星熊南巫の歌と世界とDEATHNYANNを勝手に語る
星熊南巫(我儘ラキア)の待望のソロプロジェクト「DEATHNYANN」の第1弾MV「illumina」が発表された。
ソロとしては「cry pot」と皮切りに自身でも作詞作曲を行うようになった星熊南巫。かねてよりグループはグループとして全力を尽くしつつ、彼女自身の叶えたい夢があることは周知の通りではある。
だが純粋なソロ活動としてはメンバーのMIRIとのプロジェクト「FLASH KILL」以降は展開はされておらず、またレーベルの移籍に伴い、多くのサウンドクリエイターが楽曲を提供するようになってからは作詞という形での制作コミットが主となっていた。
その彼女がついに本格的にアクティベートしたソロプロジェクト「DEATHNYANN」。これは彼女のもう一つの物語の始まりである。
彼女の自分が知り得る歴史については以前のnoteで全力で書いたけども、いい機会なのでもう少し彼女の歌について書いてみたいと思う。
「異端アイドル」とか「アイドルらしくない」とか、アイドルなのかバンドなのか、というような論点で語られることが多い我儘ラキア。しかし、聴いてる身からすればそんなことは本当はどうでもいいことだ。大事なのはその歌がどんなものなのか、ただそれだけである。
星熊南巫の歌の歴史を勝手に振り返る
我儘ラキアはその昔はホームページに音源がストリーミングで置いてあり、無料でいつでも聴けるようになっていた。
この最初期音源はダウンロード期間が設けられたのちに削除され、その当時のファンのアーカイブの中にしかない。もっと言うと現在配信されてる音源は再録のさらに再録であり、初期楽曲にはいくつかのバージョンがある。
さてこの最初期音源であるが驚くべきことにパッと聴いても今みんながイメージする「星熊南巫」の声が見当たらない。上手いとか下手とか以前にあの声がすぐに聴き分けられないのだ。そんなことある?と今の視点では思うけれど、後に開花する才能をこの時点の音源から想像することは少し難しいと言えるかもしれない。
彼女は本人もたびたび口にするようにキャリアスタートが早い方ではない。その上、いわば一から自分の声と歌を起てるところからその戦いは始まっている。今の彼女が実現したことや抱く夢までの距離は想像以上にとてつもない道のりだったのだ。
昔のラキア現場は決してお行儀の良い現場ではなかったし本人がいかに「魂ぶつけて歌ってます」と言ったところでどのくらいオーディエンスがちゃんと聴いていたかはわからない。コロナ以前のライブはある程度そういうものでもあった。ステージでの彼女はとにかくガムシャラでシャカリキだったし、客も暴れて騒ぐことこそが正義だった。
そんな中で「あーこの人の歌好きだなあ」と素直に自分が思ったのは実はライブ現場ではなく、ごくたまーにTwitterに投稿されていた弾き語り動画だった。そこではじめて彼女の歌声をちゃんと知ったと言えるかもしれない。そこで聴いた彼女の声はライブでのイメージと違って、柔らかですごく優しかったのだった。
ラキアはラウドな楽曲ではあるがバカみたいなシャウトはさせない。個人的には女の子に無理なシャウトさせる運営のエゴは好きじゃない。聴いてて痛々しいしキャリアを縮めるだけだと思ってる。
そこは今の彼女の活躍を考えると本当に幸いだったが、楽曲としてはある種、悪ガキっぽい歌い方は必要だったろうし、本来持ってる優しい声に対して試行錯誤はずっと続けていたのではないかと勝手に思っている。
ラウドな楽曲の中でやみくもにがなり立てずにエモーショナルを乗せる方法。それは言うほど簡単なことではない。
しかし実際問題として優しくそばで語りかけるような歌が彼女は上手い。それとラウドな楽曲は両立しうるのか。その答えの一つが自身が作った曲である「cry pot」であり「rain」だったと思う。
