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六万の軍勢に耐えた九戸城が持つ秘密とアイヌ語地名

               杉山武(アイム語地名研究家/八戸市在住)

九戸城を巡る戦いまでのいきさつ

1.わがふるさと二戸市で戦国末に起きた大事件
 二戸は元々郡名であり、元は宮野と呼ばれていたそうです。そこに九戸政実が、鹿角鎮定の功により加賜され、自分の領地であった折爪岳の東側(長興寺、伊保内等)より、交通の便のよい馬淵川流域に居を移したようです。(註1) そして、今までの城を修築し堅固な城にし、白鳥城とか、宮野城と呼ばれていた城も九戸城と呼ばれるようになったようです。

 九戸城は私の生まれた二戸市の中心部にあり、高校生になるまでの通学路から望む景色の中に九戸城がありました。 中、高校生の校舎のある場所は陣場ヶ丘といい、攻める側が陣地とした場所で、「九戸の乱」の様子については何度も聞きました。

 戦国時代は長い歴史の中でも日本列島中がいくさに明け暮れていた時代のことですが、東北北部の南部地方に住む人たちにとっては、この地での戦いは少なく戦いを遠目で見つめていたのでしょう。

 東北北部の東側(南部地方)は米の生育には適さないが、平安時代から戦いの下支えとなる馬の生産地として参加していたことになります。その土台をつくったのは糖部(ぬかのぶ)と呼ばれてたこの広い原野を平安末期に奥州藤原氏、鎌倉時代には北条氏の命を受けた工藤氏、甲斐源氏の一族の南部氏等が勢力を伸ばし、馬産地の土台を作っていきました。そして、三戸南部氏も下北・津軽一円・鹿角そして、盛岡周辺までと、勢力範囲を広げていきました。その対応も部下まかせにしてくると、権力のおごりに不満が出てきます。大きな事件が「本三戸城一聖寿寺(しょうじゅじ)館」への放火でした。配下への配慮不足が事件につながっていきます。

 この事件によって南部家に代々伝わる文書類はことごとく焼失し、光行 (棟部に下向した建久2年-1191)以来の南部氏の事績の記録が失われてしまいました。三戸南部24代晴政の頃でした。

2. 戦国時代終末期に南部家内を二分した戦いのはず
 その晴政の跡取りの男児がいず、5人の女子だけでした。晴政はその子たちに婿をとり跡取りにすることにし、その有力な候補としては、長女の娘婿である田子信直と、次女の九戸彦九郎実親の兄政実でした。そのつもりであった晴政ですが、田植えをしていた女子に手を出し、妊娠させ、ようやく男児が誕生しました。

 我が子に家督を継がせたくなった晴政は、跡取り予定の長女の婿信直との養子関係を破断にさせてしまいました。その後、その子が十三歳になった頃に晴政がなくなり、その子、晴継が25代となった晴継でした。しかし晴継は父の葬儀の夜に暗殺されたようです。だれが25代晴継を殺害したのか分からないまま、次の跡目を信直(長女の精一この時は長女は亡くなっています。)に決めてしまいます。暗殺された晴継のことには触れず、26代を決める話し合いは一方的だったため、一族の中には不平・不満を持つものが多かったようです。

3. 九戸の反乱に困った信直は、天下を手中の秀吉に援軍を依頼
 三戸南部家の内紛が出てきます。本三戸城といわれる聖寿寺館の火災(赤沼備中による火付け)や、世継ぎ問題を覆したりした事件などの積み重ねが「九戸一揆または九戸の乱」という南部一族内を二分した戦いとなりました。のちの話ですが、九戸城に味方し、九戸城に入った数は5千人以上であり、三戸南部氏26代当主となった信直の力では容易に倒せる相手ではないことも悟っていました。

 信直は天正17年(1589) 11月に秀吉が奥羽の諸豪族に出した小田原参陣の命令に従って信直は秀吉のもとに参陣し、領地の安堵の朱印状をいただきました。そして、自分の領土内の状況を話して援軍の要請を願いました。ちょうど東北南半部では小田原に参陣しなかった葛西・大崎等が領地を没収され、その残党たちが一斉に起し、各地で騒乱が広がっていました。秀吉にとっては、その騒乱を鎮めることと、九戸の乱の平定、奥州仕置きを集結させることが、天下人の証でした。

