第二話
「うわっ。なんかちょっと怖いかも。」
初めて中野駅に足を下ろした永人(えいと)は緊張した面持ちで改札を出る。
テレビで観ている分には「綺麗だな。」と感じる都会の夜景だが、日が落ちてネオンに照らされたその「都会」にいざ自分が立つと目に映る景色が何処か如何わしいものに変わってしまったように感じた。
身長は180㎝、体重は53㎏程でこけた頬に猫背、小学生の時骨折した鼻は曲がったままつぶれていて、妙に長いまつげの生えた大きな目はラクダのようだ。自分でブリーチした髪の毛は斑な金髪で、手入れが面倒なので直にハサミをいれている眉毛はほぼ全剃りに見える。不自然に顔のパーツから浮き上がった大きな目だけが印象的だ。
中学生の時に母から買ってもらった赤と青ツートーンカラーのダウンジャケットを未だに愛用していて、所々こびりついたまま落ちない汚れがある。細い足とはアンバランスに着膨れした上半身。お世辞にもこの都会に馴染んでいるとは言いがたい姿なのだが、本人からすれば精一杯気を使い今日はここに立ったのだ。
神奈川の大学に通い、花屋でバイトをし、田舎育ちで友人の中では「オタク」に分類されている。根っから陰気な永人だったが、それなりに都会への憧れは持っていた。
しかし、思い描いていた神奈川県とはテレビで観た横浜駅付近のごく一部の映像であることを知った。通っている大学がある町は地元とあまり変わらない雰囲気で、下見に来たときは少しだけがっかりした。
住み始めてからようやく電車の車両や本数の多さ、車がなくても生活できることの便利さに驚いたくらいだ。
夜もそこそこ静かで人もそんなに多くは歩いていない。アパートから500m程の狭い行動範囲では友人と酒を飲むことはあったものの、こんなに明るく人が行き交う夜の光景を見たことはなかった。キョロキョロと辺りを見回し、
目に入った喫煙エリアへ足早に移動すると、ぎこちない動きでタバコを咥えた。普段より深く吸い込み、吐き出した煙がカラフルな街の明かりと入り交じってぼんやり揺れる。
数ヶ月前に肺気胸で入院し苦痛な日々を過ごしたが、退院したその日から全く禁煙していないのはタバコを格好いいと思っている節があるためか、もしくは慣れない一人暮らしや苦手な人混みを怖がっているのか、禁煙しない理由を聞かれることはあるがそれは自分でもよくわかっていない。ただ、幼少から「運が悪く卑屈な性格の自分には生きづらい世界だ。」なんて思いながらこの歳まで暮らしてきたのだが、煙越しに見える世界はいつも少しだけ好きになれた。
「そうか。今気がついた。はっきり見えているということ自体が怖く感じ、煙越しで曖昧に見えることで恐怖心は和らぐのかもしれない。」そんなことを考えながらフィルターを介した呼吸を繰り返し、街の景色を煙でぼやかしている。
クリスマス二日前の今日は、高校時代東京に引っ越してしまった友人と何年かぶりの再会の日であり、彼の住むこの中野で会うことになっていた。
予定を立てる連絡を取り合っていた段階で友人は恋人から突然別れを告げられたらしく、意気消沈している様子だ。慰めと相談の会というテーマも急遽含まれたのできっとだいぶ呑むことになるのだろう。正直に言えば、伏せておいて欲しかった。久しぶりに昔話が出来ればそれで良かったのではないだろうか。そもそもだ、全くモテるタイプではない自分に何を相談することがあるのだろう。かける言葉もないと思うのだが、若いときは言葉よりも雰囲気と酔いにまかせてなんでも忘れてしまうのが健全なのだろうな。
「ぱーっとやろう。ぱーっと。」
立て続けに吸った二本目のタバコが灰皿の中に押し込まれたとき、懐かしい大きな声が少し遠くの方から背中を叩いた。
「久しぶりー!」
振り返ると、確かに自分の友人である大熊がゆっくりこちらに向かって歩いてくる。
瞬時に脳内で切り取られたその景色はお気に入りの一枚だ。全く知らない街の絵の中に一人だけ知っている人物が描かれている。そんな「違和感」が奇妙で、笑えた。
記憶が散漫なのだが、確か小学生の時隣のクラスに転校して来た大熊とは中学に上がってから同じクラスになり、そこで仲良くなったはずだ。中学からと言うと幼なじみとは呼べないのかもしれないが、永人にとっては数少ない気の許せる、それに似た存在だった。
