「親友」って特別じゃないってこと。
以前、友達に「親友って何人いる?」と聞かれた。私はその場でパッと答えられなかった。「親友」ってなんだろう。その質問をした目の前の友達も自分にとって「親友」なのかよく分からなかった。
私の祖母はメンタルが強くて、何に対してもポジティブで、泣いた姿を見たことがなかった。曽祖父(祖母の父)が亡くなった時も涙は見せなかった。私が小さいときから、「死ぬときは死ぬんだから」とよく言っていて、人生に対しても死に対しても割り切っているようだった。
ある日、祖母のもとに電話がかかってきた。祖母は電話に出るなり、表情を曇らせ、涙を流し始めた。それを見ていた私たち家族は、初めて見る祖母の涙に驚いた。祖母は電話を切ると、「ばっちゃんが事故にあった。」と言った。ばっちゃんというのは、祖母の高校生からの友人で、私が生まれた時から可愛がってくれていた第二の祖母みたいな存在(だからばっちゃん)だった。ばっちゃんは運転中に後ろから追突され、その衝撃で首の骨がおれ、命も危険な状態だった。
ばっちゃんは我が家から車で10分ぐらいの場所に住んでいた。毎晩のように家にきて、祖母とお茶をしながら、お互いの旦那の愚痴を言ったり、サスペンスドラマを見ながら2人して寝落ちしたり。若いうちにお嫁に行って、家を支えるために頑張ってきた2人。亭主関白な旦那に構い、それぞれの親の介護をし、子どもや孫の世話をし、休むことなく家族のために動き続けてきた。そんな2人にとって、毎晩のなんでもない時間が大切な息抜きの時間になっていたのだろう。
祖母にとって、ばっちゃんはまさに「親友」なのだ。何をしてあげたわけでもない、してもらったわけでもない。でも一緒に過ごす時間がお互いを癒してくれる。笑顔を増やしてくれる。そんな存在を失うのかもしれないと思ったとき、祖母は涙をこらえることができなかった。
神さまは優しかった。祖母から「親友」を切り離すようなことはしなかった。ばっちゃんは奇跡的に一命を取り留めた。医者からはあと数ミリ打ちどころが悪かったら助からなかったと言われた。ばっちゃんはが以前のように毎晩家に来ることはなくなったが、毎日電話でお互いの声を聞き、たまに3時のおやつに来る。取り止めのない話しをして笑い合っている。
私にとっての「親友」は誰だろう。「親友」とそうでない友達の境い目は分からない。でも私に癒しと笑顔を与えてくれる友達はいる。「親友」だから何をしてあげる、してもらうということはない。ただ何気ない時間を過ごすことで安心できる。そんな友達を大切にしていければいいのかなあとふと思った夏の近づく2020年5月8日の朝だった。
aoiumi
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