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『国体論はなぜ生まれたか 明治国家の知の地形図』米原謙著 を読んで
アート・ペッパー というサキソフォン奏者とマイルス・デイビスのサイドメンが共演している、というアルバムのこの曲を聴きながら。なぜこの曲に出会ったか、というと、マイクル・コナリーのハリー・ボッシュシリーズにハマっていて、主人公ロサンジェルス市警ハリウッド署在籍の刑事ボッシュがサキソフォン奏者が好きでよく作品中に紹介される。できるだけ作品の雰囲気を知ろうと、演者の名前や楽曲名があるとユーチューブで検索して聴くようにしている。過去の読書ではほぼありえなかったやり方だ。便利な世の中になった。
ついで…というより確信犯的に、この作品群についてメモ書き程度、ネタバレをなるべく防ぐ形でここに記しておきたい。今のところ24シリーズあり、正直いって完結しているのかどうか、その情報は押さえていない。継続していたらありがたい。この作品群にハマっているのでこれを読んでくれた人たちにオススメしたい、という理由からこうして書いている、というのも大きいが、それ以上にこの作品には通底している「哲学」とでも言おうか、あるイメージをもって著者は書いていることを感じ、それに触れている気がしたからだ。で、現状読み進めているところまでの私の認識をしたためておく。
第1作目『ナイトホークス』1992年刊行。
タイトルは引用した絵の題からとっている。とはいえ、これは邦題であって、現代は『The Black Echo』であり、こっちのほうが確かにシックリくる。なぜならこのブラックエコーというのは、ベトナム戦争時ベトナムゲリラ兵は地下にトンネルを張り巡らしており、アメリカ軍はこのトンネルを爆破するためにまず工兵に内部に潜入させる。真っ暗な穴のなかで様々な音を聴くことになる。それは戦争が終わっても兵士だった者の心をとらえて離さない…主人公ボッシュもかつて、若者だった頃ベトナム戦争に加わり、工兵だった。そして、その工兵仲間がダム付近のトンネルで死体となって発見されることから、壮大なシリーズは始まる。
第2作目『ブラック・アイス』1993年刊行。
ボッシュは子どもの頃、父親を知らずに施設で育ち、養父母をかえつつ転々としていた。そんなボッシュが一度だけ訪れた実父との思い出が、事件の成り行きが進むにつれてリンクしていく。
第3作目『ブラック・ハート』1994年刊行。
ボッシュがかつて解決した事件が、実はちゃんと解決していないのではないか、とストーリーが進むと気付くようになっている。
第4作目『ラスト・コヨーテ』1995年刊行。
ボッシュは施設で育ったのだが、母親はいた。しかし、娼婦であったため施設に引き取られることになった。そしてボッシュが11歳の時に母親は殺される。長らく未解決事件だったその殺人事件を、刑事となったボッシュが停職期間を利用して解き明かそうとするのがこの作品。
第5作目『トランク・ミュージック』1997年刊行。
1作品目で知り合い、愛し合った女性が再びボッシュの前に現れる。
ここまで書いて、私は2作品目の途中くらいで思い至った。この一連のシリーズは、ボッシュが抱えてきた、しかし顧みなかった「過去が怪物のように追いすがってくる」そういう構造を持っている、と。ベトナム戦争、実父、過去携わった事件、殺された母、過去別れたはずの女性…それがジャズのように小気味よいテンポで、通底するテーマはありながら様々な出来事がアレンジされてゆく。個人的には5作品目の最後がハッピーエンドだったので、これでシリーズ終わったら大団円だったのにな、とは思ったものの、そうは問屋がおろさないw とはいえ続きを読みたいという願いもあったので続きがあるのはうれしい限りなのだが。当時の読者もそうだったのだろう、あとがきで訳者がマイクル・コナリーに続編はないか、と手紙を送ったほどの熱狂的読者がいたのはうなずける。それに、この時点まで読んで振り返るに、やはりボッシュにはハッピーエンドは似合わないんだよね。そこで6作品目以降はどうなるのか?さらに過去が追いすがってくるようなテーマが続くのか?
で、第6作品目『エンジェルズ・フライト(堕天使は地獄へ飛ぶ改題)』1999年刊行。
過去が追いすがると言うより「過去との決別」を私は意識した。強盗殺人課というボッシュがかつて所属した花形部署の人間とのことが出てくるので過去と言えば過去なのだが、それよりも、ボッシュにとって大切な幾人かとの別離のほうが私には印象強く残った。「追いすがってきたはずの過去がその足を止めた」「降り続いてきた過去という名の雪が、はた、と止んだ」という感じ。ただ、そのかわりと言っては何だが、これまでの5作品で、ボッシュという作中人物の人生の過去にスポットが当たるのだが、この作品と、少なくとも次は、マイクル・コナリーという作者が著してきた過去の別作品にスポットが当たっていく、そう読み取れるのが楽しい。この6作品目でも殺人現場の近くで、『ブラッド・ワーク』の映画宣伝ポスターが描写される。これは実際、2002年にクリント・イーストウッド主演で映画化された、原作は当然マイクル・コナリーである。1999年当時はまだ映画公開されていないが、映画化の話はあったので、別に6作品目に出てきても不思議ではない。
第7作品目『夜より暗き闇』2001年刊行。
