです。だから、体の状況を家族に伝えることは、家族をいたずらに不安にさせるだけであることが多いのです。家族は身内であることから、他人よりも余計に複雑な心情がお互いにあるのは、家族間の介護などでもよく言われることですね。

難病者は、「理解してもらうのが難しい人」に「家族」を挙げる人が多いのではないでしょうか。

回答の選択肢としては、「福祉事務所」「障害者生活支援センター」等に並んで、難病の専門機関としてかろうじて「難病情報センター」がありました。ここは、難病者の状況をよく理解してくれそうです。けれども、きっとここは発病や治療に伴う大きな情報提供を受ける場所であって、日常のことや予後や備え等の個人的なことについて、相談できる場所ではないと思います。

私は「相談できるところはない」と回答しました。

Q.相談できるためにどのような体制が整っているとよいと思うか?

自由記述欄に次のように書きました。
「どこがどんな相談に乗ってくれるのかがわからないため、わかるように広報してほしい」
「本当に困る前に、将来のことなどを少しずつ相談したいのだが、気軽に相談できる感じの場所がない」
「難病者は、治療の対象となる主症状以外に、治療できない日常的な体調の異変や違和感、不快感、心理的な不安感、更に服薬による副作用や不快感を抱えている。しかし、これらは他人には見えにくく、また人に相談しても、わかってもらえるとは思えない」

そう、相談支援体制の有無の問題だけではなく、「理解されないであろう」というあきらめ感が、難病者が相談機関に至らない主な理由なのだと思います。

Q.行政の福祉サービスの情報提供について、自治体はどのようなことを充実すべきか?

「難病=福祉サービス利用ではない。もう少し広いニーズを相談できる場がほしい」「福祉サービスを利用しないレベルで生活している人の方が多い」
「将来困ることや、その備え等をイメージできる場を教えてほしい。」

回答しながら気づいたのは、難病は、人に伝えにくく理解を得にくいのかもしれない、ということでした。これまで「難病」というカテゴリーで改めて自分を考えたことがありませんでした。しかし、一つずつの問いを考える際には、私ははっきりと難病者の立場で生きているのだと気づきました。

Q.難病を理由として差別や人権侵害を受けていると思うか?

後半は、権利擁護の項目です。
ここ数年は、リハビリにより私の歩行はだいぶ安定してきましたが、足にマヒがあるため、以前は転ばないように杖をついてゆっくり歩いていました。
その結果、後ろから舌打ちされることなどは日常的にありましたし、ときどき突き飛ばされて転倒することもありました。転んだ時に、声を掛けたり手を貸してくれる人はいませんでした。逆に笑われることはありました。

「電車の中で身体障害者や高齢者や妊婦が優先席の前に立つと、座っていた若者が一斉に寝たふりをした」という冗談のような話はよく聞きますが、本当です。杖をついていても、席を譲ってもらえることは稀です。
体が歩行困難状態の場合、優先席の前で片手に杖を持ち、片手で吊革につかまっているのは、身体的にとても辛いのです。むしろ、ドア横の手すりのあるすきま間で、壁か手すりに寄りかかっていた方が楽です。そして何より、寝たふりをする人が目に入ったりすると、嫌な気持ちになります。だから私は、敢えて優先席の前には行かないようにしていました。

私の経験は大したことはないと思います。難病者や障害者は、こんな思いを毎日毎日しています。それほどまでに、退院後の社会生活は優しくはありませんでした。

回答の選択肢は「差別や人権侵害をたまに感じる」としました。自由記述の欄に「街中での不快なできごとが日常的にある」「ヘルプマークはまったく知られておらず、意味がない」と書きました。

自分の意見を改めてはっきりと意見を述べようとすると、私は思いのほか、難病者、障害者として社会に対峙する姿勢になることに気づきました。

Q.日常生活を送る上で、難病に対して理解を得られていると感じるか?

回答は「あまり得られていないと感じる」を選択しました。
難病は外から見てわかりにくいため、理解されにくいのだと思います。難病者には、周囲が想像する以上に、痛みや、強い倦怠感や、疲れなどがあります。同じ病名でも個々の症状によっても様子は大きく違います。
また、その日の体調や様々な条件によっても体の状態は違います。難病者自身でも体調を把握しにくく、コントロールできずにいます。これを周囲に伝えていくのはとても難しいことなのだと思います。

多くの人は、何度も伝える努力をしてきたと思います。でも、過剰な心配だったり、「気持ちの問題」と言われたりと、正しい理解を得られることは少なくて、次第に伝えることをあきらめていきます。
「難病者の多くは、自分の体調不良に耐えている」ととらえても誤りではないと思います。そして体調に重ねて、もっと辛いのは、理解されない気持ちを抑え込んで我慢していることなのです。

Q.理解を深めるために何が必要か?

「まずは、見えにくい病気や障害があることを、広く広報していくことだと思います。しかし、実はそれ以上に必要なのは、「互いの違いを認め合う地域住民の気持ち作り」だと思います。他の人をおもんばかる気持ちが自然にあれば、難病だから、障害だからとアピールする必要はないと思います。現状では、地域住民同士がギスギスしていて、けっしてよい雰囲気の自治体とは言えないと思います」

Q.周囲に合理的配慮を求めたことがあるか?

