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岩倉文也『魂に指ひとつふれるな』感想


岩倉文也『魂に指ひとつふれるな』(星海社FICTIONS)をご恵贈いただきました。

■岩倉文也『魂に指ひとつふれるな』
https://www.seikaisha.co.jp/information/2024/11/08-post-tamashii.html

将来を嘱望された新鋭詩人・ミズキは詩を書く傍ら、
無職ばかりが暮らす風変わりなシェアハウスに入り浸っていた。

ある日、そこで年上のイラストレーター・風花と出会う。
はじめは風花の気儘(きまま)な言動に振り回されていたミズキだが、
少しずつ、彼女の持つ危うい才能に惹き込まれていくーー。

創作は人を救うのか。
人は、創作の果てに何を見るのか。

SNS時代に表現者であることの意味を問う、
詩人=小説家、岩倉文也による異色の恋愛小説!

公式紹介文より


 創作にたずさわる人間が天使になる瞬間を、わたしも見たことがある。なにかの予感を発するものを前にして、肉体はそこに存在していながら、ここでない、どこか遠い世界に接続されたことで、器のようになった姿を見たことがある。
 しかしSNSは、創作者に「つねに」天使であることを要求する。つねに浮世離れした感性で世界を捉え続け、その姿をタイムラインの上に晒すよう圧力をかけ続ける。そうしてSNS時代の創作者は、生えていない羽を生えているかのように見せることへの葛藤に苛まれる。
 ならば、嘘偽りのない、ほんとうの天使になる瞬間というものは、この時代の創作行為においていかなる価値を持つのだろうか? あるいは、だれかに対して天使でいられるようにとただしく祈る方法は存在するのだろうか?
『魂に指ひとつふれるな』は、そうした同時代的な問いに対して、極めて共感的な――しかし最後の一歩だけは遠くへ跳ぶような仕方で応答している作品としての一面を持つように感じた。

 作中、大学生詩人である主人公・ミズキが、同世代の親しいイラストレーターである風花と共に天使をコンセプトとする絵本を制作する場面がある。
 そのきっかけのひとつとなったのが、ミズキがメモアプリに書きつけていた「天使に関するメモ」である。
「天使に関するメモ」は「天使はどこにでもいる/天使は物に近い」と始まり、以降は否定神学を想起させるような手法で、天使に属さない性質を否定形によって書き連ねてゆく。「天使は自意識をもたない/天使は言葉を発しない」……。そのようにして尋常の人間らしさを剥奪することにより、天使は縁取られてゆく。

 論述手法としての否定神学の特徴は、対象の有する性質にふれることなく対象へ漸近できるところにある。そこでは対象の神秘性を保ったままに、対象の輪郭を描き出すことができる。不可侵の天使像を作るにあたっては妥当な方法であろう。
 しかし、無数の「ない」によって輪郭の作りあげられる天使像は、SNSにおいては共同幻想的に構築される。すなわち、創作者と閲覧者の間に共有された、超然としたイメージとしての「創作者」の構築に、創作者自身が携わらなければならないのだ。
 Twitterというプラットフォームは、それぞれのタイムライン上に作品と告知と呟きとを、フラットなステータスで並置する。そこで創作者によってなされる投稿は、すべてが作品に通じており、またすべてが創作者のイメージに通じている。ゆえに、創作者はすべての投稿に対して、自らに対する否定神学的な「ない」を付与し続けることを要求される。そうすることによって、SNS時代の創作者を評価するひとつの指標である「数字」を獲得することができる。

無邪気に日常報告を行っていた風花さんが徐々にイラストを投稿するようになり、長ずるにつれ日常報告が消え、抽象的で意味の摑み辛い、勢いに任せたような文章が増えていき、最終的には、仕事の告知を除く一切の投稿が消えてしまうに至る、彼女の長大な言葉の連なりを、ぼくはつぶさに追っていった。