そしてこの7作品目、主人公は何と!『ブラッド・ワーク(小説のタイトル邦題は『わが心臓の痛み』)』で主人公をつとめたマッケイレブ元FBI捜査官!…だけではボッシュシリーズではなくなるので、もちろんダブル主役になるw で、実はまだこの上巻を読み終わったばかりなので、私自身現在進行形でこの作品に取り組んでいるのだが、まだまだシリーズへの熱は冷めない。で、この殺人事件には上に引用したヒエロニムス・ボスという15世紀の画家の作品が関係してくるのだが、ボスという名前ではなく、ボッシュといえばおなじみだろう、そう、ハリー・ボッシュというのは通称の部分があり、本名はこの画家と全く同じ名前、という名前そのものが作品に関わる。そういう意味では過去…なのかもしれないけれど、それよりも著者のマイクル・コナリーは彼自身の作品やプロットを惜しみなく表に出してコラボさせている、という印象のほうが強い。その証拠に、彼のそれまでの別作品『ザ・ポエット』に出てきた新聞記者がこの作品でも登場する。ので、私は次は第8作目に行く前に、この『ザ・ポエット』を読もうと考えている。
いったん休憩。去年から飲み始めた「よもぎ茶」とルイボスティーを混ぜたものを飲む。よもぎの成分がガンに効く、らしい。母がガンで亡くなり、父も以前胃がんにかかったことがあるので、なんとなく抗がんと聞くと手を出してしまう。人間死ぬまで生きるしかないのだから、いつ死んでもいい、と思いつつ、ね。これに、腎臓か何かに良いということでレモン果汁を混ぜたりするのがマイブーム。私の家の窓から富士山がみえる。冬の富士は雪をいただいて屹立とした様が際立って美しい。
山川草木悉有仏性、という言葉が頭によぎる。これは八百万の神がいるという日本のアニミズム神道への崇敬の念とリンクしている。神仏習合が日本で進んできたのも納得だ。この場に生きていること、生かされていること、人間五十年、それは来し方を寂寞とした観点から振り返るのではなく、今、ここにある、その感謝をかみしめることができるようになるのに必要な、雪のように降り積もる歳月ではないか、と私は思う。しん、と心を静かにする。
この感謝の念は、愛郷、愛国心ともリンクするだろう。かつでそれを、「国体」への想いという形で昇華した人たちがいた。ここでようやく本題である。
米原謙『国体論はなぜ生まれたか 明治国家の知の地形図』を読み始めた。興味深いのは、国体についての最近の本で(この本は2015年初版刊行)、白井聡さんのものにせよ、これにせよ、北一輝が引用されていることだ。熱狂的支持を受けた人とはいえ、当時の学界にはほぼ受け入れられていないはずだが
— つっつぅ (@aoi_soma) September 11, 2024
自分のX上にポストとして読んだ書籍の感想を書いたりしているのだが、ポストに加えてnote上にもある程度感想を残しておいたほうがいい、と考えているので、もしかしたらここしばらくはここでの記事が増えるかもしれない。で、ポストに『国体論はなぜ生まれたか』について書いてあることをこちらでもちょっと紹介すると、日本は「国体」と「政体」をわけて考えた。今の自民党も同様の主張で、それは吉田茂がそう言ったから。しかし、私は前の戦争で負けた時点で日本はいったん滅んだのであって、天皇がいきて皇統が続いてるから国体は残っているから日本は滅んでない、という吉田茂の言い分は言い訳にすぎない、と考えている。大日本帝国憲法下にあった政体は滅んだけど、天皇がいきてるからそれでオールオッケーってのは欺瞞に満ちてるんじゃないか、と。で、なぜ、いつから国体と政体をわけて考えるようになったの?を解き明かそうとする。で、国体っていつから使われるようになったの?から入る。それは荻生徂徠とか新井白石が、中国とか当時の外国と外交しようとしたときに、日本の立場を表明する際にそれこそ「国柄」といった軽い意味で使い始めた…。で、ここから実際のこの著書から引用を始める。
P60-61
「国体」は、まず近世儒学や国学が対外関係において「天朝」の存在を意識したときに使った語であり、ペリー来航によって急速に一般化した。その決定的契機となったのは、対外的危機を意識して書かれた会沢正志斎『新論』で、会沢はキリスト教の政教一致体制に対抗する日本独特の祭政教一致体制を「国体」と呼んだ。しかし幕末の政治文書で広く使われた「国体」にはそのような一義性は存在せず、むしろ国家の体面、国家の独立、日本の独自性、万世一系の皇統の存在など、多様な語義が込められていた。その融通無碍の概念の抱擁性が、強制された開国という屈辱を、日本の独自性の意識によって補償しようとするナショナリズム意識を表現するのに好都合だったのである。
「国体」という語が成立する背景には、幕府と朝廷という二重の権力/権威体制が存在した。この二重体制は、いくつかの段階を経て、朝廷のほうに重心が傾いていった。まずペリー来航である。既述のように、これを契機に朝廷の文書に「国体」という語が出現する。それまで武家・公家の叙位や神社の社格授与、歌会や新嘗祭などの儀式の挙行、寺社への病気平癒祈願などが天皇のルーティンだったが、これ以後、国家独立が「叡慮」を煩わす問題として浮上した。「国体安穏」を七社七寺に祈願する天皇の姿は、国家と国民の動向に関心を寄せる新たな天皇像の出現を予告するものだった。
第二段階は安政五(1858)年である。老中堀田正睦が上洛して通商条約の勅許を得ようとしたが、孝明天皇は頑なに拒否した。言葉を尽した説得が失敗した幕府は条約調印を強行し、天皇のほうは譲位をちらつかせながら抵抗した。そして「戊午の密勅」によって、天皇は公武合体という本来の意に反して尊王攘夷派を激成させ、結果として「国体」という言葉を尊王攘夷的ナショナリズムのキーワードにしてしまうのである。