高校を一年で中退し東京に引っ越した大熊はこちらでの暮らしも長いが、いい意味であの頃と何も変わってないように映った。ダボダボの派手な洋服で、如何わしく瞬く街のネオンの中を堂々とガニ股で歩き、軽いノリで拳をつき出して挨拶をしてくる。とりあえず自分も拳を突き出すと「お前、変わらねぇなー」と大熊は笑った。お互い様だ。当時は家にもあまり帰らず、大熊の家でほとんどの時間を過ごしていたことを思い出す。
本当はとても優しい奴なのだが、高校に入ってから急に悪ぶるようになった、らしい。
らしいというのは、お互いが違う高校に通うことになったからだ。頭のレベルは二人とも同じくらいで、5教科の合計が二桁のときもあった。
大熊は地元でも選りすぐりの入学のしやすさを誇る高校に入り、自分も間違いなくそこに行くことになるだろうと予想していた。が、柄の悪そうな方々が多く所属されているその高校では上手く馴染めるのかと心配だった。
そのため、そこよりもレベルの高い私立の高校が早めに受験を行うというので、永人も受験してみることにした。上の学校を目指す友人達は「滑り止め」という大層な名目を掲げ受験を受けていたが、永人のそれは誰から見ても無謀な挑戦だった。「他の学校から来る生徒を見てみたい。」そんなただの好奇心で受けたと言ってもいい。
一教科目は国語のテストで、二問目に漢字の書き問題があった。「教室のマドを拭いた。」というような文章が書かれたテスト用紙を眺め、「マド」を漢字で書けばいいんだなというところまでは理解したものの、どうしても思い出すことが出来なかった。とりあえず思いついたウ冠を書き込み、その下にありとあらゆる文字や形を書いてみては消すといった実験を重ねながら、なんとかしっくりくる「マド」を作り出そうとしていると既に30分以上の時間が経っていた。
この段階で「完全に落ちたな。」とは思っていたが、マドを飛ばし一応最後まで戦った。記号の問題だけは全て埋めたはずだ。あくまで、勘だが。
その後の教科もチンプンカンプンだったが、国語で教訓を得た「時間配分」を見事に使いこなし、記号の問題を先に全て探して回答を記入し、後は流し見して分かりそうな所だけ書く。これがなかなかの成果を上げて国語ではあれだけギリギリだったテスト時間が、他の教科では半分以上の時間を残して全て解き終えるという快挙を成し遂げた。
加えて、この高校受験には面接もあった。もちろん練習などしてはいなかったが、面接の際「ここに受からなければ高校は諦めて働くつもりでいます。」と言ったことが面接官の心にひどく哀れに響いたのか、今となっては見当もつかないが後日合格が発表された。
ある意味この時から「運が悪かった」のかもしれないが、それはまだ先の話だ。
こうして二人は別々の高校に通うことになった。ただ、学校自体がとても近かった関係で相変わらず近所の公園で落ち合っては一緒にサボっていた。公園はとても広く林に囲まれているような場所だったため隠れてサボるにはうってつけだった。
いわゆる「高校デビュー」をしたらしい大熊は当時赤いモヒカンだったのだが、見た目以外に関してはこれといって変わった様子は見られなかった。学校での態度がだいぶ違ったらしいがそれも直接見ていないので自分には分からない。
この日は昼飯時に待ち合わせをしていつものようにグダグダ喋っていると、派手な学生ばかりの学校に通っていたせいか「どんな奴がいるのか身だしなみに厳しい永人の学校に行ってみたい。」そう大熊が言い出したので、「いいけど見た目でどうせバレるからすぐ帰ってこいよ。」と念を押して制服を交換してやった。大熊は嬉しそうにその制服を羽織ると永人の学校へと向っていった。
待っている間することもなかったので、芝生の上に寝転び「昼寝でもするかな」と考えてはみたものの、気になって仕方なかったので眠りにはつけず、結局ポケットに入っていた大熊のタバコに火をつけて空を見上げていた。
