飛騨神岡の武士「江馬氏」 史実に残る姿をまとめてみた(メモ)① 14~15世紀
はじめに
この記事では、戦国時代の飛騨国北部「高原郷」を中心に勢力を持っていた江馬氏について調べる。
調べた内容をまとめた記事ではなく、調べながら書いたメモである。
江馬氏については軍記物に描かれていたが、現代では軍記物を読む機会がない。
軍記物に描かれた江馬氏の姿は、『高原郷土史』という本にまとめられていた。
そこで、前回の記事では『高原郷土史』を書き写した。
今回は逆に(?)、史料に残る史実の江馬氏について調べる。
調べると言っても、一般向けの本に書かれていることをまとめるだけである。
参考
谷口研語『飛騨 三木一族』 新人物往来社 2007
三好清超『中世武家庭園と戦国の領域支配 江馬氏城館跡』 新泉社 2021
飛騨神岡街づくり実行委員会『天地を翔ける -江馬氏城館の全て-』 2022
飛騨の地名は古いものが現在でも残っている場合が多いので、地名については説明を加えない。
14世紀後半の江馬氏
江馬但馬四郎(1372,1381)
14世紀後半、1370年代~80年代のこと。
当時の飛騨高山には、公家・山科家の所領が多数あった。
江名子郷・石浦郷・岡本保などである。
(郷と保は、だいたい同じようなものとしておく)。
飛騨の武士のトップ、飛騨守護は京極氏だった。
その被官人(家来)に垣見氏という武士がいる。
垣見氏は、しばしば山科家の所領を押妨した。
押妨というのは、他人の所領を乗っ取って勝手に課税してしまうことなどを指す。
垣見氏が押妨した所領の税は山科家に届かなくなるので、山科家は非常に困る。
そこで山科家は幕府に訴えて、垣見氏に押妨された所領の返還を求めた。
幕府で裁判が行われ、山科家の主張はもっともだと結論付けた。
幕府は「垣見氏の押妨をやめさせて所領を山科家に返還させよ」と命令を出した。
この、所領を本来の持ち主に返還する手続きを遵行(じゅんぎょう)というらしい。
本来なら、遵行は守護が行う。飛騨でいえば、飛騨守護の京極氏だ。
しかしこの場合、訴えられた垣見氏は飛騨守護・京極氏の部下である。
すなわち京極氏は裁判の被告側であって、遵行を実施する立場にはなれない。なったとしてもやる気が出ない。
そこで、幕府は在地の武士に直接命令を出して遵行を求めた。
守護が係争の当事者である場合、二名の武士を任命させて遵行を代行させた。
在地の武士は守護の統制下にはあるが、被官人(家来)ではない。
幕府の命令は、守護の統制に優先する。
(遵行という言葉の用法がよく分からない)。
前置きが長くなった。
このとき、遵行を命じられた武士が、江馬但馬四郎である。
まずは1372年(応安五年)、広瀬左近将監に「江馬但馬四郎と遵行を実施せよ」と命令が出た。
広瀬氏は国府町広瀬に勢力を張った武士で、江馬氏と並んで有力な在地の武士だったようだ。
続けて、1381年(永徳元年)には伊勢貞長にも同じ命令が出た。このときも、コンビを組んだ相手は江馬但馬四郎だった。
幕府からの命令にも関わらず、垣見氏がしつこく押妨を続けたようだ。
江馬但馬四郎は、遵行の実行役として幕府に頼りにされているようにも見える。
江馬能登三郎(1383)
ところが1383年(永徳三年)、江馬能登三郎という人物が、垣見氏と一緒になって山科家領に押妨を働くようになってしまった。
江馬但馬四郎が二度目の遵行を命ぜられてから、わずか二年後のことである。
江馬但馬四郎と江馬能登三郎は、この三件に名前が残るだけで系譜などは不明。
江馬氏の中でも立場が分かれていたか、江馬氏の方針自体が変わったのか、あるいは江馬但馬四郎は最初から守護方に与していて、しれっと命令を無視していたのか。
いろんな可能性が考えられるが、残念ながら答えに近づきそうな史料や傍証は残されていない。
江馬民部少輔(1388)
江馬但馬四郎、江馬能登三郎と同時代の人物に、江馬民部少輔という人物もいる。
江馬民部少輔も先の二人と同様、事務的な連絡文書に名前が残るだけである。
