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「青森県の写真黎明期」 相馬信吉

 平成25年1月、青森市浪岡にある常田健美術館の岡田館長さんから、古写真が多量に届きました。青森地区は、昭和20年7月28日の青森空襲で甚大な被害を受けていたため、貴重な写真資料もほとんど消失していますが、浪岡地区は戦災を免れているので、土蔵などにまだ残っているようです。写真を見ていくと、どうも、明治時代のものと思われるものが数枚ありました。そこで、写真史の素養がない私は、船水清「青森県の写真事始め」(昭和52年 北方新社)を紐解いてみることにしました。以下で、俄勉強の一端を紹介します。

 日本における写真の第一歩は、嘉永元(1848)年に、長崎にいた上野俊之丞に始まったと言われています。以後、下田、横浜、箱館といった開港地を中心に全国に広がっていきます。

 青森県初の写真館は、明治4(1871)年に弘前市下白銀に開業した田井写真館です。田井晨善(あきよし)は、弘前藩に命じられ、東京で2年ほど修行をしてきました。オランダからレンズを購入するなど、開業にあたっては、多額の費用を投入しています。写真が一般的になじみのない時代で、初期の経営は大変だったようです。二代目が継いだ田井写真館は、明治34(1901)年に弘前を離れ、水戸市で開業します。その後、大正、昭和と異郷で代々営業を続けました。

 県庁が置かれた青森市では、箱館で写真技術を習得してきた中西美暢(びよう)によって、明治12(1879)年、塩町に写真館が開かれました。弘前出身の柴田一奇は東京で修行した後、同じ年、浜町に写真館を開きました。なお、柴田一奇の子孫は、現在も青森市花園町で写真館を営んでいます。

 前述した弘前の田井写真館の手伝いをしていた矢川蓮(れん)・美喜(みき)姉妹が、同じ下白銀の自宅に写真館を開いたのは、明治14(1881)年でした。蓮が21歳、美喜が14歳。写真台紙には、蓮・美喜、別々の名前が記されています。同じ写真館ではあるが、それぞれに独立した写真師としての気概が感じられます。また、当時の写真師の社会的地位は、医師や弁護士などと同じように、高かったと言われています。ちなみに、日本初の女性写真師は、群馬県桐生出身の島隆(里宇=リウ)と言われています。元治元(1864)年に、夫である島霞谷(かこく)を写した湿板写真でした。日本最古の写真より、遅れることわずか6年です。私たちが想像する以上に、当時の女性達は進取の精神を持っていたようです。以後、「おなご写真館」として注目を集め、田井写真館と入れ替わるように繁盛していきました。

 妹の矢川美喜が婿養子を迎え、弘前市本町に「M矢川写真館」を分家開業するのは、明治36(1903)年のことです。大正7(1918)年、代官町に移転し、現在も矢川写真館として営業を続けています。残念ながら、姉・蓮の方は後継者が途絶えています。

※添付写真=撮影:矢川蓮(人工着色 退色補正済み) 写真提供:常田健 土蔵のアトリエ美術館

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