だいぶ時間が経っても戻ってこないことが気がかりになった頃、林の方が何やら騒々しいことに気づいた。咥えていたタバコを地面に押し付け、靴底で火を消す。
声のする方にはあまり近づかないように気をつけながら林の中をそっと歩いて行くと、突然、教師の群れとエンカウントし取り囲まれた。瞬間的に理解する。
「あいつ、捕まりやがったな。」
連行され教師だらけの部屋に入ると、何処の学校にもおられるるような生活指導の先生方がこちらをじっと睨んでいた。大熊はそこにはおらず、部屋の真ん中に置かれた椅子に座るよう言われそれに従う。
座った途端に浴びせられた罵声を聞き流し「時間の流れを早く出来る呪文はないものか」と考えていると、廊下の方から怒鳴り声が聞こえてきた。
「俺が好奇心で来ただけだ、永人は何も悪くないから説教なら俺だけにしろよ!」
教師の群れを振り払い、永人が監禁されている部屋のドアを勢いよく大熊が開ける。
その姿が目に入り少しだけ涙がでそうになった。馬鹿野郎だけど、真っ直ぐで優しいところはやっぱり変わっていないじゃないかと思った。
大熊の通う学校の教師まで出現し思いのほか大事になったが、向こうの教師は理解がある大人でいらっしゃり、お怒りになられている生活指導の先生方を説得し、なだめ、永人は停学にもならずに済んだ。
そうだ、あの頃から何も変わらない。自分のしたいことをして自分の道を生きている感じ。こんな街中でも声がでかく、周りのことなんて微塵も気にした様子はない。
そんなガサツなところに羨ましさと懐かしさを感じながら、永人は当時のことを色々と思い出していた。
自分の学力に全く見合わない高校生活はとてもつまらないものに感じ、一年の半分以上を遅刻と早退して過ごした。学校を抜け出しては大熊や他校に通う友人達とばかり遊んでいた。
それでも一応卒業し進学が出来たのは、3年間クラス替えをしても変わることのなかったクラスの担任が学校内でも頭二つ程抜けたガサツさ…いや、寛大な心の持ち主だったことが大きい。
制服事件の後、結果として三度も停学になってしまった永人は学力的にみても大学になど行けるはずもなかったのだが、大学の付属高校だったことと、遅刻と早退の回数が年間で「二回」という謎めいた通知表を発行頂いたお陰で、付属高推薦により大学に入学することができた。
進路相談のときに担任が言った言葉をしっかりと覚えている。
「君は『大学になんて行きたくない』と考えているとは思うし、成績をみてもとても行かせられないんだけどね。どう?行ってみたいと思う?誰も行く予定がない学科があってね、推薦出さないと来年から枠が無くなっちゃうんだけどなー。」
素直でいい先生だ。なので永人も素直に答えた。
「進学出来るとは思ってなかったから働く気でいたけど、働くのも面倒だしどうせ行けるなら行ってみたいかなー。」
このとき二人の意見は見事に一致し、無事に大学へ通えることになった。
家に帰ってから母親にその事を伝えると、「大学時代の友達は今でも私の財産だから大学は経験させてあげたかったんだ。無理だと思ってたから嬉しいよ。」そう言ってくれた。この一言で「親孝行」をした気分になった永人は生粋の馬鹿なのだろう。
とはいえ、特に勉強したかったことも無いので相変わらず学校にはあまり行かず、母親の「友人財産説」だけを尊重しようと考え一応サークルだけには参加することにした。
破天荒な大熊の姿を思い出し、似合わない飲み方をしては先輩達に迷惑ばかりかけていた気がする。
きっと永人は「大学デビュー」と言われるような生活をしていたのだろう。
つまり、大熊の生き方にどこか憧れているふしがあるということだ。
二人は駅の近くにあった手頃な居酒屋に入ることにした。
思い描いていたとおり傷心した大熊の愚痴を聞き、これも思い描いていたとおり特に掛けてやれる言葉はなく、ほとんどの時間適当に相づちを打ち、椀子そばのように運ばれてくるビールをただただ流し込んでいた。
時折訪れるちょっとした間を見つけては関係のない昔話を放り込み失恋から目をそらさせようと誘導すると、それが功をなし少しの時間会話は盛り上がった。が、すぐに失恋話へと戻ってしまう。酔いのせいもあるのだろうが、頑に話題を戻す大熊が途中から可笑しくて堪らなかった。
