「震えが止まらないー青森空襲証言」風晴 貢
「空襲来たハンデニゲネバマイネヨ」と母に揺り起こされる、ラジオで連日のごとく○○市に空襲警報発令と放送され青森にもいつの日か来るのだろうと言う予想があったからです、それが昭和二十年七月二十八日の真夜中の事だったのです。
当日は学校が夏休みに入って間もなくで宿題も八月に入ってから馬力を掛けて行えば済むことゝ専ら仲間たちと遊び放題の時期でもありました、子供たちの遊びば今日のようにテレビゲームが有るわけでなし、テレビも有りません、外に出で鬼ごっこや兵隊ごっこです、「天に変わりて不義を討つ、忠勇無双の我が兵は、歓呼の声に送られて、今ぞ出で立つ父母の国、勝たずば生きて還らずと、誓う心の勇ましさ」この歌を意味を理解出来ないながらも男の子は皆唄っていました、子供の頃から洗脳されていたのですね、これでは誰もが幼年飛行隊入隊を志願しますよね。
兵隊ごっこは遊び仲間のガキ大将のもとで草むらで木の枝や板切れを手に持ち敵だ伏せ、突撃の合図で前に走り出し、撃ての合図でバンバンと口で言う、撃ち方止め、行進。行進はいつか見た本物の軍隊行進、軍靴が砂利道をザックザックと進んで行ったが、我々子供達と言えば藁草履、音がしないので兵隊を真似て「ザックザック」と口で言いながら歩くのです。この様な遊びですっかり疲れ切り夜はぐっすりと寝込んでいました。
父は家を守るといって残り家族六人で裏山に逃げ込みました、私の家は郊外の住宅地で背後は小高い雑木林でした、その逃げる途中神社の鳥居の前でみた光景は七十四年経過した今でもはっきりと思い出すことが出来、今まで最も恐ろしい記憶として残っています。
Bニ十九と言うアメリカの大きな爆撃機が六十二機で一時間十一分間、約八万三千もの焼夷弾を投下したのですから、ゴーゴーと響く飛行機の音、燃えながら流れ落ちる火の塊、目の前にある右から左まで視界の全てが火の海、バチバチと建物が燃える音、何と恐ろしい事、足が振るえて止まりませんでした。
此の空襲で市街地の九十%家屋二万一千余りが消失罹災者も七万二千四百人余りと多くの被害になりました。
知事が街は住民が守るべきなのに避難するとは何事か街に居ない者には食料の配給を停止するとの事でこの日避難先から戻って来ていた方が多かったと言われ、犠牲者を多くした一因でもあるとか。
私の兄弟姉妹は下から順に私と妹と姉兄姉姉姉の七名ですが、兄は当時青森商業学校の生徒で学徒勤労報国隊の一員として上北郡の地域に動員されて居ましたので家にはいませんでした、当時は全国的に多くの学校の生徒が沖縄軍の全滅により、いよいよ本土決戦になるその備えとして野戦陣地構築のため動員されたそうです、学校名も商業ではこの戦局の厳しい中で県立青森第二工業学校に変更されています、母は動員で腹を空かして居ないかと、毎食事時は家に居ない兄の分として必ず陰膳を据えていました、母の想いは如何ばかりだったのでしょうか、その兄は学校の先生に勧められ幼年航空隊に志願手続きを終えており終戦が後一週間遅れて居れば入隊していたと後日話していました。我が家は上が姉三人で、戦場に兵隊を一人も送って居ないので自分がお国の為にはとの想いからで有ったのでしょう、父は戦場に兵隊として一人も送っていない事はお国の為に奉公出来ていないと時々嘆いていました、当時の風習の中で肩身の狭い思いをしていたのでしょう。
不安な夜が明け自宅へ帰ってみると家には多くの人達が避難して来ていました、親戚の方々からその知り合いの方々で一杯でした、母や姉たちは早速食事の準備をして食事の提供に走り回りました、二日、三日と段々少なくなりましたが中には4歳の子供が小学校入学まで我が家の納屋に仮住まいしていた家族もいました。
焼夷弾は目標を誤ったのか我が家の水田にも落下していました、焼夷弾の中身はゴム糊の様で当時は藁草履を日常履いていましたが足で蹴散らしますと草履にくっ付き二日後でも燃える威力を保っていたし、破片の鉄製品は自宅で屋根の下のしずく受けに、蓋の様な少し重い鉄製品は近所の若者の力試しに使われ朝鮮戦争の鉄くず需要後に見えなくなりました。
空襲前の学校の様子は、天長節や明治節の日には職員室の脇に設けられた白塗りの御真影堂から燕尾服に身を包んだ校長先生が天皇の御真影を頭上高く持ち上げながら講堂に運び教育勅語を読み上げました、その間生徒の我々は頭を上げる事は許されずじっと下を向いたままの終わるのを待つのでしたがこっそりと盗み見をしたのです、この式典が終われば当時としては珍しい紅白の祝いの御菓子を頂けるので我慢出来ましたが。
体育館には体を鍛えるためとして肋木が設置されていましたし、軍事教練用の鉄砲が約十丁位陳列されており、触れる事は禁止されていましたが、いずれは軍隊にとの想いを強くするための方策で有ったのかも知れません。
戦中の生活は暗らく辛かった、夜の飛行機の標的になると言われて電球には蛇腹式や黒い布で覆ったり、巡回する町内の警棒団の組織に灯りが漏れていると注意されたり、御餅の餡子は塩味が多かったが、時にはサッカリという甘味料で、これは少しの量で甘みが出るものでした、食事のお米も自分の家は農家で有りながら大根や大根の葉っぱを混ぜたもので、大根は小さく刻むと白い色で見た目にはお米とあまり変わらないが葉っぱの場合は白い中に緑が目立ちました、最も味は美味しいとは言えないが量で満腹感を味わうには仕方ないことでした。
私の小学校の通信簿を母が大切に保存していましたので広げて見ますと小学二年までは白い紙に印刷された物ですが、終戦の翌年の私が三年生の時の物は先生の手作りと思われるガリ版刷りで紙質も白ではなく全くのざら紙、大きさも往復はがき位の小さく物資不足の様子が窺われます。
松根油の製造装置も安田地区と細越地区の中間の沼の下にありました、竹の節を抜いた太い竹が何本も置かれ先の尖った松の根が高く積まれていましたが間もなく終戦となり松の根は暫くその付近に放置されていましたし、地域の漆喰の土蔵や建物は戦闘機の標的になるとコールタールで模様の様なものが描かれ白さを隠していました、終戦後もしばらく残っていました。
さて終戦となり夏休みも終わり二学期も始まりましたが生徒数が倍に増え、其の為午前と午後に別れての授業が続きました、午後からの授業の経験がなかったので戸惑いを感じました。
物資も不足し軍の物資であったのか紐の沢山ついた肩掛け鞄やエナメルの塗っていない長靴などがくじ引きで配給されたりもしました、学校給食は無かったが脱脂粉乳が月に一度位飲むことが出来ました、瀬戸で作った防衛食の容器に入れて飲みましたがクラスの皆が旨さに喜んで飲んだものです。
この様な戦中を経験した我々は、自分の子供には勿論、孫達にも戦争の無い平和こそ人類の繁栄に繫がる事と話し続けねばと思っています。
(青森市 風晴 貢 82才)