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スーパーゼネコン、なんで入社して、なんで辞めたんだっけ①

ゼネコンに入るまで

建設との出会いは、近所にワールドカップ開催のサッカースタジアムが建つことだったと思う。あっという間にみかん山だった景色が変わっていく様を目の当たりにした小学生の私は、建設の与える影響力に圧倒され、将来は建設にかかわる大きな仕事がしたいと思うようになっていた。

公立高校を卒業後、隣県の大学の土木学科に進学した。本当は建築学科に入りたかったのだけど、成績が届かず第2希望の土木に滑り込んだ形だ。勉強もそこそこに部活やバイト、一人暮らしを満喫して過ごした。希望する都市計画系の研究室にも入れなかった。学生として優秀ではなかったことは確かだと思う。

院まで進み、就職活動を始めることになった10余年前、世界はリーマンショックの煽りを受けており、地味ながらも短い就職氷河期の中にあった。

手始めに選考のスタートが早かったある大手ゼネコンのリクルーター面談を受けてみることにした。
完全に練習のつもりだった。だがなぜか、倍率10数倍の中から校内推薦を勝ち取ることができてしまった。
この不景気にとてつもない幸運だったと思う。

この時の私の第一志望は、地元JRの総合職だった。
電車に乗るのが好きだから。自分の仕事で取り扱うものを自分や周りの知人、友人に触れてもらえる仕事に憧れがあったから。
それでも、せっかく得た幸運を自ら手放せるほどの景気、実力ではなく、スーパーゼネコンの校内推薦は手放すことはできなかった。

スーパーゼネコンの選考はそのまま進み、1ヶ月後には2次3次選考を順調に突破、最終面接を残すのみとなっていた。
その頃ようやくJRのリクルーター面談がスタートした。就職氷河期で公務員人気も凄かったが、民間でありながら安定しているイメージの強い当時JRの人気は凄まじく、一枠に対してゼネコンのさらに3〜4倍の応募が集まっていた。
第一志望のJRの採用試験に落ちて、夢を断ち切り、ゼネコンで働く覚悟を決めよう、そんな気持ちで面接に応募した。しかし、ここでも何故か一枠を勝ち取ることができ、2次選考に進めることになってしまった。

振り返って思うと、厳しい土木業界を生き抜くのに、体育会系の部活で鍛えた精神力に期待してもらえてたのかな?

決してゼネコンに入りたくない訳ではなかった。激務ではあるが高給との噂は聞いていた。それでも小学校から大学まで体育会系で育てた根性だけは自信があり、体力と精神力の面では、やっていける自信があった。規模も影響力も大きく、みんなに使ってもらえる施設を作ることができるのも私のやりたいことに合致している。取り敢えずスーパーゼネコンに入って、周囲から凄いと思われたかったのもあるかもしれない。
なにより、この不景気に地方国立大卒が入社するには十分すぎる企業だろう。そんな気持ちだった。

それでも、JRに受かったら辞退してしまおう。そう考えていた。しかし、

あろうことか東京で行われるスーパーゼネコンの最終面接と、地方中核都市で行われるJRの2次面接の日が重なってしまった。
どうにか両方とも受けることができないか考えたがやはり不可能で、どちらかを諦める必要があった。

ゼネコンは面接に出席さえすれば100%合格。すでに内々定は出ている状態であり、最終面接はほぼ顔合わせだといわれていた。一方のJRは、2次面接以降の合格率は8割。つまり2割は落ちる可能性があるという状況であった。

どっちを受けよう?
氷河期のご時世に贅沢な悩みだった。
それでもこの当時、どちらを選ぶかは非常に難しい課題であった。
もしJRを選んで落ちてしまったら、、、
この時の私は、合格率たった数%の校内選考を勝ち抜いておきながら、80%に挑戦する勇気は持ちあわせていなかった。

社内選考で得た内定の辞退は翌年以降の枠が減るリスクがあるらしい。大学に迷惑をかけるわけにはいかないし、面接日が重なってしまったのも何かの縁だろう。
最後はそんな理由でゼネコンの最終面接への参加を決めた。

当時の自分には推薦を勝ち取れた理由が全くわからなかった。自分自身を信じるための絶対的な自信を持ち合わせていなかった。
それが最後に第一志望を目指せなかった根本的な原因なのかなと思う。

少しのもやもやを残しながらも、
「将来プロジェクトXに出られるような仕事がしたい」
高校生の頃、そんな事を親友と話していたことを思い出していた。こうなったらスーパーゼネコンでばりばり働いて、リニアモーターカーの難工事でもやり遂げて、プロジェクトXにでてやろう。
入社前にはそんな心持ちだったと記憶している。

こんなモチベーションでゼネコン業界に飛び込んだ人間のその後をまた次回。

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