島薗進「日本人の死生観を読む」を読んで
死生学、という学問があることを知ったのは最近のことだ。それを教えてくれた人に「図書館にありそうな本を薦めてほしい」とお願いしたら島薗進の名前を挙げてくれた。死生学というのはドイツで始まり、ドイツの死生学者が日本に伝えたわけだが、日本における草分け的な存在が島薗進のようだ。ただ死生学とはいうものの、英語に直すと Thanatology (タナトロジー)もしくは Death Studies というようで死のほうが直接的に思える。そこでなぜ死生学と訳されるのか、そこに日本人に根付いてきた死生観という文字があるのではないか? とこの本は提起する。
「どう生き、どう死と向き合うのか?」2020年10月に母を亡くし、この問いかけが心に灯った。そのなかでこの学問の存在を知り、飛びついたという訳だ。人生は一見関係のない場面で、あるリンク、つながりをもたらすことがあると常々思う。この流れもそうだった。図書館でこの本に巡り合えた。
さて。本著は2012年に朝日新聞出版より発行された。副題は、明治武士道から「おくりびと」へ、とある。おくりびと、というのは日本の映画でそれなりに有名になった作品だ。宮沢賢治も挙げて、まず日本人がどう死と向き合うのか、を述べる。そして「死生観」という言葉は明治時代、1904年に加藤咄堂という人が「死生観」という本を出したことから始まるという。明治武士道とあえて言っているのはそれ以前の武士道とは異なる様相になったと判断しているからだ。
本に書かれていることは、第5章の冒頭で言われているように、死生観の時代をたどるごとの系譜について述べられている。
①加藤咄堂が代表するような「修養」の系譜。「死を意識しつつ、死を超える大いなるものに一体化し、死を恐れずに生きる」ことを理想とするもので、武士道にその典型があると見なされた
②志賀直哉が代表するような「教養」の系譜。自ら死を身近に強く意識した経験が、心の安らぎを得ることに、また確固たる信念を持つ文人・思想家・表現者としてのアイデンティティの確立に役立つものだった。この系譜では、死生観とは死に向き合うことで得られる文人エリートの思想表現だった。
③柳田國男や折口信夫が発見した古くからの文化伝承を引き継ぐ死の意識や表象に焦点を合わせようとした系譜。伝承されてきた共同意識としての死の意識に注目し、円環的な死生観・永遠回帰的な時間意識を想起する死生観叙述
④悟りを目指すような死生観の系譜ではおそらく直面することが困難であるような経験、あるいは悟りを目指すような死生観が打ち破られるような経験を経て、そのような亀裂の経験に焦点を合わせた死生観。「戦艦大和の最期」を著した吉田満のその作品や、その後の作品を通して、死ななければならない理由を見いだせないのに、死ななければならないその苦しみと受容を記す
⑤現代病である死にいたる病、ガンに罹患し、そして亡くなった宗教学者(岸本英夫)と小説家(高見順)が死にどう向き合ったのか、を言葉や作品から述べていく。高見順の詩「死の淵より」から。
「巡礼」
人工食道が私の胸の上を
地下鉄が地上に走るみたいに
あるいは都会の快適な高速鉄道のように
人工的に乾いた光りを放ちながら
のどから胃に架橋されている
夜はこれをはずして寝る
そうなると水を飲んでももはや胃へは行かない
だから時には胃袋に睡眠薬を直接入れる
口のほかに腹にもうひとつの口があるのだ
シュールレアリズムのごとくだがこれが私の現実である
(中略)
金色にかがやく仏塔の下で
大理石の仏像に合掌して眼をとじていると
暑さのためにもうろうとなった頭が
日かげの風で眠けをもよおし
ノックアウトされたボクサーの昏睡に似た
一種の恍惚状態に陥ったものだ
暑熱がすごい破壊力を発揮しているそこの自然は
眼に見える現実としての諸行無常を私に示し
悟りとは違うあきらめが私の心に来た
蓮の花の美しさに同じ私の心が打たれたのもこの時だ
仏に捧げるその花はこの世のものと信じられぬ美しさだった
人工的な造花とは違う生命の美
しかも超現実の美を持っている
まさに極楽の花であり仏とともにあるべき花だ
それが地上に存在するのだ
涅槃がこの地上に実現したように
おおいま私は見る
涅槃を目ざして
私の人工食道の上をとぼとぼと渡って行く巡礼を
現実とも超現実ともわかちがたいその姿を私は私の胸に見る
そしてエピローグ。筆者は改めてこの本を見返し、注釈というか「こういうツッコミがあるかもしれないけど、それはこういうことなんだよ」といった話をするのが面白いw ただ、途中の死生観の系譜の流れの一つにあったような、「円環的」な流れをこの人はエピローグで著したい、つまりその円環的な死生観に心のうちで重きを置いているのか、と読後すぐに思った。おそらく考えすぎなんだろうけれど。自分はいったい、どの「死生観」に近いのだろうかと改めて考える。まだ自分が死に直面した経験はないから志賀直哉のような心境にはまだ遠い。もちろん戦争で命を捨てようとした経験もない。ガンにもかかっていない。といって明治期の武士道に自分が近づこうとも思わない。ただ「おくりびと」の映画のようにあそこまで綺麗に見送ったわけではないが、以前葬儀会館で働いていた経験もあるし、身近な存在をこの二年で立て続けに亡くした。そこから自分は何を導くのか、今のところ言えるのは感謝をもって死に接する、ということだろう。自分を産み育ててくれた母に感謝の言葉を、彼女が危篤の折も、棺桶に入った最後の別れの際にもかけた。自分にとっての死生観は、そういう感謝の念から始まるというのが現時点での結論だ。この本は、そんな自分の「気づき」を与えてくれた
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