第三段階は文久三(1863)年から翌年にかけてである。将軍・家茂は230年ぶりに上洛したが、天皇は幕府への大政委任を部分的に否定するかのような言辞を用いた。そして翌年には、将軍と大小名はともに天皇の「赤子」であるとする宸翰が発せられた。文久四年の宸翰は、孝明天皇自身の意図を超えて、論理的に討幕を含意せざるをえなかった。そして現実の政治過程は、その論理通りに王政復古へと突き進み、「祭政一致の御制度に御回復」との宣言が出された。もしこの理念がそのまま実現していたら、天皇が政治と宗教の両権力を体現する政教一致体制となるはずだったが、それは実現するはずもなく、妥協策として、憲法による信教の自由と教育勅語にもとづく疑似的な政教一致体制が発足した。いわゆる国家神道である。「国体」はこの疑似的な政教一致体制を象徴する語となった。しかし本章が論じたように、この語には近世以来の歴史が込められていたので、国家的な危機が亢進したとき、真正の政教一致(すなわち天皇親政)への情熱が、この語を合言葉にして奔出してくることになる。
P63-64
政治思想としての国学を考えるとき、その骨格は賀茂真淵(1697-1769)と本居宣長(1730-1801)によって形成されたといってよいだろう。その特徴を単純化していえば、激しい儒仏(とくに儒教)批判と「神の御所為(みしわざ)」に対する徹底した受動性である。たとえば賀茂真淵『国意考』は、すべての人間たるものが「いつくしみ」「いかり」「理り(ことわり)」
「さとり」などの感覚を持っていると主張し、それをことさら「仁義礼智」などと名づけるのは愚かなことだと説く。
(略)
こうした考え方は宣長においてさらに徹底された。宣長は、神羅万象すべては「神の御所為」で「奇(くす)しく妙(たえ)なるもの」だから、人知によって測り知ることができないと考える。(略)儒教は他国を奪うか、奪われまいとするかを意図しているにすぎないなどと、宣長はしばしば底意地の悪い批判を展開しているが、それは彼の目指す「学問」が儒教とは対極にあることを強く意識しているからである。宣長は『玉かつま』の有名な一節で、「道」とは「生れながらの真心」であると揚言している(大系㊵25頁)。そこには「万の事の善悪是非」を弁別し、「物の理」を究めようとする「漢心(からごころ)」を克服しなければ、本当の「道」にたどりつくことはできないという強い意志があった。それは『古事記』をはじめとるす古典の記述を字義通りに信じるべきだという信念である。
P69
宣長は、自己の理想の実現を「五百年千年の後」に期すべきだと述べた。この自己抑制こそが国学というディシプリンを成立せしめたのである。宣長は記紀などに記述された神々の権力と性をめぐる放縦ともいえる行為をそのまま容認し、それを「神の御心」として神聖化すらした。もしこのような精神が現実の政治権力と結合したら、そのようなことが起こるかは自明である。正義と悪は恣意的に弁別され、権力者の行為は正しく、それに反するものは悪ということになるだろう。宣長の国学は政治思想に転轍されたとき、シニシズムに堕してしまう危険性を包蔵していた。宣長がそのような逸脱を犯さなかったのは、政治に対するかれの禁欲(あるいは無関心)によるだろう。
P76-77
イザナギとイザナミの国生みに典型的にみられるように、万物の生成を生殖行為の比喩によって理解するのは、記紀の叙述そのものにもとづいている。しかし字義どおりに理解することを厳格に固守した宣長は、表象による意味の飛躍に禁欲的だったので、片言隻句を生殖に結びつけるようなテクスト解釈はしなかった。これに対して(平田)篤胤は、前記の「一物」や「情」の解釈でもわかるように、記紀の叙述のなかに好んで性的表象を読みこんでいる。読者を辟易とさせるような卑猥な表現を衒いもなく使うのは、国学者の著述に広くみられるが、そうした傾向は篤胤によって強まったのではないだろうか。たとえば生田萬(よろず)は、篤胤の記述を受けて、「葦牙」のようなものの形状は「女陰の毛に似てやありけむ」と大まじめに書いている(「大学階梯外篇」、生田①485頁)。かれらの想像力の卑俗さに苦笑するしかない。ともあれ、このような古典解釈には明らかに篤胤の人間観と神観をみることができる。注目すべきは、篤胤が構想した神々はきわめて人間的で「恥べきことは恥給ひ、恨むべき事は恨み坐(まし)ける」存在と意識されていることである(「古史伝」、平田①238頁)。宣長の神は人間の解釈を峻拒するような不可思議な存在で、もっともらしい推論をすることは「漢ごころ」として排斥された。これに対して、篤胤は神々を人間と近接した存在と考えることによって、独特な神学的傾斜を強めたといえるだろう。
さらに篤胤によって描きだされた天(あめ)・地(つち)・泉(よみ)をめぐる世界像は、『古事記』のテクストに縛られた宣長よりもはるかに明快である。たとえば『古事記』では、「黄泉の国」から帰還したイザナギが禊をしたときに生まれるのはアマテラス・ツクヨミ・スサノオの三神で、かれらはそれぞれ「高天原(たかまのはら)」「夜之食国(よるのおすくに)」「海原」を支配するように命じられた。これに対して『古史成文』(第26段)ではスサノオはツクヨミの別名とされ、アマテラスは「高天原」、スサノオは「青海原」の支配を命じられる。篤胤は「青海原」が地球をさすと解釈し、天と地がこの二神によって分割統治されることになったと説明する。その後、スサノオはイザナギの命に反して、最終的に母の居場所である夜見国に落ちつき、イザナギは高天原の「日之若宮」に鎮座することになるので、高天原=太陽はイザナギ(男)とアマテラス(女)、夜見国=月はイザナミ(女)とスサノオ(男)が支配すると説明される。明らかにここには、イザナギ/イザナミ、アマテラス/スサノオという対が、男女の対と組み合わされている。つまり地球と対照される太陽と月という二つの世界が、男女の対をなす神々によって文治される斉一な秩序が描出される。
