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掌編小説|「Hello,world!」|シロクマ文芸部

 三月さんがつに、「明日からよろしくおねがいします」と電話越しに告げられ、それまでともに暮らしてきた二月にがつとの生活が終わることを実感した。振り回され続けた日々から解放される。ほっと息をついた。それでも、二月と最後に過ごす日は有給を取った。未練がましいと思われるだろうが、終わりをきちんとしなければ気がすまないたちであることは、自分が良く知っている。
 初めて見た瞬間から好きになった。一ヶ月、いや、二月に関して言えば二十八日間の付き合いであったが、一番注意すべき月だと言われていただけあって、嫉妬と欲にまみれたひと月となった。

 最後の朝、キッチンでお湯を沸かしていたところに、いつものように起きがけに歯を磨きながらやってきた二月は、目も合わさずに言った。
「朝のうちに行くから。諸々、よろしく」
 その横顔を見つめながら、私は乾いた声で返事をした。
「行くって、どこへ? 夜には戻るの? それともそれきり?」
 返事の代わりに顎をこすり、ため息を吐く二月の、その無精髭が肌を擦る感触を思い出し、朝の光の中でわずかに体を火照らせた。
 黙って自室に戻る二月を追うこともせず、キッチンのスツールに腰掛けたまま、風味のない白湯をすすった。立ち上る湯気が、鼻や頬のあたりを湿らせる感覚に意識を集中させる。よく晴れた朝に、仕事を休んだことを心から悔いている朝に、内側を流れていく白湯のあたたかさが染み入る。
 しばらくして、ドアの開く音を聞いた。つぎに、靴箱の上にある木製のトレーに鍵が戻される音。靴を履き終わり、一秒、二秒。最後に、気だるい咳払いが響いた。
 せっかちな二月との別れだった。

 三月はボストンバッグ一つでやってきた。
「荷物、少ないんですね」
 迎え入れ、新しいスリッパを勧めた。季節をイメージした、うぐいす色のスリッパだった。ちゃわんも買い替えた。タオルも、全部。カーテンだって変えたい気分だった。何もかも。二月の気配を消し去りたかった。
「ひと月ですから、お気遣いなく」
 三月はそれなりに緊張しているようでも、誠実そうな、はにかんだ笑顔を見せた。それを見て、私も一年前はこうだったのだと思い出す。
 最初に出会った四月からは、ひと月ごとに変わりゆく「月生活」について様々な手ほどきを受けた。翌月、明るい性格の五月とアウトドアを楽しんだ。読書好きな六月はたくさんの本を残して去った。それなりに燃え上がった七月。レゲエ好きな八月とはよく飲みに出かけた。滞在期間に体調を崩していた九月とは、あまり話す機会がなかった。秋の登山は十月と。かなり年上な十一月の発言は、いつも示唆に富んでいた。十二月とは、とにかく気が合った。だから、離れるときには互いにいつまでも泣いた。一月は頑固で作法に厳しく、正直、嫌いだった。その反動もあったかもしれない。二月に恋をした。いけないことと、わかっていたのに。

 ひととおり部屋を案内し終わって、なにか足りないものはないか、尋ねた。すると三月はボストンバッグを床に降ろし、空いた手で髪をかきあげたのち、私を見た。
「アサさんはなにかやり残したこと、ありませんか」
「やり残したこと?」
「そう。やってみたかったこととか。僕は最後の月だから、なにかアサさんの手伝いができればいいなと思ってます。今までの月のお礼も兼ねて」
「そう。それなら、観覧車に乗りたい」
 伏し目がちにそう言った自分に驚いた。もういい大人なのに、子どものような要求を口にしたことが恥ずかしかった。しかも相手は会ったばかりの三月で、恋人でもない。
「いいね、行きましょう」
 柔らかく笑う。どこか儚げで、憂いのあるその表情は、まさに三月という月にふさわしい。
「もしかして、今から?」胸が高鳴った。
「いつでも行けるなんて思っているとあっという間に終わりますよ、三月って。それぞれ忙しいから」
 今度は屈託なく笑う。
 三月は腰をかがめてボストンバッグに手を伸ばし、中から財布をとり出すと、デニムの後ろポケットに突っ込んだ。そして、「いきましょう」と言った。

 電車で一時間と少し、私たちは海沿いの大きな公園についた。
 土曜の午後、多くの家族連れが芝生にピクニックシートを広げているのを見て、「持ってくればよかったね」と三月が言った。
「二人とも手ぶらなのに、ピクニックシートだけ持ってるって、おかしくない?」
 三月に急かされ、何も持たずに家を出た。いつもなら当然感じるバッグの重みから解放された体は、この青空に飛んでいってしまいそうに自由だ。
「必要なものだけあればいいんだよ。そういうこと、アサさんもこの一年でだいぶ感じられるようになったんじゃない?」
 いつのまにか互いに砕けた話し方ができるようになっていた。
「そうだね。いろんな月と出会って、私自身それなりに成長したところもあっただろうけど。だけど、二月に出会って、なんかもう、ぐちゃぐちゃになっちゃった」
 情けない告白をした。三月の表情を盗み見ると、「ああ」とだけ漏らして、どこか遠くを見ている。詳しいことを訊かれないから、私からもそれ以上の説明をしなかった。

