第十三話
寮暮らしで使う場所も時間もなかった里緒ちゃんは、貯まったお金で永人への誕生日プレゼントにと伊豆の高級旅館を予約してくれた。
一日数組しか泊まれず若くてフラフラした輩が泊まれるような場所ではなかったのだが、日々予定に追われる永人を見て「たまには心に余裕も持たないとね!」と言い休暇を取らせるためにと無理して招待してくれたのだ。
受付ではお茶をたてて貰い、上品なお茶菓子が一緒に出された。こんなチェックインは初めてで、振る舞い方もわからずに受付の僅かな時間だけでもかなり緊張していた。
広くて綺麗な和室、ベランダに付いている露天風呂から見える森林、里緒ちゃんの楽しそうな姿が永人の心を落ち着かせてくれた。
「とにかく私は永人にゆっくりして欲しいんだ!」彼女はそう言って他の予定は一切決めず、この旅館に泊まる為だけに二人は伊豆へ来たのだった。
夕食までの空いた時間は浴衣に着替え、旅館の周辺を散歩して過ごした。9月も終わる頃だったので風は少し冷たかったが繋いだ手の温かさがとても心地よい。
時間の流れがゆっくりと感じ、永人にとってみれば地元と変わらずの何の変哲もない景色さえも新鮮に感じることができた。
ケラケラと明るく沢山笑っていた里緒ちゃんの姿はまたも現実から切り離されて浮き上がり映っていた。
それはとても、とても綺麗だった。
宿に戻ると二人は温泉に浸かり、その後すぐ夕食となった。
テーブルに置かれた手書きのメニュー表に「明日葉の天麩羅」と書かれていたものが妙に気になる。「明日葉とは一体なんだろう。」ビールで乾杯し、前菜が運ばれた。
温泉に浸かった後だからなのか心地のよい空間がそうさせるのか、酔いが回るのが早くかんじるが折角風情ある料理が並んでいるのに飲み慣れたビールばかりでは味気ないと日本酒を頼む。
日々口にしているような安酒ではなく、すっきりとした飲み口で上品な味のその日本酒は仄かに甘く、儚く、身体に溶けていく。料理も酒も普段口にすることのないものばかりで喜んだ様子の永人を見つめながら、里緒ちゃんは静かに微笑んでいた。
そこへ、気になっていた明日葉の天麩羅が運ばれてくる。永人は少し恥ずかしそうにしながら中居さんへ「この『あすは』って何ですか?」と質問をする。
「これは『アシタバ』と言って、明日葉は摘まれても次の日には葉が伸び出すことから心臓を強くしてくれると言われているんですよ。」丁寧にそう説明してくれた。酔っぱらっていたことが原因なのかも知れないが、その言葉はもの凄く心へと突き刺さった。
食後は大浴場に入ることにした。誰もいない貸し切り状態の露天風呂に浸かり、ぼんやりと空を見上げている。
「里緒ちゃんのおかげで人ができないような経験をさせてもらえている。これを今後活かせなければ彼女の優しい心遣いを無駄にしてしまうよな。」
ほろ酔いではあるものの、最近の葛藤を捨てて強くなろうと星に誓った。
誓いながらふと思い出したことがある。学生時代、遊ぶ場所も少なかった地元ではよく友人と星を見に出かけていた。近くにある山の麓まで車で登ると街灯が全くない駐車場があった。コンクリートの張られた冷たい地面に大の字に寝転び空を眺めていると、流星群などきていなくても流れ星が沢山落ちていった。無言で空を見上げる皆の胸中を知るすべはなかったが、心を空に溶かしながら無数の星や流れ星に何を感じ、何を祈っていたのだろうと思いを馳せてみる。タバコを咥えながら煙を吐き出し、モヤがかった先にある夜空に自分の気持ちをただ投影していただけなのだろうか。
あのとき、あの空間で自分は何を考えていたのか今では思い出すことができないし、何も考えてなどいなかったのかもしれない。きっと皆も特別な感情は持ち合わせておらず、現実から切り離された空間をただ深く吸い込み、味わっていただけなのかもしれない。
確かに隣にいるはずの友人の存在も見上げた夜空と同化し、時間が経つにつれ一人でその場にいるような錯覚が夜空を独り占めしているみたいで、贅沢な至福の時間だったことは確かだ。
思い出に浸っていると少しのぼせたので、風呂から上がり水を飲みながら部屋に戻る。里緒ちゃんはまだ戻っていない様子だった。今日思ったことやあったことを書き留めておこうと思い、持ってきていたノートに一言日記のような一節を書き込んでいく。
