疑似環境 - 週末の振り返り(2024年9月1日)

人は見たいように自分の世界を見るという言葉があります。なぜかというと、世界は様々な情報で溢れていて、到底全ての情報を把握したり、咀嚼したりすることは出来ないからです。

自分自身が知っていること、見える世界をベースに、世界はこういうものだと勝手に定義をします。その定義の中で、人は物事を判断したり、前に進めたりします。


当然作った世界が100%正しいことなんてなくて、その時の時代や文脈によって、正しさも間違いも変わります。はっきり言えるのは、「自分が見ている世界が全て」なんていうものはないということです。自分が正しいと思ったことが、思い込みだったり、バイアスをかけられているということも往々にしてあります。

そういった状態を防ぐためには、自分とは違う世界の人と触れたり、旅をしたり、本を読んだりすることで、徐々に世界を広げたり、再構築していくことにつながります。インターネットで情報を得たり、見聞きすることは便利ですが、それらが血肉になることは少ない。


疑似環境というのは、フィクションであるとも言えると思います。ホモ・サピエンスがネアンデルタールに勝ったのは、虚構を使えたからという考えがあります。現代は、フィクションに溢れています。

フィクションを自分の中に取り入れ過ぎると、文脈が増えすぎて、情報処理が困難になる。現在地がわからなくなったり、どの方向性があっているかがわからなくなる。また身体性が伴わない情報に触れすぎると、自分自身の身体感覚が希薄になって、拠り所が減ってしまう感覚があります。

その結果、現代の心の病気が増えることに繋がったり、心や五感に寄り添い、判断を助けてくれるためのコーチングのニーズの高まりになっているのではと思うんです。

疑似環境やフィクションに生きるというのは決して悪いことではないです。そういったものの中で生きているということを認識することが大事です。そして、自覚的にそれらを選び、時に客観視することがよりこれからの時代求められるのだろうと思います。

武田双雲さんとお会いした時に、「上機嫌になる」考えを聞いたのですが、同様の話だなと思いました。

また、疑似環境を自分以外に拡張する場合は、日々自分たちの現在地がわかって、向かっている方向がわかることようにすることが必要です。そして、取り組んだことが感謝されたり、何かしらの反応があり、それに伴う適切な対価が生まれるようにする。行動と対価のバランスがあい、納得感や意味を感じる環境を作っていくことは簡単ではないですが、大きな物事を成す上で避けては通れないと感じます。


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