ナレーションオーケストラ
著書、note、SNS、LINEなど。
誰かの文章に日々触れながら思うことがある。
統一されてるぅ~。
えっ?いきなり何?って感じだろうけど
僕の文章を読んだことがある方なら納得してもらえるかなと思う。
私、僕、俺、うちなど、自分を表現する方法がまぁ統一されてるのだ。
それに比べて私の文章ときたら、もうひっちゃかめっちゃか(死語?笑)だ。
なぜこんなことがおこるのか、なぜ皆さまは統一されてるのか。
そこを考えに考えた結果、理由というか答えというかをついに発見したのだ。
おそらくほとんどの方が文章を書くとき
脳内で読み上げながら書いていくんだと思うけど
この読み上げのナレーターはきっと自分だろう。
しかし私の脳内では、各セクションごとにナレーターが変化していたのだった。
例えば昨日の記事の冒頭で「私は蜂が嫌いだ」と書いている時。
脳内ではクレヨンしんちゃんのキャラクター。ぶりぶりざえもんがナレーターをつとめている。
自分は……です。みたいな文章の時は高倉健さんや体育会系男子。笑
自分は……だ。の時は青かび本人が多い。
僕の場合イントネーション「ぼく↘️」「ぼく↗️」によって人物やギャグ度が変わり、俺の場合はこれも青かび本人による語りだったりすることが多い。
こんなことが、俺の中ではあまりにも自然すぎて、今まで全く気づかなかったのだ。
自分の書く文章は、ナレーションオーケストラだった。
指揮者は、そう。私だ。(ぶりぶりざえもん)
みたいな。
で、気づいたところで修正ができないこともわかった。笑
名だたる音楽家のように言えば「だって、鳴っちゃうんだもん。」ということになる。
ここはバイオリン!ここはフルート!で、ここで私が指揮からピアノに!みたいな。
久石譲さんもビックリである。
ただ久石譲さんと違うのは、文章には音も譜面もないということだ。
それゆえ、伝わらない。笑
俺にしか聞こえてないわけだから。
こうなってくると、書くことがおっくうになる。笑
読み手のことを考えても、鳴っちゃってる音を変えるというのは楽曲そのものが変わってしまうので、作者として気持ちが悪いのだ。
どちらかが気持ち悪い関係というのはやっぱり伝わらない。
なので、noteという場所は誰でも覗ける練習スタジオ。または手軽に書ける日記帳。的なありかたでいれればいいなと思う。
どうでもいいような話が、誰かの役に立つこともあるし。
笑ってしまうこともあるし。
そんなのがいいな。
うん。それがいい。
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