話の内容は何も覚えておらず、この空気感が昔となんら変わっていないことだけを嬉しく感じた。そのくらいの恙ない時間を過ごしていた。
当時は一緒に部屋で過ごしていてもお互いマンガを読んでいるか、昼寝しているか、屋根の上に出てタバコを吸っているかだった。会話がなくても気にしならないし、相手が聞いていなくても一方的に話ができると不思議と気が晴れた。そんな空間が心地よかったのだと思う。
「奢ってやるからさ、この俺の傷ついたこの心を慰めてもらいにキャバクラに行きたい!」
ただの相づちマシンへと愚痴をこぼすことにも飽きたのか酔ってきたからなのかわからないが、大熊が突然そんなことを言い出す。
キャバクラなど入ったこともない永人は露骨に嫌がる反応をみせていた。
「今日は頼むから俺の為に時間使ってくれよ!」
「金も払わなくていいし財布の心配することもないから大丈夫だって!」
「・・・それともお前、怖いのか?」
最後には揶揄われ、なかば強引に説得された形で仕方なく後を着いて行く。普通こんなときは奢ってやるべきなんだろうなと薄々感じてはいたが、社会人の大熊に甘えることにした。
居酒屋を出ても未だに明るい街中を数分程連なって歩く。
目的地は分からないが、刻々と近づいているその「店」に対して自分の嫌がっていた理由が足を進めるリズムと共に浮き彫りになっていく。好奇心よりも女性に対する不安感、ぼったくりや暴力への恐怖が永人の頭を埋め尽くしていった。
こんな感情になるのはおそらく過去に一度だけ、免許を取った友人のお祝いと題して風俗店に行った際の苦い思い出のせいだろう。
四人で行ったその旅は、二人経験者、二人初心者の構図でもちろん永人は後者だ。
そのときも夜の薄暗い路地裏を歩くだけで不安でいっぱいになった。
全員で入れる店がなかったので経験者組は各々気に入った店を探して入ることにし、初心者組は連なって一緒に入れる店を探した。
二人は近くに居たお兄さんに声をかけられ案内してもらうことになった。かなり気さくなお兄さんで歳も殆ど変わらないだろう。
初めてだと明かしても馬鹿にするそぶりも無く「歳もちょうど僕らと同じくらいの可愛い子が居るからきっと楽しめると思いますよ!」と笑顔で言われ、不安が少し和らいだ。
この頃はまだ好奇心の方が若干勝っていたのだろうか、それとも単に二人だったから心強かっただけなのか。
ぼろぼろの雑居ビルの中を案内されるまま、まだ見ぬ美女を想像し足早に歩いていく。期待と興奮でビルの内観などは全く気にならなかった。これこそが若さなのだろう。未知の世界旅行ではこの先どんなことが二人を待っているのだろうか。それが単純に楽しみだった。
受付で別々にされたことで少し不安が戻ったが、この旅は片道切符だ。もう引き返せない。
「お兄さんは右奥へどうぞ。」
覚悟を決めて指差された奥の方へと入っていく。
カーテンだけで仕切られた「部屋」と呼ぶには残念なスペースに、もはやソファーに近い簡易的なベットが置いてあった。薄暗く殺風景な空間、想像していた雰囲気とは全く違う。案内され歩いてきたビルの内部も別に華やかではなかったことに今更思いを馳せる。
とてもじゃないが同じ歳の可愛くてキラキラした子が働いている場所とは思えなかったが、お兄さんの笑顔だけを信じてその瞬間を待っていた。
しばらくすると、カーテンの向こうから女性の声がする。
「こんばんは。失礼します。」
耳にあまり馴染みの無い声のトーンで、「あれ?かなり歳上なのかな?」と瞬時に落胆していたが、「お姉さんもそれはそれで悪くないか。」そう思いとどまった。矢先、カーテンが開く。同時に永人は絶句した。
同じ歳じゃないことなど例え視力が0,1だとしてもわかる。それに加え永人の視力は1,5だ。少し薄暗かろうがこちらには全てが見えている。貶さないように優しく表現したとしても、デブで日本人ですらなく完全体に仕上がった「外国のおばさん」そのものがそこに立っていた。「おばさん」と呼ぶことが唯一の優しさであり、心の中では「このクソババァ!」とちゃんと思っていた。
