掌編小説 | アジサイ移植 | シロクマ文芸部
紫陽花を移植したと聞かされたときは驚いた。目を開けるとそこには、僕を覗き込む知らない二人がいた。
白衣を着た中年の男と、薄ピンク色の入院着姿の少女だった。この二人以外、誰もいないようだ。僕は二人を交互に見たが、すぐに少女のことは見ないようにした。なぜなら彼女は、頭に大きな手術痕があったのだ。その痕を僕が見ることができるということは、つまり少女は坊主頭だった。
僕は白衣の男に話した。
「今この状況を説明してくれるとしたら、その適任者はおそらく貴方なのだと思うけど、まずは名前を教えてくれないかな。許される範囲で、僕は貴方と仲良くなりたいんだ」
僕がそう言うと、男は笑顔を見せた。
「それは良い心がけだ。君は現状、話し方に問題はない。記憶は別として、頭も冴えている。そして、何よりとても穏やかで、気分が良さそうだ」
男は〝ドクター柳原〟だと名乗った。
「ねえ、ドクター柳原。貴方の隣に立って僕を熱心に見つめている女の子のことを訊ねてもいいかな」
ああ、いいとも、と彼は言った。
「彼女はいまの僕と同じように坊主頭で、色違いの入院着を着ている。ということは、もしかすると、彼女も紫陽花を移植した一人なのかい?」
少女は僕の話を聞いて、恥ずかしそうにドクター柳原の後ろに隠れた。
「君と全く同じというわけではない。ただ、君と同じ日に脳移植の手術を受けたんだよ。君よりも少しだけ目覚めるのが早くて、順調に回復している、いわば先輩だな」
ドクターは笑った。見た目からして、中学生くらいの少女が自分の先輩だと聞かされた僕は、さらに大きな声で笑った。
「なんだか不思議だよ。こんなに幼い少女が先輩で、それでいて僕を恥ずかしそうに見つめてくる。そして僕は今、本当に気分が良いんだ」
僕は笑顔で二人を見た。すると少女がついに口を開いた。
「ねえ、あなたは手術を受ける前のことは何一つ覚えていない?」
少女に訊かれて、僕は少しだけ考えてみた。
「そうだね。何一つ思い出せない。だけど決して悪い気分じゃない。不安すら感じていないんだ。一体、これはどういうことなんだろう」
僕はドクターを見た。ドクターは僕と目を合わせたまま少しの間を置くと、とても静かに話し始めた。
「君は九死に一生を得たんだよ。つまり、君は限りなく死と隣り合わせにあった。そこを我々が助けたんだな。簡単な話が」
僕は素直に驚いた。かつて自分が死にかけるような状態にあったとはとても思えなかったのだ。
「あなた、自分で死のうとしたのよ」
少女がそう言うと、ドクター柳原がそれ以上の言葉を制した。
「確かに君は自殺行為をした。車に乗ったまま崖から落ちたんだ。君の車からは遺書が見つかったから間違いないだろう」
僕は二人から聞かされることを、知らない誰かのことのように聞いていた。そして、そんな事実を突きつけられたあとでさえ、なんとも言えない心地よさを感じていた。
「つまり、僕は人生に絶望していたのかな」
「そうかもしれないな」
僕は笑った。そんな事実は、今の僕にとってはどうでも良いことだった。
「僕は……ドクター、貴方に助けられたんだね。どうして僕なんかを助けてくれたのかはわからないけど、とにかくありがとう。貴方が紫陽花を移植してくれたおかげで、僕は目覚めてからずっと夢心地だ」
ドクター柳原は静かに頷いた。
「今日はもう遅い。また明朝、様子を見に来るよ」そう言うとドクターは去っていった。
一方で少女はというと、まだ僕の側に立っていた。
「ねえ、君もあまり無理をしない方がいいよ。まだその手術痕は生々しいし、早く自分のベッドで休んだ方がいい」
僕はありったけの親切心からそう言ったが、少女は僕を覗き込んだまま、動こうとしなかった。
「ねえ、達也さん」
「え?」
「あなたは達也という名だったの。幼い頃は野球が大好きで、社会人になってからも野球観戦はあなたの一番の趣味だったわ。熱烈に応援することは、あなたの唯一のストレス発散法でもあったの」
「僕のことを、随分よく知ってるもんだなあ」
ええ、と少女は少し悲しそうに言った。
「あなたが死にたくなった理由を訊きたい?」
僕は、うつらうつらしかけていたが、少女の方を向いて頷いた。
「婚約者を不慮の事故で亡くしたの。あなたを、この世で一番理解してくれていた、美しい恋人を」
僕は、ぼんやり正面の白い壁を見つめて、それから、天井を這う小さな蜘蛛を目で追った。
「だめみたいだ。そんなことを言われたところで何も思い出せない」
すると少女はゆっくりと目を閉じた。次に念を送るように眉間に皺を寄せた。その途端、一瞬ではあるが頭の中にぼんやりとイメージが浮かんだ。まるで少女と僕の体の一部が繋がっているみたいに。
「なんだろう、とても懐かしい気分になったよ」
気がつくと、少女は涙を流していた。
「君が泣く理由を知りたいな。もしかして、僕を憐れんでくれているのかい?」
少女は再び目を閉じた。
山の中のペンション。暖炉の火の揺らめき。薄暗い部屋。シャンパンボトル。それから、二つのリング。
「これは……」
少女はまだ目を開ける気配がない。僕も少女を真似て目を閉じた。すると今度は、明るいブロンドのヘアが美しい、若い女性のイメージが浮かんだ。彼女は咲き誇る紫陽花の前に立ち、微笑んでいる。
「肌寒い6月のある日だ。ペンションを訪れて、そこで彼女にプロポーズをした。彼女の名前は……」
「リサよ。あなたが心から愛した人」
ああ、そうだったかもしれない、と僕は思った。だけど、やっぱり僕には他人事にしか思えなかった。それよりも頭の中は紫陽花の淡いブルーや紫、白、カラフルなそれらに埋め尽くされている。
「覚えていられなかったことは、彼女に申し訳ないよ」
「いいえ、大丈夫よ。気にすることないわ。私があなたの代わりに、ずっと覚えておくのだから」
僕は再び眠気に襲われていた。体のあちこちにしびれも感じていた。だけど不思議な心地よさは相変わらず僕を幸せにした。
「まるで花畑にいるようなんだ」
少しずつ意識が薄れていくのだった。そばにいた少女は、僕の頭の傷にそっと触れた。
「ありがとう。あなたのお陰で私は今ここにいる。あなたの大切な記憶とともに、これからを生きていくわ」
遠のく意識の中、少女が叫んでいる。
「パパ、早く来てちょうだい。アジサイ人間が完成したわ」