ひとの言葉に囚われてきた私
ひとの言葉に驚いて一歩も動けなくなる時がある。
校長先生から「こういう子供が犯罪者になる」と言われたとき。
家庭訪問に来た担任から「お母さんは部屋の掃除ばっかりしていないで、もっと子どものことを見なさい」と言われたとき。
異才発掘プロジェクトで「なぜ彼を高校進学させるのか。お母さんは息子さんの邪魔だ」と言われたとき。
高校の配慮申請で「君のような生徒はリスクになる。さっさと帰りなさい」と言われている息子を見た時。
息子をなんとかしなくちゃいけないと使命感や善意から出た言葉なんだろう。その全てが間違っているとは思わない。でも、私はうまく消化できなくて、未だに思い出して泣いてしまうこともある。
最近、ある人が、息子に激しく放った言葉に、しばらく囚われていた。
「中途半端な英語力で勉強を続けても意味がない。君の障害のことなんか知らない。日本人なんだから日本に帰って勉強しろ。」
息子は中学を卒業して、インターナショナルスクールに編入した。英会話ができるのと、英語で学ぶこととは違う。その意味は、勉強を重ねれば重ねるほど身にしみてくる。例えば日本に来たばかりの外国人が、高村光太郎の「レモン哀歌」をどこまで理解できるんだろう?とふと考える。
幼い頃から培った言語感覚があり、社会的背景を知っていて、その土地(レモン哀歌なら智恵子の故郷である福島の安達太良山)を連想できるかどうか。それを知らずにうまいコメンタリーは書けないと感じる。詩は韻を踏むなどのレトリックがあるから尚更難しいと思う。
IBは理系だろうが文系だろうが関係ない。理系でも英語でマクベスを読み、エッセイを書く。物理、化学、数学、経済…、次から次へと課題が出され、息つく暇もない。息子は毎晩、夜中の3時4時まで勉強し、雄叫びをあげている。
編入時期が悪く抜けてしまった単元を埋めるため、通い始めた数学の塾で、日本人講師は息子に苛立ちを感じていた。彼は日本人なのに、日本人の僕に英語で話しかけるとか、数学をやたらと物理や他のことに応用できるか聞いてくるとか、終了時間や提出期日をしつこく聞いてくる、とか理由はそんなことだった。例のごとく「先にお母さんと話したい」と呼び出され聞き取りがあったので、嫌な予感はあった。
「君は9割の子が伸びる教え方で、ダメなタイプだ。今の君に良い成績なんか出るはずもない。良い大学に入れるわけがない。理系に進んで成功するのは数パーセントしかいない。僕は君よりもっと優秀な人をたくさん見てきた。頑張って、まさかスーパーマンにでもなるつもりか?君より優秀な生徒だって、結局は日本の高校に編入して日本の大学に入った。日本人は日本語で勉強できるんだから日本語で勉強しろ。」
この言葉の真意はなんだろう?いわゆる挑発か?もっと本気になって頑張れってやつか?
悔しいのは息子のはずなのに、混乱して泣いてしまった私を見て、それまで黙って話を聞いていた息子が言った。
「それでも僕はいまの勉強を続けます。だって楽しいから。あなたの言う通り失敗するかもね。でもこの経験が無駄になることはありません。何よりあなたが僕の未来を決める必要はありません」
その言葉を聞いて、そろそろ私は人の言葉に囚われるのはやめようと思った。彼の未来は彼にしかわからないし、彼は多分大学に入るために勉強しているわけじゃない。だからこの先にどんな未来があったとしても、失敗や後悔があったとしても、それは彼自身のものだ。
「助言には2種類あるよね。自分の経験値から自分が正しいと信じることを相手に強いる人の言葉。相手を観察して相手の立場に立って考える人の言葉。たとえ前者の言葉が善意であっても、言わずにはおれない類のもので自己完結しているから真剣に聞く必要はないと思うよ。お母さん、僕みたいなタイプは幸せになるから大丈夫よ」と言う息子を見て、大人になったんだなぁ、と思う。そしてこの先もずっと苦労するんだろうな、と思う。