ゆっくりと絶望と怒りが押し寄せてくるが文句を言う勇気もなく、話しかけてくる「奴」に生返事を返すのが精一杯だった。
「カッコイイ!ワカイコガクルナンテ、ウレシイ!」などと発している陽気な口元が何とも言えず、腹立たしかった。
「笑っている場合かボケ!お前らは嘘をついてんだ!これじゃ詐欺じゃないか!あん?」
なんてことはとても言えない自分にも同時に腹立が立った。
ここで文句を言ってしまえば、次々に怖いお方が出てきて根こそぎぼったくられたあげくボコボコにされてしまいだ。そうに違いない。
こういうときは悲観的な妄想ばかりが頭をよぎるものだ。されるがままに洋服を脱がされ、汚いおしぼりを使って雑に拭かれた自分の「相棒」は不憫で仕方なかった。
「デブなおばさん」は今でこそ少なからずの需要が確立されているジャンルなのかもしれないが、希望に満ちあふれた少年にとっては「化け物」とさして変わらず、そのうえ雑に扱われるという暴挙にあった「相棒」は怒りを鎮められずふて寝したままだ。
奴の方を見ないようにしてベットに横になり、壁ばかりを見つめ「時間の流れを早くできる呪文」をまた探していた。
するとあろうことか、奴は思いもよらない行動に出た。なんと自分も下着を下ろし、がさついた肌の汚いケツを広げ顔を跨いできたのだ。
至近距離に迫り来る狂気、いや、凶器そのものに息を吸うことさえも余談を許さない状況だった。必死に首を伸ばしたり動かしたりしながら目の前のおぞましい「ソレ」から逃げていた。
なんとか制限時間いっぱい逃げ切ることに成功し安堵していると、目の前の化け物が名刺を渡しながらこう言った。
「ハズカシガリヤデカワイイ!ボク、マタキテネ!」
「一体どんな風にして自信を身に纏えばお前のような化け物の口からそんな言葉をこの世界に放てるのか。」と理解に苦しんだが、出来る限りの愛想笑いをし、身支度をさっさと済ませ逃げるように金を払い店を出た。
一緒に来た友人は無事だろうか。とにかく生還するのだぞ。相方の無事を切に願いながら店の近くで皆を待ち、手持ち無沙汰に渡された名刺を眺めてみる。
「テレサ」と書かれ、もう日本人だと言い逃れすらできない、する気も無い名前の上下のスペースに汚い手書きの字でこう書いてあった。
「月を見上げてごらん、いつもソバに居る。大好き。」
最低だと思う。意味も分からない。思わず名刺を地面に叩き付けそうになるも、バイトした金でせっかく得た「もの」と言えばこれくらいだ。無駄にしないためにもせめて皆に見せて笑ってもらおう。
やりきれない気持ちをため息に変えていると、同じ店に入った相方が戻ってきた。
遠目にも元気のない様子が伺える。相方が無言で隣に並んだ。言葉にしなくても全てを分かり合えた気がした。
二人でタバコを咥え、薄暗い夜の街へモヤモヤした煙と気持ちを吐き出す。すさんだ街がいっそう汚れてみえた。
しかしこの無言の空間にこそ唯一、本物の友情が存在するのかもしれない。
お互いに「煙製造機」と化して残りの二人を待っていると、彼らは連なり明るい表情で帰ってきた。そして開口一番、
「いやー!同じ歳の可愛い子が制服で出てきてくれて本当に楽しかったぜ!」
「俺の所は少し歳上のギャルだったけど可愛くてエロかった!」
二人はとても楽しそうだ。まだ興奮冷めやらぬ様子だったが、街灯の少ない夜の闇にとけ込み静かにロンドンの夜を思わせる雰囲気でも作るかのように無限に霧を生み出していた永人達へ、「ところで、お前らはどうだった?」と案の定質問コーナーが回ってくる。
永人は溜めておいた感情と性欲を爆発させ、カーテンが開いた瞬間の絶望とオプションとして勝手に開催された『制限時間40分!果たしてこの化け物から君は逃げ切ることができるのか!?』と何処かでアナウンスが聞こえてきそうなゲーム「モンスター鬼ごっこ」について詳しく説明し、逃げ切ることに成功した「勇者」にのみ渡される戦利品「伝説の名刺」を皆の前で振りかざした。
この日から一緒に行った友人達の間で永人のあだ名は「テレサ」となった。同時に永人は理解するのだった。
「そうか、伝説の名刺とは転職に使うアイテムだったのか。」