1388年(嘉慶二年)、山科家領の江名子郷・松橋郷に対する段銭の要求を止めるよう、幕府奉行人から命令が出た。その命令の宛先だったのが江馬民部少輔だ。
ちなみに、ここまで山科家の所領に関する話ばかりなのは、この時期の江馬氏に関する史料が『山科家文書』しかないからである。
江馬氏が山科家の所領にばかり関わる武士だったわけではない。
段銭は、土地に課税する臨時税の一種である。
幕府の奉行人か守護が徴収を行う。
今回の件では、奉行人から段銭徴収の停止指示が出た。
奉行人の指示で江馬民部少輔が実施していたところ、なんらかの理由で停止することになったものか。
江馬氏下館の成立
江馬氏下館が最初に作られたのは14世紀の末ごろと見られている。
ということは、江馬氏下館が創建されたのは、江馬但馬四郎・江馬能登三郎・江馬民部少輔らが活動していた時期に近い。
江馬氏下館は、15世紀末に大規模な建て直しがあり、現在「江馬氏館跡公園」として復元されているのはリフォーム後の姿の方。
復元後の姿とはだいぶ違っただろうが、それなりに大規模な館だったようだ。
15世紀前半
応永飛騨の乱(1411)
1411年(応永十八年)、飛騨国司・姉小路尹綱(ただつな)が幕府に反抗し、飛騨で戦乱が起きた。江馬氏との関連は不明だが、飛騨地方にとって大きな転機となった戦乱である。
飛騨国司の姉小路氏は、古川盆地に拠点を置いていた。三家に分裂しており、それぞれ古川家・小島家・向家と呼ぶ。
それぞれ拠点を置いていた地名を名乗っており、飛騨古川を制していた古川家が本家である。
飛騨国司の姉小路尹綱は古川家の当主だった。ややこしいが、尹綱は姉小路尹綱であり、古川尹綱である。
姉小路尹綱は、広瀬氏と結びついて反乱を起こし、飛騨守護京極氏を中心とする幕府軍の攻撃を受けた。
姉小路氏と広瀬氏は籠城したが、一カ月ほどで鎮圧された。
この戦いに江馬氏が関わった記録は残っていない。
無関係ではなかっただろうが、この戦いの結果として、三木氏が益田郡に入部したことが、その後の江馬氏にとっては重要である。
京極氏は、応永飛騨の乱鎮圧の功績で益田郡竹原郷を与えられ、その代官として三木氏が飛騨にやってきたという。
以後、三木氏は勢力を拡張して北上を続け、下呂から高山までを制するに至る。
江馬左馬助と応仁・文明の乱
文明飛騨の乱①三木氏の戦死(1471)
1467年(応仁元年)、応仁・文明の乱が起き、日本中が東軍と西軍に二分される大きな戦乱となった。
以前は「応仁の乱」と呼ばれていた。
しかし応仁年間は短く、応仁三年には文明に改元された。
応仁の乱は11年に渡って続いたが、そのうち8年間は文明年間なので、「応仁・文明の乱」と呼ばれるように変わった。
飛騨でも1471年(文明三年)夏に大きな戦いが起きた。
戦いの詳細は不明だが、姉小路氏の古川基綱・向之綱と三木氏が戦い、その結果三木氏が戦死したことが分かっている。
このとき、古川基綱と向之綱は東軍方、三木氏は西軍方に属していた。
姉小路氏のうち小島家や、江馬氏・広瀬氏の動向は分からない。江馬氏が関わっていたとしたら、古川・向に与していた可能性が高いだろう。
このときに戦死した三木氏は名前が残らないが、三木久頼ではないかと見られている。その戦死に伴い、三木氏は三木重頼の時代に入った。
文明飛騨の乱②山科家領を巡る戦い(1471-73)
飛騨で戦乱が起こると、山科家はこの機に所領の回復を図った。
先の戦いの同年1471年10月、山科家は幕府に書状を出して、このように訴えた。
「応仁・文明の乱が始まる以前、山科家領は小島勝言が代官となっていたが、西軍方の多賀氏に押領されてしまった。幕府には所領返還の訴訟を起こしていたが、応仁・文明の乱が起きてウヤムヤになっているのでその所領を返してほしい」
幕府はすぐに訴えを認めて、西軍方の排除を図った。
古川基綱・向之綱・江馬左馬助に山科家への合力が命じられた。
この戦いは長引いたらしく、翌年1472年(文明三年)になっても解決を見ない。
東軍の総帥・細川勝元は江馬左馬助・向之綱に書状を送り、引き続き協力して戦うよう求めている。