 公園にはたくさんの梅の木が並んでいて、その下で写真を撮った。三月は私を被写体にして、何枚もシャッターを切った。一緒にいて、一枚も写真を残すことがなかった二月とは真逆の三月の行動に戸惑い、少し照れた。
「どうしてそんなに撮るの? 写真が好き?」
「癖、かな。さがと言えるかもしれない。そういう使命を勝手に感じているというか。どうしてか、一日一日が名残惜しい。僕以外の月だって、与えられている日数にさほどの違いはないのに、つい、こうしてカメラを向けてしまう。だけど、写真を撮ればある程度満足できるって気づいてからは、ただひたすら撮るようになった。気になる?」
 首を振った。三月の気持ちを理解できる。
「あとで私にも送ってくれる? よく撮れてるのだけでいいから」
 もちろん、と言った三月が眩しそうに顔の前に手をかざした。
「そろそろ乗ろうか。観覧車から見る、この時間の海が好きなんだ」
 そう言って伸ばされた三月の手を、私はしっかりと握った。

 観覧車の中に流れる静かな音楽に混じり、三月のスマートホンは小気味よくシャッター音を鳴らす。
 三月と私は向かい合って座り、西日に染まる海を眺めた。時々は互いに手を伸ばし、その手を握り合った。不思議とそこに恋心は抱かなかった。ただ、三月とそうしていることは自然なことだと思えた。
「逆光の写真ばかりになるから、こっちに座って」
 三月はそう言って、私の手を引いた。腰を浮かせて、導かれるままゆっくりと移動する。
 三月の右隣に座り直すと、正面から強烈に西日が差して、思わず目を閉じた。
「まぶしい」と言ったのは三月だった。私はくすくす笑いながら、まぶたの裏の暖色の世界で深い呼吸を繰り返した。
 目を瞑ったままの私を、三月がカメラに収めている。
「目を瞑っているのに?」と私が言うと、「すごく幸せそうだから」と三月は答えた。そして三月は静かに繋いでいた手を離した。
 西日は相変わらず強烈に私の全身を照らしている。暖色の世界は、三月の手のぬくもりを失うと、途端に心細い世界に変わった。
 目を閉じたまま、左手を動かし三月の手を探す。すると、その私の手の甲に、再び三月のぬくもりが重ねられた。温かい。わずかに圧を感じ始めると同時に、目の前の光が遮断された。閉じたままの私のまぶたに、三月の唇が触れた。私はそれを、静かに受け入れた。
 観覧車が、大きな円のてっぺんを通過する頃、ゆっくりと夜が明けていくように、再びまぶたの裏は光に満ちていった。


 三月が言ったように、私たちの共同生活はすぐに終わりが見えてきた。互いに干渉しすぎることなく、ただ共通した思いを持ってともに暮らした。それというのは、それぞれが実りある時間を過ごすということ。これらを達成するパートナーでいること。言葉にしなくても、私たちはそれを実行し、そして穏やかに最後の日を迎えた。

 三月が髪を切って帰宅したのは、三十一日の夕刻だった。
 お別れにたくさん料理を作って、部屋中に三月が撮った写真を飾った。そこに照れた様子で入ってきた三月を見て、私は声を上げた。
「すっごく良いよ、その髪型。短いのも似合うんだね。いつもより大人っぽく見える」
 そうかな、と言いながら髪をかきあげる仕草をした三月は、流すほどの髪がないことに気づいて恥ずかしそうにした。
「気合が入るもんだね、こう短いと。だけど、慣れない」
「うん。慣れない。三月じゃないみたい」
 明日から、四月が始まるんだね。そう言ったのは確かに自分だったのに、どこか現実から離れたところから聞こえた気がした。
「夜が終わって朝が来て。自然と時が流れて、三月から四月になる。だけど、私たちにとっては、四月は三月の続きじゃない。三月は私の目の前からいなくなって、どこにも存在しなくなる。ねえ、こんなのって変だよ」
 たくさんの料理が並べられた食卓から、温かな湯気が上っている。それは今にも三月を消し去ろうとするもやのように見えて、唐突に忌々しく感じられた。
「アサさん。今までよく頑張ったね」
 不安に押しつぶされそうな様子に気づいて、三月は私を抱きとめた。私は三月の胸に耳を当て、体から直に響いてくる音を聞いた。
「僕も含めて十二の月と出会って、一緒に暮らして。苦労もあったと思うけど、今のアサさんは一年前とは別人だよ。こうやって紡いでいくんだね。これからも、ずっと」
「紡いでいく?」
「アサさんの人生だよ」
 三月の腕の中から見上げると、三月もまた、まっすぐに私を見ていた。
「四月から連絡は?」
「そういえば、きてない」
 そうか、と三月が呟いた。
「どういうこと? 四月が来ないって、私はどうなるの?」
 泣いてしまいそうでも必死に堪えた。三月は「どうなると思う?」と訊いた。
「どうすればいいかというより、アサさんがどうしたいのかが大事なんだよ。四月から連絡がこなかったということは、アサさんはもうここで『月』を待つ必要はないんだ。この意味がわかる?」
 互いの体が離れていく。三月は、ジャケットの内側から一枚の写真を取り出し、私に差し出した。
「一番よく撮れていると思う。幸せそうなアサさん。明日からはずっと、こんなふうに……」
 すべての言葉を聞く前に、私は三月のもとから走り出していた。
 玄関に置かれたボストンバッグを掴んだ。荷物はこのバッグ一つに収まっていた。多くのものはいらない。思い出は私の記憶の中にある。古いものを捨てて、だけど、それでも残ったものは私の体の一部となり、これからの私を支える。
 息を弾ませ、かけていく。私を縛っていたものが離れていく感覚を全身で味わっていた。頭の中では、最後に三月が見せてくれた写真を思い出していた。

 暖色の世界。
 希望に満ちて、あたたかい。

 あの日感じた体の軽さは、今もありありと思い出すことができる。
 飛ぶように走った。決して、後ろを振り返ることはなかった。




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