相方の方も酷かったようだが、「テレサに比べればそれほどでもなかったな。」と笑っていた。
勇者はこのとき初めて一人の人間の心を救うことが出来たのかもしれない。
その後数年間、飲みに集まれば思い出してはネタにして笑ってくれて、カラオケではテレサとの出来事を替え歌にして歌われた。皆が盛り上がってくれる。それ程印象に残ってくれていることが唯一の救いだった。
だが、転職した者にのみ代償として与えられた「恐怖心と傷」はそう簡単には消えない。
一度のモテ期も経験できず、あげくこの若さで女性に恐怖を感じる日が来ようとは思ってもみなかった。
思い返してみれば学校での席替え、クラス替え、少年時代の要所要所でくじ運が人一倍なかった。
「そうだ、昔から俺には運がない。」
歩きながら無言でそんなことを考えているうちに、目の前の大熊が古びたビルの地下に続く階段を下っていく。
行ったことのある店なのだろうか、足取りは軽い。「また古いビルかよ。」脳裏に浮かぶ映像と目の前の空間がリンクしていった。
少しゴツめの扉を開けると、ビルの外観とは違い小綺麗でお洒落な店内。慣れ親しんだ居酒屋のような堀ごたつや汚れたカウンターはなく、ガラステーブルの横に大きな革のソファーが置かれている。これはこれでとんでもない場所に来てしまった気がしていた。
奢ってくれるとはいえ、この雰囲気、高級感、ここでもしもぼったくられたなら社会人である大熊の手持ちも足りないだろう。そしてそれより金のない自分の手持ちなどケツを拭く紙の足しにもならず、裏に連れていかれボコボコにされたあげく有り金は全て持っていかれるのだろう。
経験したこともないただの被害妄想を自ら膨らませ、破裂寸前まで膨らみきった状態の永人は、この世の終わりのような顔をしたまま少しの傷もつけてしまわぬようにとそっとソファーへ腰掛けた。
大熊は慣れた態度で「ドカッ」と向いの席に座り、ボーイさんには平気でタメ口だ。「終わった。」そう思った。
ボトルとコップ、氷が運ばれた綺麗なガラステーブルを眺める。
「なんて透き通ってるんだ。」
大熊がずっと何か言っているが耳に入らなかった。
そのまま少し待つと、不安で凍え寒さに震える華奢で情けのない子犬のような永人の肩の上に、小さくても優しく温く包んでくれる毛布のような声がそっと乗る。
「こんばんは。」
顔をあげると、小柄で童顔ではあるがどこか上品でとても綺麗な大きい目、可愛いと美人を同時に兼ね備えたこれまでの人生では見たことのない素敵な女性が立っていた。
キャバクラと聞いて思い描いていた派手な感じはなく、べらべらと下品にしゃべることもない。終始柔らかい口調で、何処の言葉かはわからないがなまりのある言葉遣いがいっそう優しさを際立たせている。
あまり自分から喋らない永人にもゆっくり話しかけてくれたおかげで、凍えて震えていたはずの子犬はすっかり暖炉の前でくつろぐ犬へと変化していた。
独特の空気感が心地よく、どこか懐かしさすら感じた。笑ったときに見える八重歯が悪戯な可愛らしさを際立たせ、吸い込まれるほど綺麗で大きな目も印象的だった。全然想像もつかなかったが歳は六つも上で、名前は「里緒」というらしい。
豪快に隣の女性と話している大熊を横目に、自信のない小さな声でなんとか里緒ちゃんと会話を続ける。
こういった店に入ること自体が「悪いこと」と思っていた永人は、この手の店に入るのは初めてであくまでも自分の意思ではなく友人の慰めのためだと主張し続けた。友人を売ってでも嫌われないように振る舞う姿は、愚かで惨めだ。
時間を埋めるために行われる無駄な言葉のやり取りを続けていると「里緒さん、里緒さん。」とボーイが声をかける。指名が入ったようだ。
人生一素敵な女性に出会えたことと酔いが助けてくれたこともあり、「ありがとうね。」そう言って席を立とうとする彼女に対し果敢にも「アドレスを教えて下さい!」とお願いした永人だが、「彼氏居るから。ごめんね。」と断られた。
そもそもここは親戚が働いているお店で、「人手が足りず困っている。」そう連絡を受けてここ数日だけ手伝っていたのだと内緒で教えてくれた。
「ありがとう。」