弱さと強さの狭間を行き来しつつ、そばで語りかけるようにしながらも一緒にボルテージを上げていく。どんなに憂鬱な気分の時でも遠くからエネルギーをぶつけるのではなく、必ずすぐそばから歩みはじめて一緒に浮揚する。それが星熊南巫が作った彼女の自身の歌だった。
ステージでも彼女は頻繁にしゃがみ込んでファンと文字通り目線をあわせて歌う。彼女の歌はいわばジブリ映画である。腐海から風の谷なのだ。スラムから天空の城なのだ。ダイナミックな下から上へのエネルギー。すぐそばから遠くに連れていくパワー。
主催イベントなどではピアノアコースティックライブも行われるようになり、その音源も出た。コロナ自粛明けのライブもアコースティックから始まった。この音源ではまさにこの優しい星熊南巫がたっぷり堪能できる。いつの間にか唯一無二の歌声を築き上げた彼女がそこにいる。
実際のところ、アコースティックの彼女の歌声は不思議な質感を持っている。ハスキーというわけではないが、声にかすかにホワイトノイズのような心地よいゆらぎが乗っかっていて手触りが良い。声圧を保ちながら、時にささやくように、されど力強く、様々な想いを載せて紡がれる。とても癒される歌なのだ。
しかし彼女はアコースティックバンドの人ってわけじゃない。ギターを爪弾いてバラードを奏でるのは本道ではない。バンドを背にして歌うラウドサウンドのリードボーカルなのだ。両立しうるかは常に楽曲によるところが大きい。
しかしレーベル移籍後の楽曲たちはどちらかというと別の課題を課すものが多く、それによって成長した部分もすごくあると思うし、良曲が多いけれど、個人的にはシンガーとしての星熊南巫を味わい尽くすという観点では物足りなさがずっとある。Oneのような彼女の良さが出ている名曲ももちろんあるけれど、自分が聴きたいのはアグレッシブなサウンドの中であの優しさを表現できる、そんな曲だった。暗くて時にかよわくさえあるのに攻撃的に力を増していく、あの世界感だった。もっと純度の高い星熊南巫が聴きたい、グループとして大きく進んでいくのに必要な曲たちとは別にそんな願いは尽きなかった。
しかし表立って明確には言わなくても、彼女がグループの活動とは別に何かしらやってること、それに悩んだり思い詰めたりしてること、それは発信の端々から垣間見えた。いつになるのかもわからなかったけど、彼女自身の道を諦めてはいない、それを密かにずっと楽しみにしていた。
DEATHNYANNに織り込まれた星熊南巫の両極をたゆたう個性を勝手に語る
そして「DEATHNYANN」である。最初に発表されたクリエイティブは彼女の趣味性がよく出てる気がした。趣味性しかないと言ってもいい。以前から生誕イベントに「星熊デスカーニバル」などとつけるようなところもあったしよく着てるTシャツなどもメタルバンドなどのブルータルな可読性の低いフォントのものが多い。そして言うまでもなく無類の猫好きである。
DEATHNYANNという単語にどんな意味があるのかはさておいても本人らしさが全開である。「これは期待できる」と曲が出る前から安心する。少なくともこのクリエイティブに続く楽曲はアグレッシブに違いないし、そこに彼女は持てる武器を全て入れ込んでくるはずだから。
最初のTwのメッセージは
どう打ってるのかわからないのでコピペ。しかし可読性低いの好きすぎである。
クリエイティブにも小さく英語のメッセージがついていた。合ってるかわからないが意訳する。
「やあ、私は2021年に戻ってきた。ちょっと時間がかかってしまったけど私はここにいる。私はこれから起ころうとしてる全てを知ってる。他の何かじゃなくて、答えはいつも一つのはず。」
単にソロ曲というよりコンセプトを持ったプロジェクトであることがわかる。「DEATHNYANN」なる存在はどうやらどこか未来からやってきたのだ。
そして解禁されるMV。楽曲制作したのはPaleduskのコンポーザーであるDAIDAI氏。ラキアでは「why?」のアレンジを担当している。
