若者の自殺予防メッセージ集「9月1日の君へ」を読んで
ここ最近、いくつかの本を読んで色んなことを考えた。
「9月1日の君へ」
「叱らないしつけ」
「しなくていいこと」を決めると、人生が一気にラクになる」
若者の自殺予防メッセージ集と、子育て本と、発達障害など、周りの人と同じようにうまくできない生きづらさを抱えて悩んでいる人たち向けの本と、それぞれ少し毛色は違うけれど、重なる所もあるなと思いながら読んだ。
今日は、代麻理子著「9月1日の君たちへ」について書いてみようと思う。この本は、若者の自殺率が最も高いと言われる9月1日に焦点を合わせ、メッセージが寄せられているものだ。大半は、自殺しようとしている君はおかしくない、社会がおかしいんだ、歳取ると世界も広がり色んなことが変わっていくから生き延びてほしい、というようなメッセージ。漫画家、哲学者、『不登校新聞』代表、精神科医、生物学者、NPOの代表、教育心理学者など、様々な人たちが自分の思春期のことも含めて語っているのがいいなと思った。
人生の目的についての漫画家山田玲司さんの言葉は、まさにそうだなぁと思わされる。人生の目的、と改まって問われるとよくわからず、それが見つけられない自分はダメなのではないか?と不安になったりするけれど、実際に自分が求めているものというのは、そんなに大層なものでなかったりするなと思う。お金も稼げて一般的には恵まれた環境にいた時も、私の願いは、昼はコンビニ、夜は飲み歩きでなく、自炊したご飯を落ち着いて食べたい事だったなと思い出した。
哲学者の小林康夫さんの言葉もそうだなぁと。ここでは、呼吸や姿勢のことが挙げられている。個人的に、昔は本で自律神経の体操とかをみても、こんなに苦しい時になんの意味があるのだろうと思っていたし、頭で考えて解決できるものだと思ったけれど、瞑想の効果を実感するようになってからは、逆に、頭で考えてどうにかできることなんて、ほんとにわずかなんだなと思ったりした。
これもほんとにそうだとしみじみ思う。日本が貧しくなり、社会全体が余裕がなく世知辛く、自分が生き延びるのに精一杯な状況になると、目先の損得ばかりが優先され、子供という社会的に弱い立場の存在に皺寄せがいく。それが社会にどんな影響を及ぼすか、既にかなりひどいことになっていると思うけれど、心から気がかりだ。自分自身も、正社員として働いて育児と両立していた時には、四六時中仕事のことばかり考えていて、子供とゆっくり向き合える心の余裕がない事がとても苦しかった。余裕のなさから子供にキツく当たってしまうことも多く、それも辛かった。
生物学者の本川先生は、生物学の観点から、生物は個体ごとに時間の質が異なる事や、エネルギーの消費量と時間の関係性等をふまえ、私たち一人一人も、個体ごとに時間の流れが異なると言う。現代社会の時間は、スマホやコンピュータなどにより速くなりすぎているけれど、体の時間は昔のままなので、社会の時間が速すぎて、体の時間がついていかない。これがストレスになってのしかかっているのではないかと。これも本当にその通り過ぎる。コンピュータのペースに人が合わせることを強いられ、疎外される場面を、本当によく見かけるようになった。養老先生然り、人間以外の生き物などに目を向けている人の視点は、狭くなりがちな私たちの視野を広げてくれる。
教育心理学・行動遺伝学者の安藤先生は自分自身の苦しかった10代、20代の話や、身の回りの自殺、自死について、非常に丁寧かつ具体的に語っていて、とても心に響いた。
読みながら、自分自身のことを振り返った。自殺について初めて考えたのは、たしか小6か中1頃。文脈は忘れてしまったけれど、友達が会話に挙げて、それまで自殺したいなんて全く考えたことがなかったので、とても驚いた事が印象に残っている。どんなに辛い事があっても、死ぬのは怖いし、痛いのは嫌だなと思っていた。