もう一度そう言って彼女は他の席に移り、違う男の相手をしている。自分に向けられていたあの素敵な笑顔が30秒後には他の男に向けられていた。
目の前に置かれた里緒ちゃんが作ってくれた水割りを一気に飲み干す。会話することに必死で手をつけていなかった水割りは氷が解けたせいか薄く、とても味気なく感じた。
次に横に座った女性は思い描いていたキャバクラのイメージそのもので、べらべらと何か喋っていたがもう耳には入らなかった。
そんな永人を気にかけてくれたのかはわからないが大熊は延長もせず会計を済ませ、二人は店を出た。
すんなりと店を出られたことへの安堵感はもう無く、永人は階段の下で今も男と笑っている里緒ちゃんの姿を想像していた。時間は24時になるところだ。
「どーする?家に帰って飲みなおすか?」
大熊はそう言ったが、黙って聞き流した。少しの間沈黙し、決意したように声を出す。
「ごめん!俺、里緒ちゃんのこと終わるまで待ってるよ。せめて駅まででも一緒に帰りたいから。」
「いやいや、お前馬鹿なの?まだ閉店まで3時間近くあるしこんな寒い中ずっとここにいるつもり?」
呆れた様子で言い放つ大熊に真剣な表情で「うん。」と一言だけ返した。
その後、帰る、帰らないの問答が続いたが、ついに大熊も諦め「それなら俺は家に帰って待ってるから。気が済んだら電話くれ。家の場所案内するから早めに帰ってこいよ。」
そう言い残し帰っていった。
携帯ゲームやYouTubeなど無い時代。極寒の3時間を外で過ごすのは思いのほかきつかった。コンビニへ立ち読みに入る選択肢もあったが、閉店前に帰ってしまった場合見逃して時間の無駄になる。
とにかく身体を動かしながら店の前でひたすら待った。
3時間と少し経った頃、店から数名の女性が出てくる。閉店になったのだろう。顔を見られると恥ずかしいので少し離れた場所に移動し、帰って行く女性の中に里緒ちゃんを探していた。
なかなか出てこない彼女について出てきた女性達に聞きたいとも思ったが、そんな勇気はあるはずもなかった。
結局帰宅の流れが終わっても里緒ちゃんが店から出て来ることはなかった。考えてみれば出口が他にもあったのかもしれない。
「そっちから帰っていたとしたらこの時間はなんだったんだ?」
「それならまだしも、店内で店長や店員といちゃいちゃしていたらどうしたものか。」
得意の妄想を膨らましては悩みながら、それでもひたすら待ち続けた。
一体何をしているのか途中からわからなくなり、自分自身が可笑しかった。まだだいぶ酔っているのかもしれない。
5時頃になり、ようやく里緒ちゃんが店から出てきた。駅まで5分程度の道を一緒に帰りたいという理由だけでこの瞬間を待っていたのだ。
店の目の前で待つ永人を見つけ、驚き見開いていた大きくて綺麗な目を一生忘れることはないのだろう。
「えっ?何してるの?」
「まだ近くで飲んでて暇だったので駅まで一緒に帰ろうと思いまして。」
待っていたなんて思われたら格好悪いと考え、「あくまで暇つぶし。」という姿勢を貫こうとするところがかえってダサい。
出てくるのが遅かったことを聞いてみると、どうやら始発の時間まで店内で待たせてもらっていたみたいだった。
彼女は少し戸惑いながらも、「こんな寒い中ずっと待っていてくれたなんて素直に嬉しいです。」と笑い、駅まで一緒に帰ってくれることになった。
「待ってた訳ではないけどね。」そう念を押しかけたが、バレているのは明白だったのでやめておいた。
ポケットに手を突っ込み、出来るだけ大人の男性を装って落ち着いて話をすることを心がけた。そのため話題は全く面白みのないもので、寒さについてや大熊の失恋についてを再度聞かせるようなものになっていた。
左下に視線を送ると、彼女は会話しながら永人の目をちゃんと見てくれていた。綺麗で大きなその目で見つめられると頭が真っ白になりそうだった。
他愛もない会話を少ししただけでもう目の前は駅だ。何時間も待ち思っていた程面白くもない遊園地のアトラクションに似ているなと感じる。