「illumina」はイタリア語で「輝く」の意味だ。英語を多様したメッセージ性、一方で日本のヤクザや女体盛り、屋形船、グラフィティアートのような意匠が入ったネオチンピラ的なジャージ姿、キービジュアルもアジアンテイストが強く残っている。全体としてベースを日本初としつつ多国籍感が強いコンセプトが貫かれている。どこか「攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL」を思わせるような本来の意味でのクールジャパン感だ。ターゲットがグローバルであることが窺える。
曲調は非常にアグレッシブでカオティックであるが、のっけから星熊南巫特有の優しくてウィスパーな歌で始まる。
攻撃性と優しさの共存。「おーこれだよこれ」まさしく聴きたかったバランスそのものだった。
歌詞のメッセージ性はアンビバレントにポジションが移り変わる。「僕は君になれないし、君は僕になれない、それが真実、わかりきったシナリオ」そんなマッチョなメッセージとは別に、サビでは「僕を見つけ出して」「照らしてよ」「近くにいるほど孤独を感じる、それを思い知らされるんだ」と祈りと痛みが歌い上げられる。
自分の弱さを前提として強くあろうとする個を訴える、このバランスこそが実に星熊南巫そのものの世界観だと思う。「怖いからこそ、恐れないと歌う」それが彼女なのだ。
強い夢ややりたいことがありながら、彼女自身は迷いや弱さもまたたくさん抱えている。一方で、それを見せることなく強くあらねばならないという、ステージに立つものとしての使命感も強い。彼女が強い言葉でメッセージを放つ時、それは自分自身に向けて言ってるようにも聞こえる。達成感すら刹那。そんなアンビバレントな感情を力に変えて、彼女はずっと歌い続けている。そんな姿に多くのファンが頑張りたい自分を重ねて観るのだ。
illumina 君を守りたい illumina 苦しくて
The closer,Lonlier.(近くにいると孤独を感じて)
これまで作ってきた楽曲も歌詞も常に「自分の弱さを前提とした意地のメッセージ」である。明るいだけ、強いだけではない。彼女は人間の弱さも脆さもよく知っている、だから彼女の歌は時を追うごとにその優しい抱擁力に説得力を増すことができたのだと思う。
弱さを優しさに、意地を強さに。「illumina」は彼女らしいバランスそのもので歌も楽曲も形作られていた。そしてそれを表現出来るスキルと、形に出来るチームと出会った結晶、それがDEATHNYANNなのだ。
DEATHNYANNはなぜ未来から来た?その世界観を勝手に考察する
しかし、なぜDEATHNYANNは「未来から戻ってきた」コンセプトなのだろう。ここからは純粋な妄想だが、「どんなに状況であってもやりたい事をやり通すこと」「どんなに他の選択肢を選ぼうとしても結局は同じ答えを選ぶこと」そんな強い気持ちを歌に乗せて、自分の力で届けるのにもっと確かなものをその身に下ろしたかったのではないかと思う。
彼女の作詞作曲した曲に「reflection」という曲がある。サビの歌詞では次のように歌われている。
I don’t want to stick to that shape
now with the hope and dreams
「今の形に固執しない」「変わっていく」、この曲がリリースした時期は「アイドル」というよりはより「バンド」的なものやサウンドに舵を切り始めた時期だった。そこには一定の賛否があったものと思う。それでもその時の彼女は「変化を望む」と意地のメッセージを歌い続けた。
時が経ち、グループとしての変化どころか、ライブの様式そのものすらも大きな変化を向かえた。望もうと望むまいと変わっていかざるを得ない世界で、我儘ラキアというグループがやってきたことを振り返るならば、変化に柔軟に対応しながらも「変わらず届けられる価値」を作りだすことに心を砕いていたと思う。