1、願いなんて叶わなくて 迷信みたいなもんだってわかってるのに 夜の空見上げてた
今でもそうだろ? 幼い頃と変わらず 星に夢を誓ってる
2、「明日葉」 摘まれても明日には芽を出し、心臓を強くする。
星に「祈っている」とあえて表現しなかったのは、強くなれたと思う自分の心が影響していたのだろうか。
「ふむ。」
似合いもしない大人の真似事のような言葉を発し、ベランダで涼みながらタバコに火をつけた。
里緒ちゃんが部屋に戻り「内緒で予約しておいたんだ。」とマッサージ師まで一緒に連れてきてくれた。
うまい飯を食べ、酔っぱらい、風呂に入り一服をして、おまけにマッサージまでされた永人はついに空っぽになり、施術の途中で寝てしまいそのまま朝まで起きることはなかった。
目を覚ますと、朝が苦手で育ってきた永人は今まで感じたことのない開放感と共にベランダで朝日を浴びていた。先に起きていた里緒ちゃんは支度を整え始めている。
「おはよう!昨日は寝ちゃってごめんね。ありがとう。」
昨夜部屋に戻ってきてからろくに会話もせず寝てしまったことを謝ると、「永人が久しぶりにぐっすり眠れてた様子で、みていた私も幸せだったんだよ。」と笑った。
「幸せとは何だろう。平和とは何だろう。答えは一生みつからないのかもしれないが、今この瞬間は間違いなく幸せで平和な世界なんだろうな。」そう、永人は思う。
「里緒ちゃん、ありがとう。」もう一言だけ伝え、照れ隠しでタバコを吸いにまたベランダに出る。煙越しにみえる世界は相変わらず永人を優しく包んでくれていた。
旅館を出て、このまま帰るのも味気ないねと二人は近くを散策することにした。
新しい気持ちになり進みだす今の心を忘れないように、森林の奥へと続く道を歩いて行く後ろ姿を里緒ちゃんに写真に撮ってもらった
「深い森に続いているこの道のように、これからは自分や他人の心の奥に踏み込んでいければいいな」と願いを込めたのだった。
こんな機会は滅多にない。二人の写真を沢山撮ればいいものを永人は人物も写さずに、立派な樹木や苔、景色の写真ばかりを撮っていた。夢中でカメラを構える永人を背中に、カメラに向って膨れ顔をする里緒ちゃんの写真を後になってみせてもらった。
撮られていたことに全く気づいていなかった自分を恥ずかしく思う気持ちと、ほったらかしにしてしまったことを申し訳なく思ったが、写真の中で握り拳を作りカメラに向って膨れる彼女の表情はどこか嬉しそうに見えた。
「ごめんね。」
「知ってた?永人は夢中になるといつも周りが全く見えなくなるんだよー。」
里緒ちゃんは、笑っていた。
余計に恥ずかしくなったが、二人の関係が良好であることが見て取れるその一枚がとても愛しく感じ、一緒になって笑った。人気のない森林の中はまるで二人しか存在しない世界に入り込んだみたいだった。
優しい木漏れ日と穏やかに吹く風を感じながら今日までの喧騒を忘れ、一瞬一瞬が尊く感じる。そしてただ流れていく。流れ行く時間と世界をゆっくりと味わった。
帰りの電車の中、里緒ちゃんは隣で寝ている。窓の外を眺めながらこの先について思考を巡らせていると、色々なものに臆病になり表面的な歌詞しか書けなかった昨日までの自分が車窓に映っていた。「こんな表情をしていては何も変われない。」そう思った。
売れてもいない、知名度もない、誰の耳にもまだ届かない。それなのに、強い言葉を書きそれを歌ってしまったら暗殺されるのではないかとずっと思い詰めていた。それは全て過去のトラウマからくる悲観的な妄想だったのだろう。
この旅の果てに垣間見えた幸せで平和な世界が続くことを願い、これからは見えない敵に怯えず「自分を芯から強くする」という意味も込めて、「明日葉」という曲を書くことに決めた。
詩的でないとか、言ってはいけないとか、そんなことは何も考えず頭に浮かんだ言葉を書きなぐるというテーマをたてる。メモしてあった明日葉という言葉を白紙のページの一番上に「曲名」として書き直した。
ノートを閉じて窓の外に目線を戻す。目に映る夕日で染まった風景は燃え上がった今の気持ちを現しているようだった。
その景色をしっかり胸に刻むと、里緒ちゃんと寄り添うようにして眠りについた。
