失ってからじゃないと気がつかない /ファシリテーション一日一話
苦しい、苦しい
あれ? インフルエンザって、こんなに苦しかったっけ? 何度も寝床でそう唸っていた。熱が下がらず、頭が痛い。喉が強烈に腫れ上がっているので、水を飲んでも痛い。食事はなおさら苦行となる。うんうんうなされ、3日ほど寝込んでいた。4日目に立ち上がろうとしたが、ちょっと無理できない状態だったので、映画「戦場のアリア」を見るなどして過ごした。そう、我が家のクリスマスはお粥と看病で消えたのだ。
ようやく立ち上がれるようになったら、こんどは妻が罹患。知人が「インフルエンザ治療薬を飲むと楽になるよ」とアドバイスくれたので、病院につれていって薬を貰って飲んだが、いまいちフィットしなかったらしく、嘔吐、頭痛の七転八倒の苦しみで見ていて悲しくなってきた。今度は僕がお粥をつくり、湯たんぽを温め、看病をすること数日。クリスマスに食べる予定だったチキンはいまだ冷蔵庫で沈黙している。
まこと、健康というものの大切さは、失ってからでないと気がつかないものだ。毎日のおいしい食事は、なんとありがたいものであったか。好きな時に起きて、ぶらっとそのへんを散歩したり、庭いじりする自由は、いつも約束されているものでは、ない。
失ってからじゃないと、そのありがたさが分からないものは、健康以外にもある。
当たり前に思えるもの
例えば景色。このあいだ実家に帰ったら、大規模な土木工事が進んでいて、見慣れた景色が大きく変わっていたのに驚いた。景色が変わる、というのは大抵の場合、大きく自然が削られることを指す。計画上、こうなることは随分前からわかっていたのだが、なんだか悲しい気持ちになったりもした。
例えば家族。僕の父母はもう他界しているのであるが、今になってもう少し親孝行しておきたかったなという気持ちが高まっている。何も出来ずに見送ってしまった自責の念が少しずつ、まるで地層のように積み重なっているのかもしれない。逆に、妻の父母は健在なので、できる限りのことはして差し上げたいと、僕は思う。
例えば天候。年に数回、徳島県の木頭という集落を訪ねる。柚子づくりや農作業の達人の爺様を訪ねるのを楽しみにしている。いつも楽しそうに畑仕事をなさる方だが、今年の夏の干ばつについては「長年農業をしてきて、こんな年はなかった」と苦しそうにつぶやいた。里芋が枯れ、白菜が玉をつくらないなんて、これまでありえなかったと。気候変動は現実化し、今、まさに失われつつあるのかもしれない。
そう考えると、僕たちの人生は常に何かを失いながら進んでいるようにも見える。そして、失ってから気がつくんだ。「あぁ、あれは大切なものだった」と。
失ってから気づいてばかりでいいの?
いや、それで本当にいいんだろうか? 失ってから気がついてばかりでは、ちょっと能がない。そう思い始めた。もう少しだけ、自分たちの身の回りを見つめ、大事にしたいこと、本当に失ってはいけないものを見極め、大切にする力をつけてゆきたいものだ。
僕がもしファシリテーターとして何か場を持つのであれば、「失う前に、本当に大切なものに気がつくことができる機会」を、少しでも増やしていきたいのではないか。組織に関わるにせよ、地域に関わるにせよ、個々人に関わるにせよ、そのあたり、大事にしたい感じなんだな、今。そんなことを、年の瀬に思った出来事でした。
みなさま、本年中は、誠にありがとうございました。
どうぞよい年をお迎え下さい。