一例として特別な場合を除いて彼女たちは配信ライブは行わなかった。そうした「パンデミックgimmick」に迎合し、Zipファイルに圧縮されてアーカイブされ、いずれ「not found」になるだけの道を進まないようにしてきたと思う。(ただこの歌詞が比喩しているのは自粛でライブができない状況もしくはやりたいことができない状況をZipファイル取り込まれて占領されていると表現しているとは思う。エラーコード504はサーバーレスポンスがタイムアウトしたという意味なので、もう待ってはいられない、みたいな意味ではないかと)
そういう中で、変化を恐れず様々な挑戦を経て自身を高めていく中で、彼女の中でもより「本当にやりたいこと」のフォーカスが整ったのかもしれない。「変わらないといけなかった」のは「やりたいことに近づけないなら意味がないから」であり、それに手が届く今の時点では「他の何かじゃなく答えは一つだけ」になる。目指すべき未来のヴィジョンが以前よりクリアになったのかもしれない、そんな姿を形にしたのがDEATHNYANNなのではなかろうか。
今の我儘ラキアの勢いはすごい。今まで以上にたくさんの大人の力も投入されているし、何より一緒に戦うメンバーがいる。
ソロといってもたくさんの人間が関わっていることに違いないが、それでもこれは彼女の頭の中にある世界観や想いの具現化であって、誰のせいにもできない星熊南巫のプロジェクトだ。
それを昇り調子のグループの活動と並行してやるのは途轍もないエネルギーが必要であると思われる。短期的なことだけ考えるなら今はグループに集中すべきタイミングだとも言える。
やりたいこととはいえ、不安と重圧はいかばかりか。その上、ただでさえ、長期化するパンデミックの先行き不透明な状況。本人だけじゃない、受け取る側にとっても生半可なエールに勇気づけられる時代ではない。
そういう弱気になる心、あるいは批判的な意見、そういうものをエイヤっと無視してやり抜くからには何か大きな…アイドルに変わるシンボルが必要だったのではないか。
DEATHNYANNはきっと、さまざまな人がさまざまなことを言う、それらを聞き入れてどのルートを歩んだとしても「結局はやりたいことが変わらなかった未来の自分自身」じゃないだろうか。だから「その全てを知ってる」彼女は現在に戻ってきて、自分が本音では望まない全て(ヤクザ)を斬り伏せて「答えは一つのはず」と歌うのである。
今の彼女そのものよりも「どう生きても変わらなかったことを確信してる彼女」の方が当然強い。その強い彼女を自分に下ろして彼女は同じように悩んで生きる人に、そして自分自身にとっても「illumina」であろうとする。まさに彼女の新しい物語にふさわしい曲であり、彼女の想いと願いが詰まったコンセプトなのだと思う。
DEATHNYANNには立ち塞がるものにDEATH(初志貫徹)を、愛するものにNYANN(心の拠り所)を。彼女の2つの誓いが込められているのではないだろうか。
謎の青いクマの着ぐるみの意味を勝手に3つほど考察する
MV中に登場しライブでも出てくる「青い着ぐるみのクマ」。これにはいろんな意味があるだろうがDEATHNYANNにとって重要なモチーフであるのは間違いない。
これも完全にオタク特有の考察モードの妄想だが3つの説を考える。
1.
「アイドルとしての星熊南巫そのもの」。用意されたパッケージを着てパフォーマンスする存在感である「アイドル」という存在はあくまで「一般的には」いわば着ぐるみのようなものでもある。それがぶった斬られて「中から出てくる本体」という構図はアイドルとしての彼女とソロとしての彼女を分かつものだと考える。一方で、じゃあ脱ぎ捨てたアイドルに対して否定的なのかというと、ステージに出てきたり写真などでも目立つ露出が多いことから「一緒に連れていく一体のもの」だという意味があるのではと思う。現時点においては分離した存在としてのメタファーであると同時に彼女が歩んできたこれまでを背負って進むシンボルが青いクマなのかしれない。
2.