選択肢は「ない」、理由として「配慮を求めることを言い出しにくかったから」を選びました。

実際は難病になり退院した直後に、勤めている団体に働く上での配慮を申し出たことはありますが、対応してもらったことはありませんでした。

生活の中で配慮が必要な場面は数多くありました。でも駅員に店員に窓口の人に一般の人に、その都度それを伝えることにどんな意味があるのでしょうか。伝えられたそれぞれの人は、提供できない配慮についてのクレームを受け止めるだけであって、仕組みとして、組織として配慮を提供できないことには変わりはありません。まして、優先席の前で、スマホを見ている若者に「席を譲ってもらえませんか?」と言えというのでしょうか。

お互い不快な思いをしたくないから、その人に何もできないのがわかるから言わない、というのが現実です。

逆に教えていただきたい。どこにどう配慮を求めればいいのでしょうか。それをいつまでやり続ければいいのでしょうか。

私には、毎日のことなので配慮を求めて形にした例が、二つだけありました。

ひとつはターミナル駅にある公営駐車場。実は数年間利用してから、身体障害者手帳があると駐車料金の半額減免があることを知りました。改めて駐車場のあらゆる看板等をすべて確認しましたが、どこにもその旨の表記はありませんでした。そこで駐車場を運営する本社にこの旨を伝えました。その結果、数カ月後に入り口の看板に大きく表記してもらえました。

また、毎日リハビリで通っていたスポーツジムの駐車場が通常料金でしたが、リハビリで通う主旨では合理的配慮が欲しい旨本社に連絡しました。その結果、その店舗のみ障害者は手帳の提示により駐車料金を免除してもらえることになりました。

いずれも身体障害を理由としたものであり、合理的配慮とバリアフリーの考え方が浸透してきたタイミングだったので、理解を得やすかったのだと思います。
歴史の中では、障害者団体が権利や配慮を強く求めざるを得なかった経緯があります。そのようなイメージから、「障害者はうるさく権利主張する」と思われる側面があるようです。私ももしかしたら、既に「うるさい障害者」になっているのかもしれません。

Q.障害をどのように表記するのがよいか?障害、障がい、障碍、その他、どれでもよい?

正直言って「どうてもいい」という気持ちです。もちろんそんな選択肢はありませんでしたので、「障害」を選びました。
理由は自由記述欄に、「表記だけ変えても意味がないから」「体の機能障害は事実だから」と書きました。

この障害表記の議論は平成20年頃から盛んになったようです。平成22年に国の障がい者制度改革推進会議が全国調査を実施しています。
明治時代には「碍」(霊障にあたるような意味)が用いられていましたが、この字が常用漢字から外れたため、昭和20年代以降に制定された関連する法律では、すべて「害」が用いられ、それが現在まで続いてきました。

これに対して、近年になり一部の障害者団体から、「『害』の字がマイナスイメージを喚起し、否定的な価値観を形成しかねない」「『害』がある人のように考えられがち」等の意見が挙がり、議論が交わされました。この際に、既に元々の意味を失っている「碍」の復活案が検討されました。

「医学的な診断では、機能が障害されている意味において『障害』と表記されるため、障害の表記を変えることに特に意味は見いだせない」という意見や、「社会的な障害(バリア)により参加を阻害されているのだから『障害』が妥当」等の意見があります。「一般には用いない『障がい』の表記が、逆に特別視を生む」という意見もあります。

結局、表記方法は統一されてはいませんが、公的な表記で「障がい」を用いる例も時々見られるようになりました。ただ、これも「特別な配慮をしている」という行政のアピールの意味を帯びている面が多々あるように感じます。

私は、表記云々の問題ではなく、実態がどうであるかだと思うので、「どうでもいい」と思います。表記を変えれば何かが変わるわけではまったくないので、何か問題をすり替えられている気がして、この議論そのものが好きではありません。


Q.最後の自由記述欄

①当事者団体支援と活きた情報提供
難病は変化する(多くは悪化する可能性がある)障害です。私にとっては初めての経験のため、予後や備えについては、まったく知識がありません。
また、難病というくくりが余りにも広すぎて、行政の相談や福祉サービスという切り口ではニーズがカバーされていないと思います。
これを補う形で、もう少し当事者団体を支援し、難病者に活きた情報を提供していただければと思います。

②相談支援の意義
難病は個別性が非常に高いため、支援の形をパターン化するのが難しいのは当然のことと思います。
したがって、当事者と家族の課題をともに考えてくれる相談の意義が他に比べてとても高いと思います。相談支援の充実を望みます。

③地域社会づくり
障害、難病者の問題は、地域のあり方そのものを示しているように思います。
「住民や地域内で働く人たちが他者に優しい地域社会か」が問われているのだと思います。行政には、特定の分野ごとの理解を促進する取り組みに偏重せず、差別そのものを自然に「おかしい」と感じられる地域づくりのリーダーシップとってほしいです。
積極的な理由により、すべての地域住民が「この地域で暮らしたい」と思えるかどうか、を問いたいと思います。そのゴールがビジョンとして見えれば、地域住民は協力をいとわないと思います。

⇒難病者のトリセツ 自治体難病者アンケートへの回答〔前編〕へ

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文:©青海 陽 2019


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青海 陽
読んでいただき、ありがとうございます!☺ かつての私のように途方に暮れている難病や心筋梗塞の人の道しるべになればと、書き始めました。 始めたら、闘病記のほかにも書きたいことがたくさん生まれてきました。 「マガジン」から入ると、テーマ別に読めます(ぜんぶ無料です)🍀