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文章の魂について講義する午後

「もしカーナビの声が長嶋茂雄だったらどうする?」
むかし、同僚が運転する車の中でそんな話をしたことがある。
「『あの~、この道をバーンとしばらく行って~、右のあたりを~、う~ん、どうでしょう』」
「辿り着かれへんな」

さて、何を隠そう私は長嶋茂雄タイプなので、指導には不向きだと思っていた。
勘とフィーリングで動いている部分を、理論化・体系化してかみ砕いて伝える、ということが不得手ということだ。
自身が得意なこと、たとえば料理とかで「醤油どれくらい入れたらいいの?」とか聞かれても「だいたい!」とか、「何回もやってたら自然と分かるようになる」としか言えなかった。

しかし、自身が不得手なことに対して教えを乞う立場になってみると、「言語化を怠るというのは相手に対する想像力を働かせることを放棄すること、つまりは怠慢ではないか」ということを薄々感じるようになった。
昔ながらの、職人の「見て覚えろ」的なことはある意味正しい。ロジックや説明ではなく体得でしか掴めないものは、たくさんある。だけどそれは、教える側が言語化を怠っていい理由にはならないのではないか?

そこで、自身が比較的得意なことで「どうしてそんなことがわからないのだろう?」と不思議に思えることでも、相手の見えている世界を想像し、理解できるように伝えることを意識するようになった。

とはいえ、文章に関してはずっと教えを乞われる機会がなかったので、長嶋茂雄的にひとりでやってきたわけだけど、Time has come、ついに時が来た。


とある高校で、文章の書き方講座をやってほしいと依頼を受けたのだ。

定時制の高校のサテライトで6人ほどしかいないクラス、以前にも一回、読書について講義しに行ったことがあり生徒たちの顔と名前、キャラクターも頭に入っている。しかし、たった一コマの授業だ。教えられることにはものすごく限りがある。「これだけは」というメッセージとして、何を選ぶのか。
そんなことを直前まで考え、やった授業内容を今回は再現してみます。

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すべて未発表、noteのみのエッセイです。

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