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AYA (短編小説・後編)


私は夢の中にいた。
今となっては、望むよりも拒むことの方が難しいくらいに、現実世界で眠りに落ちると次に意識を取り戻すのは夢の中、つまりアヤの居る世界であった。

私はアヤの住む居住区と例の崖のちょうど中間辺りに立っていた。何も無い平原の先に見える赤い建物。いくつか並ぶ同じ家家は、異様な雰囲気を出している。かつて誰かが生活していた痕跡を残しつつ廃墟となったこの土地が、現実世界に存在するのかどうかわからない。
アヤはおそらく、私がこの世界へやってきたのを感じ取っているはずだ。以前彼女は、誰かがこの地に足を踏み入れると、空気が変わると表現していた。この世界の主のような存在のアヤには、他の人間には備わっていない、特殊な力があるのかもしれない。

しばらく立ち尽くしていると、遠くに、ゆっくりとこちらへ歩いてくるアヤの姿を見つけた。
今日のアヤは柔らかな色のワンピースを着ていて、それが風にそよぐと、いつになく儚げだった。
長い髪が風になびく。時折髪を手ぐしですきながら整えるのはアヤの癖だ。
愛着のある彼女の動作を眺めていると、アヤの匂いが鼻先をかすめたような錯覚をした。
アヤと私の距離がだいぶ縮まったところで、私はアヤに背を向け、崖に向かって進んで行った。
途中、振り返りアヤを見ると、休むことなく私の方へ向かってきていた。崖に誘い出す私に、戸惑うことなくついてきている。彼女にとってはこれまでに、もう何度も経験したことなのだろう。揺るぎない足取りだった。

平原の終わりが崖となる場所に着くと、少し息が上がっていた。以前アヤに連れられて来た時にはこんなに距離があるとは思わなかった。
崖の数メートル手前で呼吸を整えていると、いつの間にか追いついたアヤに後ろから抱きつかれた。
心臓の鼓動を聞くように、私の背に耳を押し当てるアヤの体温を感じる。
「とうとう来たのね。この時が」
アヤは言った。落ち着いた声だった。
「この世界に、二度と来られないようにするにはどうしたらいいか、教えて欲しい」
私は、背後から私を抱くアヤの手に自分の手を重ねた。アヤの手は冷えきっていた。
「簡単よ。崖から飛べばいいの」
私はある程度覚悟していたその言葉を聞いて、自分事とは思えず、どこかぼうっとしていた。
「私が見守ってあげる。貴方は、ここから飛び降りるのよ」
「それはこの世界での死を意味するのか」
「さあ、それはわからない。ただ、この崖がこの世界を断ち切る場所であることは間違いない」
「君はどうする」
私はアヤの手を握っていた手に力を込めた。
「見守る人が必要なの」
アヤは私の背から離れて、私の横に並んだ。
数メートル先にある崖の下は、ここからでは見えない。
私とアヤは手を繋いで、少しずつ前に進んだ。
「君はここに残りたいの?」
私の言葉を、アヤは前を見つめながら聞いている。
「ここにいる意味はない。だけど私は戻る意味もないのかもしれない。それならここにいた方が少しは幸せなのかもしれない」
アヤが言っていることは私にはよく理解出来なかった。それでも、アヤの言葉から感じる悲しみは私の心を打った。
「アヤ。一緒に飛んでみるか」
アヤは無言で前を見つめ続けている。彼女の手は微かに震えていた。いや、震えているのは私かもしれなかった。
私たちは崖の淵に立った。握り合う手に力がこもる。何人もの男たちがこの崖から飛び降りたと言うが、彼女自身は飛んだことがないのだから、緊張していて当たり前だ。アヤは呼吸をする度、大きく胸が動いている。
「底は見えないんだな」
私がそう言うと、アヤは視線を落として崖の下を見た。そして頷く。
「心の準備はいい?」
私が聞くと、アヤが私の顔を見た。強い風が吹き荒れる。彼女の長い髪の毛もワンピースも暴れ回っている。
「どうしてそんなに落ち着いているの?」
私自身も不思議だった。やはりこの世界に現実味を感じていないからかもしれない。家族の元へ戻れるという期待、それから、隣にはアヤがいるという安心感からか。
「アヤは飛ぶのが怖いんだね」
私が言うと、アヤは唇を震わせて涙を零した。彼女が泣くのは意外だった。
「どうして、私を連れていくの?」
アヤは声を震わせて訊く。
「君がこの世界に残ることを悲しんでいるように見えるからだよ」
私はアヤの涙を親指の腹で拭った。
「貴方は私を愛していた?せめてこの世界では」
アヤに訊かれて、私はこれまでここで過ごした日々を思い返していた。
「愛しているとも、愛していたとも言いたくないんだ」
私は家族の元、妻の綾の元に戻る決意がゆらぎないことを確信した。
「私を抱いている時は愛していると言ったのに」
アヤはもう私の顔を見ていなかった。
私たちは繋いだ手を離さないよう、再び強く握り合った。そして、特に合図もなく地面を蹴った。アヤと私は、向かってくる強風に煽られながら、宙を舞うように落ちていった。

・・・

聞き覚えのある電子音を、遠い意識の中で聞いている。定期的に何かを収縮させる機械の音もどこか懐かしい。段々と戻りつつある意識の中で、私が戻ってきた現実の世界では、少しの変化も起きていなかったことを知る。
動かない私の体はたくさんの管に繋がれ、今日も生かされていた。
私は確かにあの時、崖から飛んだ。
私に少しの未練も持たない男と、手を固く握り合い、地面を蹴って宙に体を投げ出した。
夢の世界であんなことができた私は、今また動けない現実へ戻ってきたのだ。
はたして、戻る意味はあったのか。
私は夢の世界で最後に自分が流した涙を思い出した。
たくさんの男に愛され、時間を共に過ごした。一人男が去って、また次の男がやってくる。まるで体が動かなくなる前の私の生活そのものだった。
それでも、最後の男だけは少し違ったと思う。私を愛してはくれなかったが、私を見捨てることをしなかった。
あの男は幸せな現実に戻れたのだろうか。
私に知る術はないが、そうであって欲しいと願う。
私は自分に決着をつけるために戻ったのだ。あの男が一緒に飛ぼうと言ってくれなければ、私は意識不明のまま、この命を終えることになっていただろう。
私は最期に、私を心から愛してくれた人の声を聞いて、この世界から解き放たれたいのだ。

「あれ、さかきさん?少し反応してるわね。ドクターを呼びましょう。それから、榊さんのお母様にすぐに電話をして」

ばたばたと走り去る誰か。
あと少し頑張れば、母が来てくれる。
懐かしい母に会える。
私はどれくらい夢の世界をさ迷ったのだろう。その間、母は私を諦めようと思うことはなかったのか。
聞きたいことを私から尋ねることは出来ない。
だからお母さん。
私にもう一度だけ声をきかせて。そうしたら私は、この世界に別れを告げる。
私を心から愛してくれた唯一の人に、名前を呼ばれ、見守られながら。







アヤ……




[完]


#短編小説
#後編














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青豆ノノ
チップとデールの違いを知りません。