4.戦いの顛末は
 1591年8月に秀吉の命を受けた6万人の軍勢が九戸城の取り囲みます。自分たちが天下統一を目指す豊臣の敵となっていようとは思わなかったはずです。8月25日からの東西南北からの攻撃を行ったが、三方は険しい崖で攻撃できず大手門・搦め手文様門とも、攻撃の糸口がつかめないままでした。

 攻め手の浅野長政から蒲生氏郷への文には「この城を武力で攻め取ろうとすると、兵たちを多く討たれるばかりで、そんなに利があるわけではない。先ずは城攻めは暫く控えた方がよろしいと思います。」と進言しています。本格的な戦いが始まって三日が過ぎると、攻撃する側が天然の要塞である九戸城に攻め込む術を欠き、また食料の不足など早めに戦いを収束させねばということ危機感にあせりが生まれました。

 そして、九戸政実の菩提寺である長興寺(長光寺)住職の薩天和尚を和平の使者として城内に送り、和尚から「家臣や多くの部下を助ける道」を説かせました。政実のもののふとしての意志を共有する仲間たちの命を生かしたいという思いがありました。

 それだけでなく政実の心には、戦いを長引かせられない事情があったはずです。同年1月に始まった大小の戦いも、9月までで8ヶ月にも及びます。攻める側の6万人の食料同様、城方の5千人の食料も又、尽きる手前だったのでは無いでしょうか。十分な備えがあったはずにしろ、長く大規模な戦になった今となっては、和解の申し出は自分たちの顔がたつものだった思います。自分たちの首はなくなっても、人々は救えるということを願ったのではないでしょうか。

 反対する者もありましたが、九戸政実も同意することにし、政実方の責任者の8人が城を出ました。その結果は、後世まで伝えられていますが、約定は「偽り」でした。残る兵をみな二の丸に押し込め、四方から火をかけたそうです。戦いに参加してくれた5千人以上の人たちはもちろんのこと、女・老人の果てまで焼け死んだそうです。

 この戦いに臨んだ政実には、津軽氏や伊達氏からの誘いの約束があったと言われ、攻め手である討伐大将である蒲生氏郷による約定が破られる(だまし討ち)など、武士のあるまじき卑怯な行いなどがまかり通った戦いの結末でありました。そして宮城県栗原市で首を討たれ生涯を閉じました。

(2) 九戸城周辺に残る三本の川とアイヌ語地名

 南部諸城の研究(註2) によれば、九戸城は平安時代の「安部氏の一族白鳥八郎の居城した地と伝えられている。この地に城址を囲って白鳥川があり、館部落にある館は白鳥館ともいい、蝦夷のチャシ形式のものである。」と書かれています。

 そして、「九戸城は福岡町大字五日市の東側で馬淵川と白鳥川との合流地点南側にある平城である。標高140mの丘卓である。馬淵川から本丸までの距離は約500mである。西方は、馬淵川に、北方は白鳥川に、東方は猫淵川に接している。これらの諸川は土質と川の浸食激しいため接岸高く深谷を形成し、渡河困難である。」として筆者の沼館愛三氏の記述があり、難攻不落の城として知られていました。

 私はこの九戸城の周辺をまわってみて、この城が攻められにくいのは、城のまわりを流れる三本の川と、それと一体となって林立する岩山の存在だと感じました。特に西馬淵川)・北(白鳥川側)・東(猫渕川側)等は大きな自然の峡谷であり、敵の侵入を妨げているものだということが分かりました。いにしえから残っている地名にその意味が残り、ずっと伝えられてきているのだと思いました。