P80
人の霊魂は、死後、黄泉の国に行くというのが宣長の教説だった。篤胤はこれを明確に否定する。篤胤の考えでは、幽世は現世にいる人間からは見えないが、現世と同じ次元に実在する。死後の魂は、社や祠などに祭られている場合はその建築物のなかに、そうでない場合は墓の辺に、神々と同様に消滅することなく永遠に鎮座するという。篤胤は死者の霊が生者の生活をつねに守護していると考えることによって、死者と生者との垣根を限りなく低くし、生者による死者の祭祀を義務づける。これが篤胤の神道の根本的動機をなすと考えてよい。
P85
国学や神道が庶民の教化を主題とするかぎり、仏教と儒教をライバルとして意識したのは当然だろう。しかし幕末国学の儒仏批判は、宣長がしたような学問のあり方に対する全的な批判ではない。幕末国学は基本的に孟子に象徴される暴君放伐論を批判して、「君君たらずとも、臣臣たらざるべからず」の君臣の大義を強調した。したがって「天下は天下の天下」とし、「国をそしり、君王を軽しめ」る儒者の態度や、「仁義だに行へば卑しき夷も忽(たちまち)王に成(る)」ような中国の道徳を排斥して、「無上至尊の真君の大恩」や「位をもととして姓氏正しき家の徳にて、つぎ給ふ」ことを原理とする「国体」が強調されたのである(鈴木雅之「撞賢木」(『神道大系 論説篇27 諸家神道(上)』436頁)、伴林光平「於母比伝草」(伴林77頁)、長野義言「沢能根世利」(大系51、444-445頁)を参照)。仏教批判も、本地垂迹説が日本の神々をないがしろにしていることが批判されて、「仏菩薩こそ神の分霊」として、神道優位による仏教受容が主流となる(大国隆正「斥儒仏」、大国④167頁)。「天神は厚く生成をおもはしめすこころ」だから、人間たるものは「生成」のために力を注ぐべきなのに、仏教が出家を説くのは「生成の天職を廃るもの」とする鈴木雅之「撞賢木」の仏教批判も、正面切った攻撃ではない(『神道大系 論説篇27 諸家神道(上)』438頁)。むろん仏教の来世観と篤胤に始まる顕幽論には大きな差がある。しかし六人部是香の「産須那社古伝抄」のように、「不忠・不義・不慈・不孝」な人間が死後に送られる「凶徒界」の思想は、端的に仏教の地獄を連想させる(大系51、226頁。なおここで六人部は珍しくオオクニヌシの役割に言及している)。
P93-
そもそも幕末の国学が、一方では儒教を換骨奪胎してその徳目を我が物とし(しばしばそれが日本古来のものだと強弁するために労力を使いながら)、他方では万世一系の天皇の存在を突出させたのは、なぜだろうか。幕末の国学者たちは、対外的危機と国内における秩序の弛緩に直面し、日本の優位性と現秩序の正当化、さらには庶民の動員という課題に立ち向かわねばならなかった。しかし国学が典拠とした記紀神話は、けっして道徳や秩序を導きだすのに適した内容ではない。記紀が天皇の系譜と統治の正統性を弁証するために編まれたことは疑いないが、神話の神々は欲望に満ちており、初期の天皇をめぐる物語も道徳的とは言いがたい。神話にみられる欲望の横溢は、むしろ秩序感覚を掘り崩すものだったはずである。かれらが直面した問題の様相を示すために、ここで佐藤信淵が書き遺した「坑場法律」をやや詳細に検討したい。
「坑場法律」は金銀などの鉱山の運営方法を説明したものである。しかしこれは単なる産業振興策ではない。信淵が構想したのは、外からの権力の介入を排除した小独立国とでもいうべきもので、そこでは専制的な鉱山経営者(山主)が祭政一致体制のもとで、細心の配慮にもとづく統制経済と「特立の政事」(佐藤(上)597頁)を運営することになっている。信淵が構想した鉱山は17の部署からなる。かれは「坑場法律」でそれを「十七憲法」と呼んで、順にその役割の説明している。主要部分を紹介しよう。
構想された鉱山は、特別な祭礼などの場合を除けば閉鎖された空間である。境界は囲いによって堅固に外界から隔てられ、門は複数あるが、通常は一つしか開いていない。貨幣の鋳造や罪人の処罰も独自の制度によるとし、山主の徹底した権威主義的統治が想定されている。鉱山は食物を生産しているわけではないので自給自足ではないが、必要品の購入は「料理所」などの担当部署が独占的におこない、居住者はその部署からしか物品を購入できない。このように食料品、酒、日用品、薬など、あらゆる物品は担当部署の専売になっており、山主が利潤を得る仕組になっている。働くために外の世界から入山する者に制限はないが、信淵がとくに想定しているのは犯罪人や「欠落者」と呼ばれるアウトローであり、かれらはいったんここに逃げ込めは、もはや外の権力から追及されることはない。つまりこの鉱山は「公政不入の地」であるが、外に出るには許可が必要とされる収容所のような場所である(同上597頁)。
