まさかセクハラからメリットを取っていたなんて
*個人の気づき•考え方について書いたものですので、セクハラが良いか悪いか、と言う観点では書いておりません
今の仕事を初めてから、年に数回のペースでセクハラに遭遇するようになった。
相手が同じ人なら、その相手に何か問題があると思うのかもしれないが、毎回相手が違うので、「なんで私はこんなに色んな人から代わる代わるセクハラに遭うんだろう」としばらく思っていた。
2年前位にそれが自分の自尊心の低さから起こっていることだということに気づいたら、急に相手に会わなくなったり、始めは強烈な出来事だったのが段々マイルドになっていったので、もう卒業したと思っていた。
忘れた頃になった先日、久々にまた相手が変わり、新たな状況に遭遇して、ほぼいつも朝までぐっすりなのに珍しく眠れなくなり、セラピー(エムレス)の施術士仲間に相談し、すぐにセッションをお願いした。
自分のセクシュアルな課題を人に相談して、セラピーで面と向かうのは今までなんとなく抵抗があり、避けていたと思う。
「いよいよタイミングが来たか、私の中にどんな思い込みが潜んでいるんだろう‥」と、蓋を開けることに。
たいていセッションを受けると、その時の不快な感情が無くなってスッキリした余白の中に、色々な気づきが湧いて出てくる。
セッション前に予想していたのは、私の中に何かものすごいセクシュアリティに関する思い込みがあるのだと思っていたら、蓋を開けてみたら全然違うものが入っていた。
最初に思い出したのは、「仕事が取れるなら、多少のセクハラがあっても仕方がない」と、今の仕事を始めて割とすぐの頃に、自分で言い放ってしまっていたことだった。
そう、自分でセットしてしまっていたのだった。
•仕事を取る為には犠牲が伴っても構わない
•犠牲を払わないと仕事は取れない
•自分は不快な目に遭っても構わない程度の人間だ
って。加えて、
•(セクハラされてでもいいから)自分は世の中に必要な人間だということを実感したい
•だから相手にされないくらいなら、セクハラをされた方がまだマシだ
そしてセクハラに遭ったことを人に話すと
•「大変だったね」と慰めてもらえる
•「がんばって仕事してるんだね」とねぎらってもらえる
•「あおりんごちゃんは優しいんだね」と褒めてもらえる
つまりは
"私を見てほしい"
"構ってほしい"
"優しくされたい"
という「私の中の奥深ーいところにある"愛されたい"という気持ちが、こじれにこじれまくってセクハラという形で表面化しているのではないか」
という気づきが湧いてきた(降りてきた)時には、受け入れられなくて、気持ち悪すぎて吐きそうになった。
でも降りてきてしまった。「あんなに辛かったのに、優しい一言が欲しい一心で自分で作り出していたんだ。嘘でしょう。えーーー」
気づいてしまった時、家事をしている手を止めて、一度座って、きちんとそれを受け入れたらまたラクになった。もう自分を責める気にもならなかった。
私の体感では、繰り返し起こる出来事は表面上はどんなに辛いことでも、どこかで隠れたメリットを取っている。それは決して悪いこととは言えないと思う。ここまで生き延びるための方法だったから。
気づきを得た瞬間は毎回まぁまぁ落ち込むけれど、そういうことだったかと一度気づいてしまえば、もう要らないね、とシフトは自然に進んでいく。
今年もなかなか感情が揺さぶられまくりのスタートで、大晦日に振り返ったら大脱皮していそう。