1. この三本の川の名前がアイヌ語地名であるということ
 アイヌ語地名とは、アイヌ民族によって現代まで伝えられてきました。アイヌ民族が築いてきた文化をアイヌ文化と言いますが、それが歴史の中に表れてくるのは今から千年くらい前のことです。北海道では、それ以前の文化を新しい方から擦文文化、続縄文文化、縄文文化と言います。縄文時代人は縄文文化を築いてきた人たちですが、北海道と東北地方の人たちは互いに交流しあいながら縄文時代を生き抜いてきたのだと思います。アイヌ文化を築いたアイヌ民族は、急に歴史に表れたのではなく、それ以前から恐らく縄文時代から日本の国に住んでいた人たちだと考えています。東北地方にもたくさんのアイヌ語地名が残っていますので「アイヌ民族が住んでいたのか」とよく言われますが、それは分かりません。でも、アイヌ語を使っていた人たちであることは間違いありません。世界遺産にもなった縄文時代につくられた大きな遺跡群は縄文時代早期から晩期まで17遺跡が認定されましたが、これらの遺跡群は互いの文化を高め、言葉を話し情報を交換しあっていましたし、北海道と東北をつなぐ津軽海峡は「大きなショッパイ川」くらいの気持ちでいたと思います。そのためには、海の流れにまけない大きめな舟が必要ですし、大きな木を切り舟を造る技術を伝え合わなければなりません。伝え合うためには、互いに信頼する心が必要ですね。(言葉はありました。記録にないだけ。)

 その人たちが使っていた言語がアイヌ語であり、縄文時代から使われていた言語であれば、縄文語と呼ぶべきでしょうが現在は「アイヌ語」としてとらえます。

2.城の西側を流れる馬淵(マベチ)川
 古くから川は、人間と同じ生き物であり、海から陸に上って、村のそばを通って、山の奥に入り込んでいく生き物(女性)だと語り伝えられてきました。それはアイヌ民族に伝わっている川に対する考えで、古いアイヌ(縄文時代人と共通する考え方と思われる)は、もともと海辺の海岸線に沿って集落を形成していたからだといいます。自分たちの生活する場の前に広がっているのは海である。そして、内陸部の交通は主として川によっていた。自分が見つめる海の反対側にあるのが山である。今はどこに行くにも道路があるがその山の方へいくのにも大切な道を川が担っていた。(註2)

図1

図2

 川の水の流れは源流から川下に向かって流れるが、馬淵川の源流付近には、カタカナで書くが、マベチという集落が2つあります。これらは数百年程度の開拓集落です(岩手県のテレビ放送から)。

 私は思います。これらの集落の人たちが川の名前を付けたのではありません。なぜでしょうか、下流に行くに従って何倍も大きな集落があるのです。それも、縄文時代のかなり古い時代から人々は川と共に生きているのです。その人たちは「オ(ウ)マン・ベツー山の方へ行く・川」と呼んでいたのでしょう。

 「好字二字化令一元明天皇 和銅6年(713)」により、漢字で地名を記録するようになりました。ベツ・ベチは川です。そして前には「オマン・ウマン一山のほうに行く」という意味です。発音がはっきりしない東北人なので「オとウ」がよく分からず記録する側がオマンをウマンと聞き「馬」の字を当てたのだと思います。この地方に馬がいない頃に「馬」の漢字が使われています。

 口を大きく開けることの少ない地域性もあり、オもウも大した違いがなかったのではないでしょうか。私はそう思います。奥州藤原氏以降の大陸との貿易により得た馬により、その育成に励んだのではないでしょうか。

3.白鳥(シラトリ)川
 元々あった川の名前(シラトリ)に、安部氏の一族である白鳥氏の名前を利用したものなのか、実際に旧九戸城の主が白鳥氏であったかどうかの証拠は一つもない。むしろ、このような証拠の一つもない逸話の域を出ない話は、作られた話と考えた方がよいと思います。史実と違っていてもみんなに興味を持たせたいと考える人もいるが、その場合は必ず断り書きをしておかなければならないはずです。

 白鳥(シラトリ)川は、九戸城の北を流れる川で城の外堀を担っていました。城側の壁は30m程でしょうか。川の対岸までの幅は百m近くなると思いますが、現在の川幅は10m程だと思います。また、川以外の店となっている所にはたくさんの人家がありました。そして、九戸城の堀壁に向かって吊り橋を架け、「岩谷観音」と呼ばれるお堂があります。私の家族にも、小さくしてなくなった姉がおり、家族全員でお参りしていました。揺れるろうそくの炎が不気味に感じた小学生の頃の記憶です。

 この川は西に進み、大きな馬淵川に合流します。この川の名前はシララ(岩)・トゥウツル(二つの尾根の間)・ナイ(川)ー岩山の尾根の間を流れる川のことだと考えました。(註4) シララは大きな石や岩のことを指すが、ここは自然の岩の城壁を形成するので、岩・山と書きました。この上流に行けばもっと岩山のような様相を呈しています。岩谷観音の対岸の崖も城側ほど高くはありませんが、ずっと同じ高さを保ち、二戸から九戸方面への主要地方道二戸九戸線が通っています。