箱根で下車し、「またね!」と見えなくなるまで手を振りながらいつもの世界に戻っていく里緒ちゃんと、離ればなれの暮らしがまた始まるのだ。
一人電車に残った永人は「今度は俺が里緒ちゃんを幸せにしよう。」と誓う。
だが、幸せとは言葉にするだけなら簡単なものではあるが、では「幸せとは何か」と問われれば答えることは非常に難しい。ただ、答えることが出来なくても、この旅で瞬間的に感じた確かな「幸せ」の感触がまだここに残っている。幸せを表現したければ、まず自分が幸せを知ることが第一歩であると知ったのだ。この世界にも幸せや平和は必ずある。例えそれがほんの一瞬であっても。すぐに消えてしまっても。感触だけはずっと残るのだと強く思う。
心地よく揺れる電車の中、ノートを取り出し「明日葉」と書いた曲名の下に言葉を置いていった。ノートに向う表情は何処か今までとは違っている。「人が聞いて良いとか悪いとか、そんなこと自分にはわからない。それは曲を聞いたその人だけの感情だ。」
電車を降り、家に着くまでの時間もずっと言葉を探し続け歩いていた。玄関のドアを開けリビングに向いながら荷物を放り投げる。
「この感情が消えてしまわないうちに書ききろう。」机の上に広げたノートに拾い集めてきた言葉を、雑に置いていく。
深夜まで集中していた永人はハッとして携帯を覗いた。
里緒ちゃんから「無事に着いたかな?疲れただろうからゆっくり休んでね!二日間も永人と過ごせてとっても楽しかったよ。時間作ってくれてありがとうね!おやすみなさい。」とメールが入っていた。
「やっぱり何にも見えなくなっちゃうんだな。」彼女に言われた言葉を思い出し一人で笑い出しそうになりながら、「返事遅くなってごめん。ただいま。こちらこそ素敵な時間を作ってくれて本当にありがとう!里緒ちゃんも疲れただろうしゆっくり休んでね。また明日から一緒に頑張ろうね!おやすみなさい。」急いで返事を送った。
冷蔵庫に向かい、ビールを取り出しプルトップを持ち上げる。喉を通り抜ける爽快感に浸りながら、今の思い全てを偽りなく書ききった言葉達を目で追っていく。
最後まで読み終わる頃には初めて自分の曲を心から好きになれそうな気がしていた。ビールを一気に飲み干し、床に突っ伏してそのまま眠りについた。
机の上では、開かれたまま置かれたノートの歌詞達が静かに曲へと変わるのを待っている。
『明日葉』
写真立てに写る 君の影を追って 時に僕は 生きる答えのない意味なんかを探してた
友達だって言ったって 君の分の人生 生きれやしない
出会う人が増えたって 僕は僕にしかなれなかった
君のように優しい人になりたかった 君のように歌を歌いたかった
ガラス窓に映る 君の影を追って 時に僕は 生きる答えのない意味なんか探していた
生きる意味なんてさ 探したって道になんか落ちていないけど
下を向いたときに見つかったのは 僕らの影だから
誰かが歌ってる 「君の人生は君のもの。」 「わかってる。」
誰かの為になんて生きれない 憧れた人も僕にはなれない
でも必要とされたくて 君のように生きたくて 僕の生きる意味 見つけたくて
いつか届くのなら これまでの出会いも別れも痛みも笑顔も
何もかもこの背中に背負って
僕の歩いてきた道のりを僕の声に代えて
歌を届けるから 今はまだわかってくれなくても
別れた人達とも この先でまた繋がれるように
歌を歌いながら 日々の中 答えを探して
間違ったり 無くしたり 壊されたりするけど
でも探して 探して 笑って 届くように 探していく
手探りで生きてるけど こんな日々も 僕らなら愛せる
数日後のはメロディも完成し、永人はすぐにバンドメンバーに聞かせた。各々フレーズを考えてくることになり、数ヶ月後には明日葉がバンドの音で鳴っていた。
世界が変わった気がしていた。サークルで出来て外で出来なかったこと、それは自分達の鳴らす音に自信を持つことだ。まだ完璧に自信が持てたわけではないのだけれど、「臆病な自分でも明日葉があればステージに立てる。」
これまでは一人でステージに立つなんて考えられなかった永人だったが、この時期から弾き語りでのライブもするようになっていった。
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