![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/157557161/rectangle_large_type_2_7927abb8bb2ffd217b05a90a117da56a.png?width=1200)
時の流れがとまる、見えたものと見えないもの。
ときの流れがとまったように感じる瞬間がまぁある。
クロノスタシスという現象らしいのだが(全然関係ないないが、きのこ帝国のクロノスタシスは私が無人島に持って行きたい一曲である)、一般的にはフロー体験、人生の絶頂のときに起こる現象だ。
例えば、多くのオーディエンスの前でなにかを発信したり、大好きなあの子と2人きりで花火を見たりみたいな時に起こる。
他方、スローな雰囲気の中に身を置いたときに時間がとまっているように見えていつの間にか大いなる時間を過ごしていることもある。
先日、妻の故郷である青森県の風間浦村に行ったときにまさにそういう体験をした。
端的にいうと海の街であり、田舎町なのであるが、文豪井上靖が訪れた地でもあり、新島襄が航海の途中に立ち寄った地でもある。
ここには下風呂温泉というこれまでに入った湯の中でもかなり硫黄が濃い温泉があり、すぐに疲れが取れる。
下風呂というのは風呂を意味したものではなく、アイヌ語のシェマフラからきているようで、岩に湧く湯という意味らしい。
だいぶレトロで味わい深いちょっとした温泉街である。
土地柄があるのかはわからないが、この土地の人々はあたたかい。少なくとも私が接する人たちはとてもあたたかい。
妻の実家だからという理由もあるが日々の仕事や雑然から離れて、なんなら思索もすることなく過ごす。
これをしても、なんとなく許されるという感覚の中過ごすことができる。
別に普段の生活でも仕事をしろと苛まれているわけではないが、日々の多忙に触れているとやらねばという感覚に自分を追いやっている。
ということに逆の比較を持って気づくことができる。日々何かに追われて生きていることのコントラストが浮き出てくる。
この土地の対岸はわたしが育った街、北海道函館市の戸井という土地だ。いまや大間のマグロのようなブランディングがされた街だが、私が育った漁村である。
その街と下風呂はとても似ている。海峡に触れるとわたしの心は満たされた気持ちになるようだ。
ばばに聞いたところ、北海道が綺麗に見えた次の日には嵐が来るという。綺麗に見えるものであっても、その裏にはいろいろな思いもある。
見えたものだけで判断せず、フラットな視点を持ち続けたいと思うものだ。
こんな日はいったん福島市にある青森料理を出してくれるおばさんの店でハイボールでも飲んで帰ることとしよう。
ちょっとずつ日常に戻すことも大事である。
それでは素敵な日曜日を。