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何者かになるという呪い

もう輝かなくていい

もう夢はないし、輝かなくていい、とインタビューで話した。私の周囲には、この言葉にモヤモヤする人がいるだろうなと、思っていた。

案の定というか、「もう輝かなくていいと言っていたけれど、本当はどうなの?これから何がやりたいの」と早速、ある人から聞かれた。
多分私は何か行動するのだろう、という期待から発してくださったと良い意味で理解をしている。

ただやっぱり、輝かなくていいという発言が、やる気のなさや諦め、現状への満足。そういったものにつながってしまうのかなと感じた。

私が一体何をしたら輝いていると判断されるのだろう。母親を卒業して、頑張ってると評価されるのだろうか。

例えば私が起業したり、子育て支援のNPOでボランティア活動したり、それこそ子育て講演会でもして全国を回ったり、そういう活動をすれば輝いていると言えるのか。

子育てをネタに講演会などすれば、いつまでも子供をネタに稼いでる子離れできない母と言われるだろう。はっきり言って自虐でもなんでもなく、社会の中で私の評価など、派遣社員で中途半端に働き、自分には何の能力もキャリアもないくせに、子供の自慢話をする母親だ。

私は私になる

生きていてくれさえすればいいよ。
あなたはあなたのままでいいんだよ。
あなたは生きているそのことに価値があるんだよ。と、母親は子どもに伝えなければいけない。

一方で、私は何の価値を求められているのか。
それが母親になったことに対する最大の怒りでもある。
良い母親であれ、と同様に、私たちは何者かにならなければいけないという呪いをかけられている。

誰にも認められなくていい。
今ここに存在する自分を認める。
輝く必要はない、夢がなくてもいい。
わたしはわたしでいるのだ。