4. ネコプチ(猫渕)川
 猫渕(ネコブチ)川は九戸城の南西側を流れる川で、二戸市石切所字村松の南側にある山の両脇を流れている小川が村松集落の手前で合流し、一本の川となります。この猫渕川は北北西に進み、小字名が猫渕である集落を北東に折れ、九戸城の若狭館の縁に沿って北側に流れ、大きな渓谷である白鳥川の渓谷に近づくと、急斜面を降りながらやがて白鳥川に合流します。途中で幾筋かの小川が合流します。

 この川になぜ「猫」という動物の名前が付くのだろうか。猫に限らず、名前がつくとなれば川の周辺に多くの猫がいたのだろうか、他の動物を含めてみても、川の水を飲むための足場とはならないようです。川幅は4~5mほどでしょうが、川面までの斜面は急で大きめな石がごろごろし、動物の水場としては不適です。また、この辺りには動物のための食料にはとぼしいようです。これらのことから漢字の持つ意味をはずし、漢字のもつ音(おん)で考えてみたいと思います。

 私は、ネコはナイ・コッではないかと考えました。ナイは「川」、のこと、コは「コツーくぼんだ所・跡」で、くぼんだ所を流れる川のことです。これは、猫渕川とは違うのではないですかと考えたのですが、ブチ(渕)の音は元々「プッ」と発音していた思います。川や沼の「口」のことです。そうすると、ネコブチは「ナィ・コップッー峡谷を流れる川の口」という白鳥川と合流する川だという意味になると思います。猫渕川はあまり大きな川ではありませんが、やがて大きな峡谷である白鳥川につながる川であり、そのことを示した川だと思います。

5.尻子内(シリコッナイ)と穴牛(アナ・ウシ)
 馬淵川と白鳥川の接触点から白鳥川を1kmさかのぼる南岸に「穴牛(アナウシ)」集落があります。また、白鳥川を2kmさかのぼると北岸に「尻子内(シリコナイ)」集落があり、折爪岳登山口が近くにあります。大友幸男氏(註5)は、穴牛について「白鳥川の川岸にある穴牛(あなうし)は、「アネペ・ウシー我らが食うもの・多いところ、あるいはアネプ・ウシー細く突き出た崎・ある所とかといった語感もありますが、難解です。」と書いています。

 ーアイヌ語地名のようだーという考えを持っているようですが、適切ではないような気がしているようです。この地名のある所についての実地体験はしていないようです。私が歩いて感じたことは、食べ物が豊富とか突き出た崎のある場所ではないようです。

 私は「アウ・ナイ・ウシー枝・川・群在する者」ではないかと考えてみました。猫渕川を含めてほかに名前のない小川がよせ集まり、それらが集合し坂を下り、白鳥川へながれていくような所から付いた地名かも知れません。

 尻子内は(シリコットナイーきり岸の・催地・川)で、この尻子内から下には20以上の崖面であり、南岸はさらに50m以上の山になっています。そこから直下を臨むと幅5mほどの川が流れています。この川まで降りて様子を見てみると、川底のあちこちの岩石には、ホタテ貝のように殻が大きく放射筋の多い貝殻の化石が見られます。この川の流れている面は浅い海に蓄積された貝殻が積もり、化石となった跡だと思います。この白鳥川渓谷は、日本列島が浅い海の底だったことを伝えています。

 まだ、故郷にたくさんあると思われるアイヌ語地名、今回はここまでにします。九戸城の自然の堀(白鳥川峡谷)を歩きながら、一回バランスをくずし、川にはまってしまいました。案内と救助をしてくれた故郷の友人、昆廣志君に感謝いたします。ありがとうございました。

註1政実の鹿角鎮定の功により加賜され修築を計ったもの
註2 南部諸城の研究一沼館愛三 1976 青森県文化財保護協会
註3 知里真志保 アイヌ語入門 北海道企画出版企画センター 1956
註4 菅原進 エミシのクニのアイヌ語地名解 秋田県の部2011 P270一戸鳥内(ととりない)阿仁町
註5 大友幸男(大正十三造著)岩手の古地名物語 熊谷印刷 1986 (穴牛の地名の意味は?)

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