Vol.7 20歳での起業を心に誓ったフィリピンの夜
今回は、なぜ僕が起業家を目指したのかというお話でしたね。僕は20歳のときに家を出てから、会社は小さいながらも20年以上、経営者として生きてきました。会社勤めではなく起業の道を選んだのは、高校1年生の時の経験が原体験としてあるからです。
実は僕、タガログ語が話せます
僕は高校1年のときに2週間ほどフィリピンを旅行しました。フィリピン出身の仲のいい同級生がいたのですが、母国に帰ってしまって、それで夏休みに遊びに行ったんです。せっかく初の海外旅行なのでタガログ語が話せた方がいいと思い、本屋でタガログ語の本を3冊買って、タガログを猛勉強しました。おかげで、今でも少しだけタガログ語が話せます。
友だちの家はかなりの田舎で、いろいろディープなところに連れて行ってもらいました。その中でも、強烈に覚えているのは自転車タクシーの運転手になったおじさんです。
失業率が高いエリアで、地元の大人は平日の昼間からみんなのんびりと路上に座っていました。僕もその中に混じって遊んでいたのですが、ある日、泊めてもらっていた家のおじさんがふと立ち上がると、自宅の有り金を握りしめて自転車を買いに行ったんです。「自転車がどうしてもほしい」なんて言いながら。
仕事をしていないのだから、「無駄遣いはしない方がいいんじゃないかな?」と考えるのが日本人の発想だと思います。僕も、その時そう感じました。「お金に困っているのに、なんで自転車買おうとしてるんだろう?」と。ただ、そのおじさんは気にするふうもなく、買ったばかりのピカピカの自転車を押して戻ってきました。その後のおじさんの行動が、高校生の僕には衝撃でした。
「世の中で一番難しい営業は新聞を売ること」
「失業中なのに買い物してお母ちゃんに怒られるわ」とタガログ語で言いながら笑うと、自転車の荷台に座布団を紐でくくりつけて、「ちょっと稼いでくるわ」といって駅前まで行ってしまいました。面白そうだからついていくと、「家まで5ペソで送るよ」と、なんといきなり自転車タクシーを始めたのででした!
カネがないのに自転車を買えばカネがなくなるのは当たり前。ただ、そんなことは気にせず、カネになりそうな新しいビジネスを考える──。初めから自転車タクシーを始めるつもりだったのかもしれませんが、「ビジネスって、こんなに簡単に始められるんだ」とこの時、心の底から驚きました。もともと性格的にサラリーマンには向かないと思っていましたが、この日に20歳になったら会社をつくろうと決意しました。
その後、高校を卒業するタイミングで、父親に「20歳になったら起業しようと思うんだけど何をしたらいいと思う?」と聞いたら、「何をするかはこれからの数年で考えればいいけど、世の中に営業部のない会社はないから、2年間で営業を極めろ」というアドバイスをもらいました。そして、父親はこう続けました。「世の中で一番難しい営業は新聞を売ることだよ」と。
完全出来高制で新聞販売店で働く
実は、僕の父は伯父さんと一緒に、読売新聞系の新聞販売店を大阪で経営していました。しかも、かなりの敏腕営業マンで、関西地区の営業コンクールで10年以上、ずっとトップをとり続けているような人でした。家の中にある家具や電化製品、バイクや自転車はすべて営業コンクールの副賞としてもらったものです。
父曰く、ヤナセに来る客はベンツを買いたい客だから、その人にベンツを売るのはそれほど難しいことではない。でも、新聞の営業は一家団欒で晩ごはんを食べている時に突然ピンポンを押して、3分、5分の間に契約まで持っていく必要がある。こんなに歓迎されない難しい営業はないよ、と。その通りだと思ったので、伯父さんと面接し、基本給0円、完全出来高制で雇ってもらいました。
基本給0円ということは、契約が入らないと一銭も入りません。しかも、もう時効だから言ってもいいと思うんですが、このお店の先輩営業マンは毎日賭けをしていたので、契約が取れないと実質に赤字になるという恐ろしい状況でした。毎日、それぞれの営業マンは地図をもらって営業に行くエリアを決めます。その際に全員が2000円づつ払い、その日で一番契約を取った人が総取りするというゲームをしていたんです。一番にならなければ、毎日2000円の持ち出しです。
成功のカギは「接触件数」×「トークの質」
僕の場合、最初の2週間は自分で営業はせずに、先輩営業マンの後を付いて回っていました。ただ、僕はもともと話すのが得意な方で、営業に向いていたのだと思いますが、初めは後ろで先輩のセールストークをおとなしく聞いていましたが、段々と「うわ、なんでここであきらめるの?」「あ、こう言えば切り返せるのに」などと思うようになって。2週間が経つころには「早く僕にピンポンを押させて」と思っていました。その後はもうフルスロットル。この2週間の営業見学の経験が後々良かったと思います。
どんな訪問販売も同じだと思いますが、新規の契約が取れるかは、「接触件数」×「トークの質」。僕は実際に話をする接触件数を重視していました。
例えば、僕は団地の4階と5階にしか行かないと決めていました。下層階は営業マンが何度も訪問しているのでお客さんが営業マンにスレているからです。団地の裏側に回って、電気がついている部屋を先にチェックして、その部屋だけを訪問したのも、留守宅訪問の時間を節約し、接触件数の確率を高めるためです。
論理で勝っても感情に負けては意味なし
もちろん、トークの質も重要です。お客さんの多くは営業を断るためのトークを持っています。「お金がない」「新聞を買えたら主人が怒る」「私は阪神タイガースファンだから」──。こういった断り文句をどう乗り越えていくかを考えなければ、新規の契約は取れません。
ただ、お客様を論理で打ち負かしても意味がありません。「私はタイガースファンだから」と断る方に、「タイガースが野球をしていない時期もありますよね」などと言っても、あなたの言っていることは正しいけどなんか嫌だみたいな、「なんか嫌だ」で断られてしまいます。
そうではなくて、「関西に住んでいてタイガースが好きじゃないなんてあり得ないですよね。だから僕たちも苦戦しているんですよ」などと相手を立て、その上で「ジャイアンツが負けたときに、読売新聞がどんな記事を書くのかを楽しみにしているタイガースファンも多いんですよ」と持っていけば、相手の受け取り方も変わります。後は確率の問題なので、10軒に1軒でも刺さればいい。
また、「目が悪い」と言ってお断りになるおばあさんがいました。その時は、「新聞にはニュースを読む以外にも大事な役割があって、ポストから新聞が抜かれてたという事実が元気だよと伝えることになるんです。夕方、ポストに刺さったままだったら僕はピンポンして声をかけるからね。新聞は今日も元気だよというお守りなんですよ」とお話して契約をもらいました。
20歳で晴れて独立
このように、接触件数とトークの質を高めたことで営業成績もうなぎ登り。その年の新聞販売コンクールで父親を抜いて関西地区の1位になりました。親子で1位、2位を独占する快挙です(笑)。
実は、新聞販売を始める前に、父親にこう言われていたんです。オレは新聞販売でずっと1位できている。その息子が3番とか5番の成績しか取れないのであれば、この仕事には入らないでくれ──と。つまり1位にならないならやるなという宣告です。訪問販売はきつい仕事でしたが、20歳で起業するという決意と、父親との約束があったので、やり切ることができました。
20歳で独立するまでの2年間、父との約束通り、読売新聞のコンクールで1位を守りました。そして、20歳になったタイミングでマンション管理とリフォーム業を始めました。
そして、なぜリフォーム業を始めたのかという話ですが、それは次回に譲りたいと思います。