内心では乗ってしまったことを後悔しているほど怖かったくせに、最後まで「なんともなかったぜ。」と格好つけてしまうところまでそれにそっくりだ。(補足しておくと、決して里緒ちゃんが面白くないアトラクションだったと言っているわけではない。)
全て楽しむ余裕を持てなかった自分のせいであり、少ない時間ではあったが隣を歩いてる彼女の姿は現実離れしてみえるくらいに綺麗だった。
駅前についてから少し粘り、「こっちからは連絡しないので」などと『では何故聞くのだろうか?』と誰しもが問いたくなる程に矛盾だらけの言い草で説得し、なんとか電話番号とメールアドレスを教えてもらった。
内心彼女も思ってはいたのだろうが「しないならなんで聞くんですか?」と言わない優しさに救われた。
寝ていた大熊を電話で起こして家の場所を聞きなんとか迷わずに帰ると、電話を切った後はずっと起きて待っていてくれた様子だった。根が優しいからこそ、ずいぶん心配していたのだろう。
眠たそうな大熊を気にもかけず、興奮していた永人は早速この夜の経緯を話す。それを聞いた大熊は「番号なんて持ってても意味ないから。俺が消してやろうか?」と呆れたように言った。
「もうそんな事には慣れている。」とでも言うような、希望も感じさせず小馬鹿にしたような口調が耳障りだ。
聞く意味も持たないアドバイスや文句を無視しながら、駅でした約束の舌の根も渇かないうちに書きたいことを書きまくり完成させた長めのメールを送信すると、直後にエラーメッセージが返ってきた。
項垂れた永人の姿を見て「ほらみたことか。」と得意げな態度の大熊が「これで二人とも失恋したな!」と言い大笑いしている。
「これが都会か。」
「テレサの時もこんな気持ちだったっけな。」
「いや、あの時とは違う。しっかり『恋』をしているし楽しかったわけだから。」
「でもキャバクラってやっぱりこんな場所なんだなぁ。」
心は苦しかったが少し大人になれた気もする。が、本心ではただただ悔しく、部屋にあった酒を勝手に飲みだし愚痴を言い出す。結局どっちの失恋話が本題かわからなくなっていた。
「お前は昔からモテないんだからさ、慣れないことするなよ。」
「さっさと言うとおりに帰ってくれば楽しく飲めたのに。」
「まぁ、いい経験が出来て良かったんじゃない?」
次々にわかったようなことを言って諭す大熊を見ながら「数時間前までは自分が振られて落ち込んでいたくせに今は腹を抱えて笑っている。この変わり身の早さはなんなのだろうか。」と疑問を抱きつつ、話を聞き流しながらまた昔のことを思い返している。
中学の頃、教室の真ん中に立っていた大熊に後ろから近づきズボンを下ろした際勢い余ってパンツまで下ろしてしまったことがあった。大事な一人息子をさらし者にされた途端泣きながら何処かへ走り去って行ったあの少年が「今ではこれよ。」
授業をサボって学校中を探した。トイレ、美術室、音楽室、校庭、部室棟、呼び掛けながら探し回る。体育館の扉を開けて、静かな広い空間を大熊の名前で埋めながら奥へと入っていくが、ここでも返事はない。「またハズレか」と思いふと上を見上げると、そこに大熊が居た。
「そうか、学校で泣くならここしかないじゃないか。」パズルがはまったみたいな感覚だったことを覚えている。
大熊は二階ギャラリーの隅で膝を抱えて泣いている。
「うん。これは絵になるな。」そんなことを悠長に考えながら泣き続ける大熊に必死に謝っていた。「あのとき自分だってそんなことで大泣きして、ダサくてモテなかったくせに。」
あの少年も今では都会の人間を気取り、大人の顔をして目の前で語っている。その光景を半ば他人事のように眺めながら、「大人になってからも皆心の中に体育館のギャラリーを持っているのかな?」
当時そうだったように永人はこの時もそんなことを呑気に考えていたのだった。
そのまま眠ってしまったのか、気づけば時計は15時を回っている。ひどい頭痛と吐き気で散漫とする意識の中、昨日の出来事が夢だったのではないかと携帯を覗くとしっかりとエラーで返って来たメールが画面に表示された。
永人はやりきれず、もう一度寝てみることにした。
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