209頁

 Twitterのアルゴリズムは、創作者が自発的に天使としてふるまうように促す。そして、その天使像が「私からいちばん遠い存在」(166頁)であることを、創作者自身は常に突きつけられる。
 遠い、というのが本作における天使の定義であった。だから、創作者はSNSで活動する中で、虚像としての「天使=創作者」から徐々に乖離してゆくことになる。

ぼくが抱く優越感、それは盗賊の誇りだ。いかに実績を上げようとも、決して公的には認められることのない、ならず者の誇り。ぼくは自分をさながら混血児のように感じていた。半分は正統な文学の血、半分は猥雑な、いかがわしい、ほとんど詐欺的とすら言える、ソーシャルメディアの血。ぼくはその混血を恥じた。恥が募って誇りになった。

108頁

 ほんとうの天使である瞬間がたしかに存在しているというのに、その瞬間にはわたしという自我が消え失せている。だから創作者は、天使でないときに限って天使であることを装わなければならない。
 ミズキが「ソーシャルメディアの血」を「詐欺的」であると形容するのは、そうした心の働きによるものだろう。

 ミズキは、風花と交友を深めるうちに、風花の描く天使を風花自身と重ねるようになる。
「自転車に鍵かけずおくかの人の魂に指ひとつふれるな」。短歌定型に促されるようにしてそう願うミズキは、ゆえに、天使の設定資料をつくるにあたって否定を連ねる以外の手段を選ぶことがない。写実画家であるギュスターヴ・クールベは、天使は見たことがないので描かないという旨のことを語っている。それと同様にしてミズキは、ほんとうに天使になることができるひとに、偽りの天使としてふるまわせないための祈りかたを選ぼうとしていたのだろう。
 すなわち、『魂に指ひとつふれるな』が扱うところの天使は、けっしてふれられることがあってはならない、「ぼく」との間にたしかな距離を備えた、絶対的に存在する遠さそのものを意味する概念であった。

 否定を繰り返すことによって、なにか純粋なものへ近づいてゆく。そうした営みは、岩倉文也の他作品でも描かれるものである。
『終わりつづけるぼくらのための』(星海社FICTIONS,2021)では、無数の世界の終わりを連作掌編によって描きだすことで、その果てにおいてようやく「わたし」のはじまりに迫りはじめる。
『透明だった最後の日々へ』(星海社FICTIONS,2023)では、容易に手の届く近さでの共感や物語をすべて否定した末に、後戻りのできない、けれど重要な感情に手が届いてしまう。
 いずれも、否定の末に立ち現れる純粋さの残酷と崇高を扱ったものである。『魂に指ひとつふれるな』は、そうした純粋さに対して天使という言葉を与えている。天使になれるあなたにも、天使を目撃するあなたにも、その現象がいかなるものであるのかを切実に伝えようとしている。

 以上は、作品中盤までの感想である。終盤、こうした「遠さ」による天使の描出は、反転した形で繰り返される。では、魂にふれてしまったら? わたし自身、SNS時代に小説を書き始めた世代の書き手であるので、身につまされながら読んだ。本稿のはじめに記した問いは、終盤において明確になる。
 嘘偽りのない、ほんとうの天使になる瞬間というものは、この時代の創作行為においていかなる価値を持つのだろうか? あるいは、だれかに対して天使でいられるようにとただしく祈る方法は存在するのだろうか?
「いつも言葉は遅すぎる」(227頁)。だからこそ、物語の最後、ミズキが風花の画集に対して行った選択が、わたしにはきわめて純粋な祈りであるように思われた。

「作品は人の目に触れるたび、少しずつ死んでいくんだ」

102頁


■岩倉文也『魂に指ひとつふれるな』
https://www.seikaisha.co.jp/information/2024/11/08-post-tamashii.html

青島もうじき(あおじま・もうじき)
作家。豆乳が好き。小説に『私は命の縷々々々々々』(星海社FICTIONS)、『異常論文』(早川書房)、『破壊された遊園地のエスキース』(anon press)、「うたうきかい」(スピン 第9号)、論考に『ユリイカ 特集=長谷川白紙』『ユリイカ 特集=いよわ』など。

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