信淵の構想のなかで注目されるのは、かれが欲望の発散と秩序の維持とに大きな関心を払っていることである。「料理所」は文字通り食事を提供する場所だが、揚屋を兼ねており、料理所の右隣は「日和会所」と呼ばれる賭場で、料理所の左隣は「常番所」をはさんで「歓楽所」がある。歓楽所はいうまでもなく売春宿で、信淵の表現によれば「客人を悩す事を修練」して揚屋に出張するか、歓楽所で客を取ることになる(同上641頁)。これらの施設の真ん中に置かれた常番所は、秩序の紊乱を防ぐための役人が常駐する部署である。料理所の責任者は「悪娘(おいらん)の揚り」や山主の妾などで、下女は「利発にして極て柔和なる、酒に強く、即知の計ありて能く客を悩す事の出来る」20歳未満の女性でなければならない(同上640頁)。なぜなら「如何なる堅き男にても年少き女子の物軟に愛敬深くやさしきには心を悩ざる事を得」ないからだという(同上641頁)。ばくちや売春の顧客は鉱山の居住者だけではない。とくに期待されているのは、特別な祭礼のときに訪れる外来の金持ち(信淵は「山の福神」と呼ぶ)である。つまり娯楽施設は、外来の客をもてなして利潤をあげることが目的になっている。
しかし鉱山の中心をなすのは以上のような娯楽施設ではない。十七の部署の中心をなすのは「政事所」で、場所は入口の門のすぐ傍らの山主の居宅である。門から一歩入れば「内は山主の一国成敗」で、万事は「山主の心次第」とされる(同上600頁)。では山主はどんな人物だろうか。少し長いが、そのまま引用しよう。「山主たる者は智慮深く、外貌は甚だ愚に、行状は放蕩にして、内心は甚だ倹に厚く、施を好て勘定高く、勇豪にして甚だ涙軟く、衆の楽を楽み衆の憂を憂ひ、慈悲甚だ深くして罪ある者を赦すことを好、己は諸事の要ばかりを握て、人に骨を折せ、気に入りの人と云ふも無く、気に入らぬ人と云ふも無く、兎に角に人々悪事を行ふことの絶て出来ざる様を専ら務むべし」(同上600頁)。まことにマキャベリの君主にも匹敵する統治者像である。
山主の主たる仕事は祭祀の実施で、信淵は山主がおこなう年中行事を詳細に説明している。「政事所」の記述が全体の半分近くを占めることからもわかるように、信淵の秩序構想は以下のような祭政一致体制が根幹になっている。まず1月1日をはじめ、毎月1日と15日は「山の神」の祭礼がある。山の神はこの鉱山の産土社にあたるもので、月2回の祭礼の前日2日は祭壇に供える猪などの狩猟に費やされる。「山神社」の入口に鳥居があることでもわかるように、山の神の祭祀のほか、冠婚葬祭の儀式はすべて神道でおこなわれる。山主はこれ以外にも多くの祭礼を主宰しなければならない。1月4日は大黒と恵比寿の祭礼があり、8日以後は部署ごとに鍛冶神、大山祇の神、金山彦神などの祭祀が次々とおこなわれる。歓楽所の傍らには「愛敬稲荷」があり、2月の初午の日と8月の最後の午の日にここで稲荷祭がおこなわれる。3月15日の山の神の神事は桜花祭と呼ばれ、坑場の外から多くの参詣客がある。前述した賭場や売春宿はこのときに繁盛するというわけだ。6月と7月の納涼の花火会、9月の紅葉会にも、坑場は同様な賑わいを見せることになっている。8月1日の山の神の神事は「新嘗」なので、供物も多く格別な祭礼とされる。10月20日からは各部署で恵比寿講が催され、11月には風箱(ふいご)祭で羽鞴(はふき)の神、12月には炭竈(すみかせ)祭で火之焼彦神と埴安(はにやす)姫神への祭祀がおこなわれる。最後に12月29日、山の神祭祀の準備のために山主は例によって猪猟に出るが、その前に有罪者に対する処断がおこなわれ、猟に出る前の「血祭」として村内引き回しの後で斬首が実行される。
以上が異色の国学者が構想した逆ユートピアである。ここでは人々の欲望の発散と権力による制御が、包み隠すことのないリアルさで描きだされている。神々の祭祀が生活の重要な要素をなしているが、信淵には住民を祭祀に動員するという配慮はあまり見られない。むしろ人間を(とくに性的な)欲望の塊のような存在とみなし、それを遠慮のない露骨さで描きだすとともに、他方で祭祀の秩序正しい実践を社会の不可欠の要素としたところに、国学者に共通な精神構造をみることができる。
(略)儒教が説いた禁欲を批判する言辞は、すでに本居宣長にあった。平田篤胤は宣長の欲望や感情の自然性をそのまま肯定する傾向を制御し、オオクニヌシによる審判と儒教徳目の需要への突破口を作った。幕末の国学者はこれを受けて、忠孝や夫婦の愛情を中心に儒教道徳を通俗化して、庶民に規範意識を育成しようとした。しかし忠と孝、夫婦の愛情と男尊女卑、貞節と密通・再嫁など、欲望の肯定と禁欲のあいだには必然的に矛盾や葛藤が生じる。幕末国学は記紀の様々なエピソードの恣意的な援用によってそれを切り抜けようとした。かれらがしばしば便宜的に欲望を肯定しつつ、他方で秩序への服従を説くのは、記紀神話の援用という方法と秩序意識の形成という目的の間に断絶面があるためである。かくて大国隆正は物事には正道・権道・邪道があると説き、女性にとって正道は「両夫にまみえず」だが、権道としての「再嫁」を良しとし、「密夫」は邪道だと排斥する。宮負定雄「国益本論」は、堕胎・仏教信心・神道の禁忌に無視を批判して、以下のように論じた。「男と生れて男根の備り在る上は、男女の情を通じ、子孫を生み継ぎ、世に人民を殖せとの、神の命令を奉りたる印にして、坊主になれとの事にはあらず」(大系51、295頁)。ここでは「男女の情を通じ」ることが「神の命令」として弁証されている。幕末国学が欲望の解放と秩序意識の形成という綱渡りを演じたことが納得されるだろう。
幕末の国学は、篤胤の神学の根幹にあるオオクニヌシの役割を骨抜きにすることによって、それを世俗化させた。オオクニヌシの存在感が希薄になれば、万世一系の天皇が浮上する。本来、「顕明事」にしか関与できない天皇は、篤胤の神学ではきわめて限定的な存在にすぎない。篤胤の主たる関心は「幽冥事」にあったのに、幕末国学は関心を現世に移し、現世での禍や不幸は神への信心の不足とし、さらにそれを暗々裏に天皇への忠誠心と結合さえた。換言すれば、そこでは自己の職業への研鑽や儒教的な徳目の実践を通じて、最終的にはアマテラスとその子孫である天皇への忠誠が説かれている。
