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「うあーパフォーマンスフェスティバル」vol.4秋田編レビュー

【掲載に寄せて】
今日は7月に開催された「うあーパフォーマンスフェスティバルvol.4秋田編」について、居村 匠さんによるレビューを掲載いたします。

美学・芸術学を専門とされている居村さんの文章。普段、美術について書かれた論文や批評をお読みにならない方には少しだけ難しく感じるかもしれないと思いました。

ただ、居村さんが書いてくださったレビューは普段私が思っている「うあー」のどんなところが良いのか?そんな事をまるで自分の代わりに言語化してくれたようで、何度読んでも感激します。ぜひ、沢山の皆さまにお読み頂ければ幸いです。(伊藤幹子)


人体の物理的な限界には各人それほどの違いはない。人間同士の骨・筋肉・関節の数や機能の差は、他の動物や機械との差異に比べれば相対的に小さい。では、優れた運動、よりよい動き、興味深いパフォーマンスは何によって生み出されるのか。それは技術(technique)ではなく、身体のリズムである。あるいはリズムを組織するやり方(maniere)である。
 うあーは、日常の空間のなかにあるリズムを持ち込んだ。それは日常とは異なるリズムである。落下、回転、繰り返し。いくつかのパフォーマンスに共通するこれらの動きは、日常的な空間の利用ではない。ふだんの生活のなかで目的をもって移動する水平方向の直線運動の場に、どこへ向かうともない運動が持ち込まれた。そのことは一時的にではあるが、場所のもつ「ふつうの」リズムを宙吊りにするだろう。しかし、リズムが宙吊りにされる、異なるリズムが持ち込まれるとは、じっさいどういう事態なのだろう。
 夏の暑いさなか、日陰で演者の動きをじっと見る。その動きのリズムを感じ、リズムが示す先にあるものを見ようとする。いつしか、私は他者のリズムを抱いている。
 だから、日常のリズムが宙づりにされるとき、ひるがえって、ふだんの私たちのリズムが問われている、のではない。そうではなく、そのただなかにおいては、異なるリズムを連れてくるパフォーマーへと私たちは同化している。だとすれば、パフォーマーへと誘惑されることこそ、他なるリズムの移入なのかもしれない。
  非劇場空間でパフォーマンスをおこなうこのような出来事が、場を異化していると言ってしまえば、それは若干以上に陳腐に感じられる。だが、パフォーマンスをつうじて感知される他者のリズムがあくまでフィクショナルなものだとすれば、そうした力を仮構するその場は、たしかに劇場であった。ふいに訪れ、いっとき別のリズムをもたらす劇場。このイベントの名前が叫びであるだけでなく、私たちの存在を措定するものでもある(you are...)のは偶然だろうか。他者のリズムは問うのではなく、ただ私たちを捉えるのだ。


居村匠(いむら・たくみ)
1991年生。美学・芸術学。秋田公立美術大学大学院複合芸術研究科助手。


編集メンバー(五十音順)
伊藤幹子
大村香琳
津田啓仁

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