タイムリープコンセプトとしてドラえもんを意識した青いキャラクター説。これは本当に強引な意味付けだが、未来から戻ってくる存在を導く青い動物のキャラクターとなるとそんなモチーフも感じる。ただこれはこれ以上でも以下でもない。
3.
さらにこれは絶対違うけど20年ほど前の映画「ドニー・ダーコ」に出てくるウサギの着ぐるみのオマージュ。同作はタイムリープものというよりパラレルワールドものだ。謎の幻覚症状に悩まさせる主人公のそばに節目節目で現れる銀色のウサギの着ぐるみが印象的な作品。
銀色のウサギは彼に「世界の終わりまであと28日と6時間と42分と12秒」であることを告げる。冒頭でジェット機のエンジンが自宅に落下するも、夢遊病で外に彷徨いでていた主人公・ドニーは被害を回避する。しかし物語の終焉で両親の乗ったジェット機が墜落、そのエンジンが過去のドニーの自宅になぜか落下し、その世界のドニーは死ぬ。すなわち、本編で起きる全ての事象は主人公の生と死が確定しない揺らいだゾーンで展開している物語であるということ。
未来から戻ってきたDEATHNYANNと現在の星熊南巫。2つの意志が混在しながら展開するilluminaの歌詞は勝手な決めつけだがこの「ドニー・ダーコ」的な曖昧な揺らぎの中に存在する。そのオマージュなのではないか?
上記は全部妄想であって、全然違うかもしれないがせっかく考えたので書き記しておく。
変わらないものを守ること、なりたい自分を貫くこと。DEATHNYANNのMISSIONを勝手に語る
解禁された「illumina」のジャケットのアートワークはジュエリーボックスのようなものに装飾が加えられた心臓のような造詣の物体が入っている。弾丸のようでもあり、内燃機関エンジンのようでもある。そんなエネルギッシュな心臓は重厚な箱の中にあってなお、チェーンで厳重に封印されている。きっとこれこそがDEATHNYANNの本体なのであろう。閉じ込められても時を経ても変わらず脈動し、自分らしい輝きを失うことはなかった心臓。これを守り抜き、さらに輝かせて「元いた場所=未来」に届けることが現在の星熊南巫のミッションなのだと思う。
全部に意味がなければいけないわけではないのだが、かなり時間をかけて練り上げたコンセプトと世界観、読み取ろうとすれば様々なものが見える。ただその総体は実に星熊南巫的だ。
いろんな人間の力を借りながら、彼女らしさを表現する。それは全部自分でやって表現するよりも難易度が高い。表現者としての彼女の進化に驚かされるばかりである。
我儘ラキアの星熊南巫はMCで「上司や好きな人の言いなりにならないでください、自分がやりたいことをやり抜いてください」と未来に向けて叫ぶ。でもDEATHNYANNならきっと「仮に言うこと聞いて生きていたって結局は貴方は貴方だし、答えは変わらないことを私は知っている」と未来から語りかけるのではないだろうか?
星熊南巫はDEATHNYANNと言うプロジェクトにおいて「未来の自分」から使命と命を託されたのだ。そこにたどりつくことが彼女の新たな物語。
しかしファンはその変化を案じることはない。ラキアであってもDEATHNYANNであっても、彼女の歌は地べたを這うような場所に寄り添うようにしながら、手をとり、抱き上げて、一緒に高みへと誘うだろう。
それは彼女が望む未来にたどり着いてもきっと変わることはない。どこに行っても誰と組んでも本質が変わってしまうこともないだろう。
アイドルとバンド、強さと弱さ、戦闘性と優しさ。常に一見相反する領域を生きる星熊南巫。でもその状態こそが彼女そのものであり、たった一つの答えだ。どれかを切り捨てて割り切って変わってしまうには、彼女はあまりにも不器用な人だから。
他の何かじゃなくて、答えは一つだけ。
It's never been anything else,
the answer has always been the same.
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