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第九話

 未だに葛藤だらけの暮らしを続ける中、里緒ちゃんとの関係だけは順調に良くなっていた。念願叶い、休日を一日空けて貰いデートに行く約束までできたのだ。
 決まった瞬間は喜びが溢れていた永人だったが、時間が経つにつれ喜びつつも少し困惑していく。
 それもそうだ。デートになど慣れてはいない。未経験と言ってもいいだろう。ましてやこの都会に住む歳上の女性が相手だ。こんな田舎者で飲んだくれの若造が洒落たスポットを知っているはずもなく、繰り返される妄想の中でさえエスコートは出来なかった。
 二人が現在暮らしている場所の中間で会うことになれば小田急線添いになりそうだ。思いついた最大限洒落た街が、海老名だ。これも正確には「思いついた」わけではなく、買い物に降りたことがあった駅が唯一海老名だったというだけなのだが。
 それともう一つ悩みがある。彼女の仕事終わりに内緒で会っていたのが全て夜だったことも、実はかなりの助けになっていたのだろうと今更になって思う。なんだか白昼堂々と会うのはとても悪いことをしている気がした。
 根本は何も変わらないはずなのに。そんなことをいちいち気にするところは相変わらず気弱で格好悪いままだなと思う。

 デート当日、約束の時間ギリギリに到着した為にタバコを吸って落ち着く余裕もなく、駅の改札を出てすぐに里緒ちゃんから「駅に着いたよ。」と連絡があった。胸が張り裂けそうになる程緊張感が増していく。
 明るい世界の中で見る彼女はいつもとは違って見えた。柔らかい太陽の光を浴びながらこちらに向って歩いてくる姿に少しの間釘付けになっていた。永人をまっすぐ見据えた大きくて綺麗な目が光に照らされ輝いている。
「お待たせ!」
 彼女の一声で我に返り平然を取り繕った。

 せっかくデートまで漕ぎ着けたというのに、不慣れなばかりか下調べもせず当日を迎えた「にわか海老名ファン」がエスコートなどできるはずもなく、駅周辺をさまようだけで気づけば日が暮れかけている。
 里緒ちゃんは一日文句も言わず嫌な顔もすることなく、あまり会話のできない永人との時間にもゆっくりと寄り添ってくれていた。定期的に「疲れた?」と聞けば「大丈夫だよ。」と微笑んでくれたし、「楽しい?」と聞けば「楽しいよ!」と笑顔で答えてくれる。
 本心ではどう思っているかわからなかったが、優しく楽しげにしてくれる彼女の姿に「このデートはもしや上手くいっているのではなかろうか。」という、お得意の勘違いモードへと変身していった。
 しかし、いくら変身しても上手く続けられない会話にやきもきし、ちゃんと探せば沢山オシャレなレストランもあったはずなのだが自分が一番落ち着けそうな居酒屋を見つけ、助けを求めるように入った。
 店に入ってから「お酒は飲むの?」と、明らかに間違えた順番で聞くとお酒はほとんど飲めないとのことだ。
「なんて酷い休日を過ごさせてしまったものだろうか。」
 自責の念が深く宿る。が、一日一緒に過ごしてもまだ取れない緊張をほぐそうと一人で次々にビールを流し込み、酔いが回った永人は内容の薄い自分語りを延々とする下品な男になっていたのだった。

 店を出て終電を待つ間、酔い覚ましにと辺りを散歩することにした。
 すっかり暗くなった空と街灯や店舗の明かりでぼんやりと浮かび上がる景色、頬をなでる静かな風が水道橋のときと同じ二人だけの夜の世界に帰ってきたみたいで心地よい。
 住宅展示場の側を通った辺りで「少し休もっか」と促し、物陰にあった花壇に並んで腰掛けた。会話は少なく、里緒ちゃんをただ見つめている。

 そこで、初めてのキスをした。

 酔いに任せたとはいえ、無様なデートをした後でどんな自信があってそんな行動がとれたのか定かではないが、そっと里緒ちゃんを抱き寄せ、彼女の柔らかな唇に自分の唇を重ねていた。
 すぐに我に返り顔を離すと、彼女は嫌がっている様子を見せず無言で永人を見つめ微笑んでいる。そのえもいえぬ表情に飲み込まれるように、もう一度キスをした。

 現実とは思えない時間の流れが確かにそこにあった。空間が切り取られ、全てが彼女の澄んだ瞳の中に吸い込まれていく感覚。
「このまま死ねる。それよりもきっとなにかしらの事故で実はもう死んでいて、魂だけになった俺が見ているただの夢なのかもしれない。」
 そんなことを考えてしまう程に現実離れしている彼女だけ、永人の目の中に確かに映っている。

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