掌編小説 | 梅の花 | シロクマ文芸部
梅の花がいいと言ったら、渋いねと言った。その女は、オフショルダーのカットソーを着ていた。肌には、背中から肩へ這い上がってきたような格好のヘビが彫られている。悪戯な表情のヘビは、もう少しで彼女の鎖骨を丸呑みしそうだ。
「テスって呼んで。ヘビじゃなくて、アタシのこと」そう言って笑った。外人の男の子のような顔。色白で、後ろを刈り上げた金髪のショートヘアがよく似合う。
テスに、わたしはタトゥー入れそうなタイプに見えないですよね、と言ったら、梅の花を入れるタイプには見えないかもね、と言った。
「この人彫ってそうとか、アタシはよくわからない。こんな仕事しててもね」
タトゥーに深い意味を持たせる人もいれば、ファッション感覚で入れる人もいるでしょう? 真面目なオフィスレディーが、週末に女友達と弾丸温泉旅行に行って、一人だけ部屋でシャワーを浴びる理由なんて、ふつう、わからないじゃない? そう言うとテスはわたしに、名前は、と訊いた。
「本当の名前じゃなくて、今だけの呼び名でいいのよ」
ユナ、とわたしは迷わず答えた。ユナね、よろしく。テスは左の頬にだけ笑窪を作った。
「どこに入れたいの」
「背中、かな。ワンピースのチャックを上げ切ったあたり」
「それだと、襟のない服を着ると少し見えちゃうかも。平気?」
「ん、じゃあ、もう少し下」
オッケー、とテスは返事をして準備をしながら、背中の真ん中だとちょっと痛いかも、と言った。大丈夫、と答えた。痛いのとか、どうでもいい。
五百円玉の大きさの梅の花は、かりかりと音を立て、描かれていく。カミソリで薄く引かれるような痛みに、この痛み知ってるかも、と言ったら、そういう人結構多いよ、とテスが言った。
「自分でつけた傷に絡めてタトゥー入れる人もいるよ」
そういうとこに彫ってるとね、泣いちゃう人もいるの、とテスは言った。そうなるとさ、アタシも泣いちゃうんだけどね、と今度は切なそうに笑った。過去に自分がつけた傷に、今度は人の手を借りてまた傷をつけていく。
「彫る前にさ、なんとなくそこを撫でさせてもらうの。もちろん、相手が嫌がらなければね」痛かったね、って言いはしないよ。言わないけど、心ではさ、やっぱ痛かったよねって。
「そんなこと思いながら、直後にアタシがまた傷つけるんだけどさ」
ワンポイントのタトゥーは三十分ほどで仕上がった。一生物の柄を入れるのって、こんなにあっけないんだね、と言ったら、それは人それぞれ感じ方が違うけどね、とテスは真面目に言った。
彫った場所に保護シールを貼ってもらい、店を出た。背中の違和感と同時に、何かを背負った気になった。あっという間に「一生物」を手にして興奮していたときとは、真逆の感情かもしれない。背中に張り付いて今後一生離れることのない梅の花のことを思うと、鼓動が速くなり、顔が熱かった。
夜の原宿は、昼間よりも一層キラキラとしている。ピンク色の髪、人形のようなフリルスカート、韓国アイドル、そんな「誰か」みたいな人たち。ロンドンやパリにいそうな、洗練されたセンスを見せつけて歩く大人たち。原宿という異世界で遊ぶ住人たちが、交差している。オニツカタイガーのビルの前で写真を撮っている中国人カップルの声が、やけに頭に響いた。そんな賑やかな街を、わたしは堂々と歩いていることに気づく。たったワンコイン分の大きさ、肌を彫って墨を流しただけなのに。
ショーウィンドウに飾られた財布に目が止まる。六万円の値がついた財布を眺め、かわいー、とつぶやいた。買えるような値段ではないのに、しばらくその財布の前に立ち尽くした。財布の向こうに、ガラスに映ったわたしが見える。誰なのだろう、と思った。ずっと、誰でもない自分として生きたかったわたしは、いままさに、自分が誰なのかわからなくなった。
もう一度財布に目を落として、その場から去った。買えない財布にウインクをして立ち去るような女をわたしは知らない。もしかして、ユナなのかもしれない。
キラキラした街を、見知らぬわたしが歩いている。過去の自分がつけた無数の傷跡に触れながら、背中に咲いた小さな梅の花を想った。今夜はお風呂は控えて、お酒もだめよ、と言ったテスの声を思い出した。テスはわたしを見送るとき、わたしをなんて呼んだのだっけ。そして、最後に見たテスの笑窪は、右の頰にあった気がしている。
[完]