古川家・向家・江馬左馬助ら東軍方の連合にヒビが入る兆候がみられたのかもしれない。
戦いの推移は不明だが、次第に西軍方が盛り返して優勢となっていったようだ。
さらに翌年の1473年(文明四年)には、古川・向が「国中から打ち払われた」と記録がある。
古川・向・江馬氏の連合軍は敗退したようだ。
この戦いの中で、小島家は西軍方に属した。この後も数年に渡って姉小路氏は内紛を繰り広げた。内紛は小島家が制したようだ。
江馬元経(三郎左衛門)の頃
烏丸家領の代官(1484)
江馬氏の中で、史料上最初に本名(俗名)が残っているのは、江馬元経という人物である。
1484年(文明十六年)、江馬三郎左衛門元経は烏丸家領の代官に任じられた。
公家の烏丸家は小八賀郷に所領を持っていたが、山科家同様に押妨に悩まされていた。そこで幕府に遵行を求めたところ、江馬元経が代官に任じられた。
元経は、代官任命を受けて烏丸家に書状を送った。その書状は烏丸家に伝わり、元経自身がサインをしていたものだったので、本名が今に残る。
ところが、江馬元経の名は江馬氏系図に載っていない。
元経が江馬氏の当主ではなかった可能性はある。
江馬氏は、代々当主が左馬助(左馬介)を名乗る…らしい。今のところ江馬時盛以外に左馬助を見かけてないので、後で調べることにする。
元経の名乗りは三郎左衛門だ。
「江馬左馬助」が文明飛騨の乱に参加したのは、元経書状の15年前のことである。左馬助と三郎左衛門元経はおおむね同時代の人と言える。
当主が左馬助を名乗る伝統がこの頃からあったなら、三郎左衛門は左馬助とは別に活動していた一族ということになるだろう。
その一方で、系図の方が間違っている可能性も大いにある。江馬氏系図の信ぴょう性はかなり低いと言われている。
正直よく分からない。
禅僧・万里集九の饗応(1489)
江馬氏にしては珍しく、この時期は記録が多い。
江馬三郎左衛門元経が小八賀郷の代官に任じられてから翌5年後。
1489年(長享三年)、江馬氏の元を客人が訪れた。
禅僧の万里集九という人が、東国歴遊から戻る途中に飛騨に立ち寄った。万里集九は江馬氏下館で饗応を受け、池のある庭園を眺めた。
万里集九は安国寺まで進んだのち、「江馬閣下」に出立を見送られ、荷物を運ぶ人夫と馬を貸してもらった。
この記録は万里集九自身の日記によるものなので、万里集九は敬意を込めて「江馬閣下」と記述している。
江馬閣下が左馬助か三郎左衛門なのか書いておいてほしかったところである。
万里集九の記録は、江馬氏下館に関する記録として唯一のものらしい。このとき、館には池があったことが分かる。
万里集九が飛騨に来たのは五月。
その日程は、
六日 神岡で江馬閣下の饗応を受ける
七日 安国寺へ行く
八日 お風呂に入る
九日 飛騨を出発。江馬閣下が人夫と馬をつけてくれた
十日 美濃に入る
となっていた。
万里集九は、飛騨を出てから一泊二日で美濃まで到着している。
江馬閣下が便宜を図ってくれたのは、高山あたりを出立するときのように思える。
安国寺あたりは江馬氏の勢力範囲に入っていたとするのは考えすぎか。
相国寺への仏銭納入(1490)
万里集九が飛騨に来た翌年、京都の相国寺で大きな仏事があったらしく、有力武士から仏事銭の納入があった。
足利将軍家五千疋、斯波三千疋、赤松千疋、武田二千疋、江馬千疋、大内は国役銭三千疋に加えて香典一万疋。合計二万五千疋=二百五十貫文が治められた。
大内家がぶっちぎりすぎてやや分かりにくいが、江馬氏は赤松・武田らの有力大名と並んでいる。
この頃は、飛騨を代表する武士だったようにも見える。
大内家の記述に拠れば、ここに名のある武士は国役銭を徴収する権限を持っていたのかもしれない。
江馬氏下館の建て替え
15世紀末のこの頃、江馬氏館では大規模な建て替えがあった。
現在、江馬氏城館跡として復元されているのは、このときに作られた館の姿である。
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