P120
明治3年8月、(略)岩倉(具視)は「建国策」と称される文書を提出している。日本の国体は「宇宙間決シテ其等倫ノ国」(実記(中)826頁)のない卓越したものであると論ずるとともに、郡県制の採用や財政の安定など15項目にわたって今後の方針を述べたものである。この「建国策」の草稿が「国体昭明政体確立意見書」で、国体論や「宣教ノ大意」について、「建国策」にはない詳しい叙述がなされている。「大ニ宣教ノ大意ヲ明ニシ兆民ヲシテ普ク惑イナカシムベキ事」という部分だけを一覧しておこう。ここで岩倉は、いかにも平田派国学を想わせる言葉遣いで以下のように述べる。「神明之善不善ヲ見ル、能ク秋毫ヲ折ッテ一ツモ違フ所ロナク、人間遂ニ神明ヲ欺ク不能」(関係文書①341頁)。(略)平田篤胤はオオクニヌシに死後の審判という特別な役割を与え、現世のすべての出来事を見通していると論じた。岩倉のいう「神明」はまさにそうした神観念を想起させる。「人民ノ神明ニ於ル敬ヲ致シ誠ヲ格シ自ラ欺クベカラズ。是以テ幽顕 神人之理豪モ不相違」(同上)。すべてを見通している「神明」を人は欺くことはできず、ただ誠実に生きることを心がけるだけである。ここでは現世と来世は同じ原理で貫かれ、人は神を敬い現世の道徳に忠実であろうとする。
むろん政治はこのような「神明」の意味を諭すことによって、現世の生活を安定させ、庶民を善良で道徳的生活に導くことにほかならない。「至尊ノ政ヲナシ玉フモ 神明ノ幽冥ニ照シ玉フモ、其帰一スル所億兆蒼生ヲ済拯(さいじょう)シ至善之域ニ至ラシムルノ事ノミ矣」(同上)。つまり天皇が現世において政治をおこなうのは、神が来世において死後の審判をするのと同じで、人民を「至善之域」に導くことである。だから神を敬い祀ることが政治の中心ということになる。祭政一致とはこのことである。これが「幽道ヲ論ジテ顕事ヲ軽ジ妄リニ福音ニ馳セテ以テ政体ヲ蔑如ス」るキリスト教徒とは、根本的に異なるところである(関係文書①342頁)。
岩倉が幕末から構想していた「王政復古」は、平田派の復古神道と深い所で結びついていたことを、この「幽冥」観は示している。岩倉は政治家として行動するとき、そのような地肌をそのままさらけだすことは少なかったが、かれの心裏には平田派国学者に共感するような素地があった。提出された「建国策」とその草稿「国体昭明政体確立意見書」との落差は、そうした事情を示唆している。
137ページから、立憲制を維持しつつ、天皇親裁の体裁をとることができるか、岩倉具視や侍補である元田永孚と佐々木高行の動きが紹介。1878年頃、明治天皇が北陸東海地方を巡行した際、状況を報告された天皇は、帰京後に岩倉具視に対し、「勤倹」を「興国」の基礎とすること、教育における「本邦固有の道義を振興」する必要があることを内喩した。その翌年1879年3月、大臣参議を集めて「勤倹ヲ本トシ冗費ヲ省」き、土木事業を控えて「民力ヲ愛養」することなどの三項目の勅諭を、天皇自身が下賜した。そこで「国本培養ニ関スル上書」を奉答する。岩倉は、プロイセンを日本の規範ととらえ、そのために天皇のリーダーシップを期待した。
P140
個別の政策に天皇が介入することは注意深く避けながら、詔勅という形で道徳的・政治的権威を発揮し、政府内で意見が対立したときには、天皇が最終的な裁断を下す。これが岩倉が構想した天皇親裁の理念であり、その精神は明治憲法制定過程でも統治エリートの意識の底で生き続け、1945年8月を迎えることになるのである。
この時期に元田は立憲制への移行が天皇親政(親裁)の理念と矛盾しないようにするため、国体と政体の二分論を唱えている。「祖宗ノ国体ハ永遠ニ確守セザル可カラザル也。歴朝ノ政体ハ時ニ随テ変改セザル可カラザル也」(『明治天皇紀』④691頁)。要するに、イザナギによる国土開闢以来の皇統一系の国体は、立憲制の導入によっても不変だという。日本の立憲制は「君主親裁立憲政体」であり、漸次立憲政体の詔によって英国流の君民共治の体制に移行するわけではないと、元田は強調した。
そもそも国体/政体二分論は国体論の不可欠の概念装置で、両概念の区別はすでに幕末にも例がある。岩倉も「国体昭明政体確立意見書」(1870年)でこの区別をしていたが、これほど明快に二分論を説いたのは元田が最初であろう。(略)「国体」の意識は、元来、キリスト教の脅威に対抗する意図から誕生したが、ここに至って民間の反政府運動に対抗する形での立憲制構想と結合することになった。
P153
松本三之介によれば、幕末から1881年のあいだに刊行された新聞は約270タイトル、雑誌は530タイトルだという(「解題」、近代思想大系⑪112頁)。泡沫的なメディアの星雲状況は発想の自由さを保障し、読者に投書欄を媒介とした発言の機会を提供した。読者から発言者への転換は、植木枝盛や徳富蘇峰などに典型的な例を見出すことができるが、かれらの背後には、無名のままで終わった多数の「論議する公衆」(ハーバーマス)がいたのである。
1880年代公判以降、言論機関は淘汰され、日清戦争を境に報道が重視される時代に入った。論説よりも報道が優先されることによって、世論を形成するプロとそれを「消費する公衆」(ハーバーマス)が分離するのである。帝国議会が開設されたことで、一般民衆の政治への参入も制度化された。政治家、投票する少数の有権者(当初の有権者は全人口の1パーセント強)、そして選挙権を持たない大多数の大衆という区分けが成立するのである。明治初期の政治的言論の過熱は、政治が特権階級の占有から開放され、誰もが参入できる「公共世界」に変容したことが原因だった。議会政治の出現は、逆にその状況を再び後ろに押し戻したのである。もはや演説会場に数千の大衆が押し寄せるという事態は想像できない。議会が政治を独占することによって、演説会というゲリラ的で演劇的な空間は消滅し、言論による「出現の空間」(アレント)は閉塞してしまうのである。
