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2024年度あおいうに個展「マゾヒズムは父〓しのはじまり」に向けて、ギャラリストからのコメント
フロイト、エディプスコンプレックスに重なるあおいうにの芸術観
森下泰輔(アートラボ・トーキョー代表ディレクター/美術評論家/美術家)
あおいうにが旧統一教会二世として、幼少期に性的な自由を抑圧されたため、自虐性(マゾヒズム)を誘発して精神的にもダメージを受けたことと本展とは通底している。そのトラウマを今回はあくまでも抽象表現として展開した。
結局、あおいうにの人格形成、芸術による救済願望の発芽にも大きな影響力を持った。うにはここで自らの内面、潜在意識に直接訴えようとしている。
あおいうには旧統一教会の強力な父性原理「真のお父様」であった教祖を精神的に全面無化する、といった妄念を抱くようになる。これは社会に適応しようとする発達過程で必然的に生ずるものだった。
「父殺し」とはジークムント・フロイトが提示した概念で、母親を手に入れようと思い、また父親に対して強い対抗心を抱くという、幼児期においておこる現実の状況に対するアンビバレントな心理の抑圧のことをいう。「男根期」に生じ始める無意識的葛藤として提示された。このようなエディプスコンプレックスは3歳から6歳ごろの男女に顕在化する。男根期においては、男児・女児双方にとってペニスが特別な意味を持つ。つまり、この年頃になって子供は、ペニスのある/なしによって、性別をアイデンティティとして認識するようになるのである。
むろん今日では、あまりに男根性にシフトしすぎているこうした理論は全面的に支持されているわけではない。が、あおいうにのように性差に自覚的であると同時に、家族や性的な意味での男性性、女性性に敏感なタイプにおいては、十分に参照可能なテーゼであろう。
エディプスコンプレックス自体はフロイトの精神分析理論に基づいた家族内の無意識的な葛藤に焦点を当てている。子供が異性の親に対して性的な欲望を抱き、同性の親に競争心や敵対心を感じるというものだ。一方、文鮮明と統一教会は、宗教的・霊的な思想を重視し、家族の役割を強調しながらも、教義に独自の家族観や救済の枠組みを含んでいる。統一教会では、家族は非常に重要な位置を占めており、「真の家庭」を築くことが教義の中心にあった。文鮮明は、「堕落した」アダムとエバの物語を宗教的な教義の土台とし、家族の役割を霊的な回復や救済に結びつけている。文鮮明は、アダムとエバが神との正しい関係を維持できなかったことが人類の「堕落」をもたらし、その結果として家族や社会の不健全な状態が生じたとしている。この「堕落」した家族関係を修復するために、「真の父母」である文鮮明とその妻が霊的なリーダーシップを提供するとされる。
もし統一教会の信者が文鮮明を「父親的存在」として強く崇拝し、その後洗脳から解放され、彼を否定するようになる場合、その心理的過程はエディプスコンプレックスの構造に類似した側面を持つと考えることができる。エディプスコンプレックスの基本的な構造は、最初に父親(もしくは父親的な存在)に対する愛情や崇拝があり、その後、競争心や敵対心が生まれるというものだ。この観点から、信者が文鮮明を憎むという状況は、エディプスコンプレックスの枠組みで説明できる部分がある。したがって、統一教会の信者が洗脳から解放され、文鮮明に対して憎しみや敵対心を抱くという状況は、エディプスコンプレックスの構造と類似する側面を持っていると言える。文鮮明が「父親的存在」として信者の心に位置していたこと、そしてその崇拝が憎しみに変わるという過程は、エディプスコンプレックスにおける父親への愛と敵対の変化と重なる部分がある。この意味では、フロイトのエディプスコンプレックス理論は、統一教会の元信者が経験する心理的な変化を理解するための一つの枠組みとして有用かもしれない。
山上徹也による安倍晋三の暗殺事件を、エディプスコンプレックスの文脈で捉えるという見方は、特定の心理的・象徴的な側面を考慮することで、興味深い解釈ができる。この解釈には、山上の統一教会(世界平和統一家庭連合)への反発が根底にあるという背景が重要だ。彼の母親が統一教会に多額の献金をし、その結果として家庭が経済的に崩壊したという体験から、山上は統一教会に対する激しい怒りを抱いていた。そして、その憎しみが結果的に代理父たる安倍晋三に向けられたのである。
あおいうにが山上に共感を抱くある部分には上記の精神的葛藤が存在すると同時に、こうした男権性に類似する権威・権力からの自己解放と精神的自立による社会現実への適合という過程があった。そうした意味ではある種の「父性原理」をフロイト的ではなく字義通り「去勢」することによって自己解放されたいという願望上にある山上の潜在意識とあおいうにのそれとは相似形をなしている。
むろん、ここでは男女の性差とはいっても単に肉体的なものではなく、フロイトを発展させ、今日では評価も高いカール・ユングは、性器に基づく心理発達理論に対して別の視点を提供した。ユングは、無意識の中に存在する「アニマ(男性の中の女性的側面)」と「アニムス(女性の中の男性的側面)」という概念を提唱し、これが精神形成に重要な役割を果たすとした。この理論では、フロイトが強調した性器そのものではなく、無意識の中にある男性性や女性性のバランスが人間の精神形成に影響を与えると考えられる。山上とあおいうにの心理のひだにはこうした「異性の中の異性」といった複層した現象も含まれる。
その意味でうには、「男根化した乳房」の所有者かもしれない。彼女の「おっぱいペインティング」とは男根的なアプローチだともいえなくもないのだ。
フロイトの理論によれば、子供は発達の過程で親、特に父親の権威と衝突することがある。父親はしばしば、権威的な存在として子供に規律を課し、その行動を制限する。この抑圧された感情や欲望が、自己犠牲や罰を求めるマゾヒズム的な傾向として現れることがあり、あおいうにの主張とも合致する。
また、草間彌生が「自己セラピー」としての精神的救済から「自己消滅」のような無限のネットや「点々ぽちぽち」(草間)によって救済されようとするように、あおいうにもまた芸術によって幼少期宗教団体から受けた過度の抑圧から解放されようとしているのかもしれない。その際、抽象画の筆意の瞬間毎に、抑圧を吹き飛ばしているのかもしれない。抽象的に「自己解放」しようとするあおいうにの試みに注視してみたいと思う。