人生でいちばん辛かった時期の筆頭は中学時代だ。いじめられていたわけでもなく、客観的にはこれと言って大した事があったわけでもなかったけれど、毎日学校に行くのがつらくてつらくて、眠る前に毎晩泣いていた。具体的に思い出せるのは、友達が私を置いて二人で帰ってしまったとか(それも意図してなのか、たまたまなのかよくわからず、ちょっとしたすれ違いのような出来事だったと思う)、運動音痴で部活動についていけないとか、そんな程度の事。中学校というのはそういうものなのだろうけれど、小学校ほど皆のびのびしておらず、男子と女子で別れて行動する事も多くなり人間関係も、小学生ほど流動性みたいなものがない感じがした。休み時間に皆で校庭で駆け回ることも無くなり、暗い色の重たい制服を着て、同じ部屋の中にずっと押し込められているだけで、気が晴れず鬱々とした。ベッドの中で、こんな時間がこれからの人生ずっと続くのだろうかと考えると途方もない気持ちになり、絶望的だった事を思い出す。
高校はもう少し楽しかったけれど、それでも高3の頃、教室移動して受ける選択制の授業で、女の子達がいつも楽しそうに話しながら移動しているけれど、雑談が苦手な私は話す事が思い浮かばず、友達の事は好きだし特に仲間外れにされたりもしていないけれど、なんとなく浮いている気がするのが辛く、その授業のある水曜だけ欠席が続くようになっていった。あと一回休んだら卒業できないくらい、ギリギリの出席日数で卒業した。
大学も、会えば話す友達はいたけれど、示し合わせて一緒の授業を取ったりしていなかったので、お昼ご飯を一緒に食べる友達がいなくて孤独だった。社会人になってしばらくしてメンタル不調になり休職した。その時は、食べられず眠れず、金縛りにあったりしてひどく辛かった。ひたすらに苦しかったけれど、積極的に死にたいと思いはしなかった。治りたいと思った。
コロナの時に、最も親しかった幼馴染が自死で亡くなった。それから気持ちの落ち込みがひどく、抑うつ状態になった。キリスト教関連の本を読んだりしながら、少しずつ立ち直った。
今、自分が死にたいと思わずに生きていられるのはなぜだろう。マイペースな自分を受け止めてくれている家族の存在、数は少なくほとんど連絡も取らないけれど信頼できる友達の存在、身体が弱くてそれほど働けなくても、在宅でほそぼそと働く事ができ、色々と理解を示してくれている会社の存在などが大きいのかな、など思った。自分自身を理解し、あまり無理はしない事、読書やスーパー銭湯など、好きなことをする時間を何とか確保できていることも大事だなと思った。
子供の頃から、客観的には、あらゆる面において比較的恵まれているように見られてきたけれど、だからこそますます苦しかった。子供の頃は、大人が何を考えて生きてるのかよくわからなかったし、自分が大人になれる気もしなかった。学生時代は、こんな自分が将来働けるのだろうかと不安だった。社会人になってからも漠然とした不安が続き、いつまでここでこうして働くのだろう、これからどうしよう、他の人はどんな気持ちで働いているのだろう、と苦しかった。一度鬱で底をついてからはもはや余生というか、浮上するしかないので色々諦められる事も増え、昔に比べればだいぶ楽になった。ただ、子供が生まれると余生とも言ってられず、また色々と大変だけれど。こういった本やnoteなどで、人の生き方や考え方、気持ちを知る事ができると、とてもホッとするし、参考になるなと思った。
子どもたちが死にたいと思わずに、未来に希望とまではいかなくても、日々の暮らしの中で、小さな幸せが感じられるような世の中でありますように。そのために、大人達が余裕なく追い詰められずに、自分の人生を大切にできますように。社会的な問題はたくさんあり、その解決の為に奮闘している人もたくさんいる。私自身は社会的な課題解決を考える事よりも、暮らしの中で目の前の物事にじっくり向き合う事の方がおそらく向いているので、日々の暮らしや身の回りの人との関わりを通して、ほんのわずかでも良き方に向かって行きたい。一人一人の内側にこそ、幸せに生きていく為の鍵がある。辛い時はつい外の世界に原因を求めたり、自分の足りない部分に目がいき、もっと頑張らなければと無理したりしてしまいがちだけれど、そういう時こそ内に深く潜る。ほんとうに、人生は青い鳥だなと思う。他でもない自分こそが、自分がこの世に生まれてきた事を慈しみ、この世を去る時まで、思う存分、自分の魂のようなものを喜ばせていきたい。
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