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この抜粋部分を読んでいるとき、私は現在のSNS文化に思いをはせた。まさに「論議する公衆」(ハーバーマス)がSNSで復活した、と。
ここまで書くのに4時間くらいかかってしまい、一休み。一番上で紹介したアート・ペッパーのアルバムはとっくに終わり、阿弥陀経のループをしつつ書き進めていた。この一休みの間に、ハーバーマス、ポピュリズムの是非と政治、国体の次に私のキーワードに「民権」が来ていること、などキーワードを考えつつ、ここではその記述にとどめようと考えた。これを読んでくれた人がさらに進めてそれぞれの結論にいたってくれたらそれで今は良い。で、そのキーワードの一つに「フジテレビと中居正広問題」も加わっているのだが、これはいずれにせよフジテレビの放送免許取り消しまで至らないことは確信できているので、いずれ「こんなことがあったね」で終わってしまう話題なのだろう、という諦観が私のなかで強くなっている。ランジャタイの引用動画を観て、ランジャタイにハマっていることも付け加えておく。
さて、続きを。
P174
福澤諭吉は(略)『文明論之概略』で、ナショナリズムの核心が歴史の共有の意識にあると指摘していた(米原謙著『近代日本のアイデンティティと政治』第1章第1節を参照)。しかし(略)この段階では国学や水戸学の教説を「虚威に惑溺したる妄誕」を明確に否定した。「王政復古」の政治過程で表面化したエスノセントリックな独自性の意識を拒否して、西洋文明の受容によるナショナリティの再構成を企図していたのである。しかし1880年代になると、福澤は明確にこの路線を放棄し、神道が仏教と協力してキリスト教排撃と愛国心養成の機能を果たすことを期待するようになる。『時事新報』の論説「神官の職務」によれば、神官は日本の歴史を講じることによって、国民に「懐旧の感」を生ぜしめ「国権の気」を養うことに努めねばならない。国民に「金甌(おう)無欠」の皇統の歴史を教えることで、「懐旧」の意識を養成し、ナショナル・アイデンティティを確立しなければならい、と福澤は考えた。そしてその根幹に皇室を据えることにしたのである。
(略)『尊王論』(1888年)では、国会開設によって、日本社会が欧米的な「多数決主義」に転換すると、かれは予想している。福澤の認識では、これまでの日本は「一個大人」の指示にもとづいて国民全体が行動する「大人主義」だった。国会開設によって「大人主義」から「多数決主義」に転換すると、社会に「功名症と名くる一種の精神病」が生まれるだろうと福澤は危惧した(福澤⑥12頁)。それを緩和する手段として、かれが重視したのが、「尚古懐旧の情」にもとづく皇統神話だった。
(略)明治14年の政変によって伊藤たちと対立することになった福澤は、それにもかかわらず、神道と万世一系の皇統神話を国体の核心に据えることによって、教育勅語渙発への道筋をつける一端を担うことになった。
P177に記載されている、1881年11月に、栗村寛亮と宮地茂平が太政大臣に提出した「日本政府脱管届」は面白い現象なので抜粋しておく。国家意識に回収しきれない「自由」の意識が横溢することがあった、その例として紹介。
「私共儀従来ヨリ日本政府ノ管下ニアリテ、法律ノ保護ヲ受ケ法律ノ権利ヲ得、法律ノ義務ヲ尽シタレドモ、現時ニ至リ大ニ覚悟スル所アリテ日本政府ノ管下ニアルヲ好マズ、今後法律ノ保護ヲ受ケズ法律ノ権利ヲ取ラズ法律ノ義務ヲ尽サズ、(後略)」(近代思想大系㉑244-245頁)。かれらは「地球上自由生」と名乗った。その主張は、スペンサー『社会平等論』の「国家を無視するの権利」に影響されたものといわれている。日本国籍を離脱し政府の保護を求めないという発想は、教育勅語以後には想像できない。それは「国民」の形成がまだ試行錯誤の途上にあった時期に特有な闊達さであり、その背後には「論議する公衆」がたしかに存在したのである。
ここにも書いてあるので紹介しておくが、どうやらこの二人、当然といおうか主張が認められるはずもなく、100日の禁固刑だったようだ。とはいえ、法的根拠は希薄で、日本国籍がイヤっていう主張に対しての罰則ではなかったらしい。興味深い。
P181
国体論は明治20年代になって、おぼろげながらやっと完全な姿を現してきた。それとともに、こうした公定イデオロギーの方向性に対する抵抗や反発も浮上してくる。教育勅語をめぐる「教育と宗教の衝突」はその代表例であるが、歴史認識についても、薩長中心の王政復古史観とは異なる歴史叙述の試みがこの時期に出現する。帝国大学の重野安繹(しげのやすつぐ)や久米邦武らの史学会による考証主義、島田三郎や福地櫻痴に代表される旧幕臣によって書かれた政治史、徳富蘇峰『吉田松陰』や竹越三叉『新日本史』など民友社グループの歴史叙述がその代表である。
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これの内容は興味ある(久米がおこした「神道は祭天の古俗」事件とか)のだが、ここで紹介した理由は重野安繹という名前が出てきた。もともと国体への興味を持った理由が国柱会田中智学の生き方を知る途上のことであったのだが、田中の自伝に、この重野が登場する。重野はリアリスティックといおうか、非現実と判断した歴史的事柄にはとことん噛みつくという手法であって、日蓮の龍ノ口法難に噛みついて「無かった」と主張した。これが田中の反論を招くこととなり、議論を交わすことになる。私の記憶ではこの論争は重野が引っ込む形になった、というものだが、現代だとどうだろうか。
公式でない動画なのであまり引用すべきでないし、いつ消されるかわからない動画だが、モース警部というイギリスでかつて人気だった刑事ドラマのスピンオフ作品に「オックスフォードミステリー ルイス警部」というシリーズがある。現在BS11で放送中なのであわせて宣伝しておけば少しはお目こぼしがあるかな。ここのあるセリフを思い出す。いわく「宗教は合理性を超える」日蓮の法難のことも、そういうことではないだろうか。
…いかんいかん、自分なりにエピローグ的なオチがついた、と安心してしまったw 肝心の『国体論はなぜ生まれたか』の所感を書いてないじゃないか。
私は保守としての立場から、日本共産党が造語としてつくった「天皇制」という言葉には抵抗があった。「近現代日本的君主制」とでも言うべきだ、と。とはいえ、ちゃんと書こうとすればするほど長くなるし、定着している言葉なので、これはこれで受容すべきか、とも考え始めている。自分では使わないけれど。前提として、この本にもその言葉は書かれており、ピクっと心がザワついたのは事実。それでも、だからこそかもしれないが、国体に対して冷厳な目線で語られているこの本は私が知りたい国体についての知識を深めるのには十分役に立った。日本において国体というものが現在のような形でイメージされてきたのは幕末であって、それは国学本居宣長と平田篤胤によって萌芽した。平田篤胤が全国的に国学をひろげる役割をもったものの、
宣長「人は死んだら黄泉の国へ行くのだ」
篤胤「あんな暗くてウジが湧くような場所に人が死んだら行くとはとても言えない…そうだ、幽冥界ってのを創造してそこに行くことにしたらいい、現世とかわらない世界ならあんな暗くて汚い場所じゃないし」
幕末国学者「平田はオカルト過ぎるわ、人の死後ばっかり考えるより、今の世の中が大事。外国からの外圧が増えてきて、キリスト教なんて邪教が日本に流布されたら困る…そうだ、天皇が神の役割を果たす国、それが日本って言えばいいじゃん、ついでに天皇に民が慕って死んでいく、それでいいじゃん」
この流れを知ったのはとても勉強になった。そして抜粋部分も読んでくれたらわかるけれど、ちょっと問題提起した「現在自民党が吉田茂以来主張している政体と国体は別なんだよ」論も幕末から明治にかけてのロジックだと学んだ。それこそ鎌倉時代から日本は天皇朝廷と幕府という権力が二分されていて、天皇は祭祀などルーティンをやってくれる存在で、実際の政治は幕府が行ってきた。それは建武の親政で一時的に戻ることはあったけれど、ほぼそういう形でやってきた。他の国であれば、易姓革命理論で「悪い君主なら殺して新しい別の国を建ててかまわない」で、前の王朝は滅ぶものだが、日本ではそれが起こらなかった。その理由は上の抜粋部分にもあるが、「君主は君主であって、臣下はその地位を脅かさない」という倫理観が相当根強かったのだろう、と思う。日王を名乗った足利義満と織田信長がそれを覆そうとしてたのではないか、と想像はしているけれど。
話がそれたが、幕末からあった国体政体二分論及び、日本型政教一致体制が国会開設と教育勅語渙発によっていったんの完成をみて、あとはその国体を国民に洗脳していく過程が始まる、という1945年敗戦になるまでの流れという認識が私のなかで固まった。これは現在の日本でももちろん影響していて、いわゆる保守の人たちのなかでも、この明治期につくられた国体や皇室典範に基づいている人がかなり多い。皇位継承問題であくまで男系男子にこだわるのもその証拠だろうね。もちろんそう主張するのは良いのだけれど、一度「なぜ皇室典範は男系男子と定めているのか」その歴史的、思想的背景を知ること、知った上でそれで良いのか、意見が変わるのか、そういったことを自分に問いかけてみてほしい。私は変わったほうではある。少なくともワンポイントリリーフ的に女性天皇はあって良いと思うし、これは里見岸雄の日本国体学に述べられている「生命弁証法」にのっとって、現在の社会が求める皇室の形を考えるに「皇位継承権の上位3-4名を政府宮内庁が選出し(女系女性も含める)、国民投票にかけ、次期天皇を決める、君民一致の思想」を掲げている。今後は皇位継承権をもつ皇族が同性愛者であることを告白し、子どもをつくらない宣言をするかもしれない。いわゆる日本人と髪の色や目の色、肌が異なる外国人との結婚を望む皇族が現れるかもしれない。そういった事態に、国民としてどうすれば良いのか?そこは今からでも「身構える」必要はあると思っている。
ここまで書くと私も「国体=皇統」という狭い意味での国体にこだわっているように思えるかもしれないが、そうではない。なるようにしかならない、その方向性について語っているだけだ。結局国体というのは、私たち日本人の「有り様」が決める。皇統にこだわるのが国体だ、と学びのあとで私たちが判断するならそれでも良いのだ。大事なことは、この日本で生まれ、生かされていることに、多くの国民が感謝することであって、その感謝の向かう先の一つに天皇(大御心)という存在があれば良い。その心根、まごころ(大御宝)が合わさったもの、それが真の国体だ、と今の私は考える。