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消えた小説、第二章前半(第二稿)
10039文字+有料
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■ 二章 バイト初日(三月一九日・祝)
九時十五分だった。
いまからペダルをゆっくりと踏んでも、出勤時間まで十五分ほどの時間の余裕はあった。
家の、上がり框(かまち)に尻をつけて、男はスニーカーのヒモを結びなおしている。
生前の祖父母の寝室へぬける、南の縁側の三和土のタイルの上に、背の高い観葉植物の鉢がいくつもならんで置いてある。それらの垂れた葉っぱに、隠れるように、小ぶりの木台に、シクラメンの鉢がひとつ載せられ、赤く咲いていた。
そのシクラメンの鉢は、むかし父が下仁田に勤めていた頃に知り合った近藤オートから毎年ひとダースからもらってくる。そこにはウチに置くぶんのひと鉢しかなかった。シクラメンを待ち侘びる親類たちが早いもの勝ちでわれ先にえらんでもっていったにちがいない。
「言っておいたっけ? 」
背中のほうから母の声が聞こえる。
「なにが? 」
男はふりむく。廊下の突き当たりのトイレの横のドアから母が首をだして言葉をついだ。
「お父さんの退院日。今月末なのよ」
「ああ、聞いてたよ」
「え、なに? 」
「き、い、て、た、よ」
男は耳の遠そうな母に、大きな声ではっきりといいなおした。先月末に実家に帰省してすぐ、父は年末からずっと入院していると母に知らされていた。そういえばと思って男は、シクラメンの鉢を母に掲げて見せる。
「あ、それね。今年はね近藤オートさんのほうがね、送ってくれたの。私が下仁田まで取りに行くわけにはいかないからね」
男はシクラメンの鉢を台にもどした。
「お母さんさ、耳がぼうぼういうのよ」
「ぼうぼう? 」
「そう。ぼうぼうっていうか、ぼわんぼわん。って。どこのお医者に診てもらっても、よくわからないんだって」
男はだまりこんだ。しばらく母の顔を見つめた。
「統合失調症って診断はされてないよね」
「トーゴーシッチョウショウ? 」
「入院していたときに、若い女がいてね、その若い女の症状が統合失調症だったんだ。その若い女はひとり暮らしをしていたんだけれど、夜の換気扇のブーン、ブーンって音がね、まるで十数人の男どもに一斉に罵倒されている。罵詈雑言でもって難詰してくる。そんな幻聴におそわれるそうなんだ」
「こわいわねェ」
「ぼくはそれを聞いてさ。もし自分がそんな症状に陥ったら、絶対に耐えられない。狂ってしまう。そう思ったね」
若い女は男とはべつの症状で京都にある北山第三病院の閉鎖病棟に入院をした。男は京都府立医科大学附属病院のレントゲン室の待合室であばれて、看護長に一一○番をされて、下京警察署へ連行された。留置所から護送措置での強制入院だった。
「私はみずからこの閉鎖病棟にやってきてみずから入院手続きをしたの」
と若い女は言った。
真夏の昼過ぎだった。若い女は、病院の北側一階から短い影が移動する、喫煙ができる場所のコンクリートの壁に寄りかかって、ほそいメンソールのタバコを根本まで吸って、がまの携帯灰皿にねじこんだ。
「慣れるわ」
「なれる? 」
「症状がひどくなると自分から入るの。今回で三回目。ほんとにひどかったら自分から入院すればいい。わたしはただ、それに気づいただけ」
紫煙をすぱすぱと吹かして若い女は男にそう言った。若い女は顔が隠れるほど大きなひさしがつっぱる、麦わら帽子をかぶっていた。
食堂をとおりかかると、いつも若い女は背筋をぴんとして座って絵を塗るのに集中していた。ひとさし指をたて、箱から色をえらびとる真剣な一対の目。クレヨンをにぎった手が、まるでロボットアームのようにおなじ方向に、規則的に移動する隙のない動作をみて男は、若い女に声をかけるのが憚(はばか)られた。
男は若い女の向かいに座った。
若い女は男には気がつかなった。
男は、開いたクレヨンの箱のなかをまじまじと見つめた。そこには二十四の色があった。男はいまでもはっきりと覚えている。あか、しゅいろ、だいだいいろ、みかんいろ、きいろ、レモンいろ、きみどり、みどり、ふかみどり、みずいろ、あお、ぐんじょう、あいいろ、むらさき、あかるいむらさき、ももいろ、うすだいだい、おうどいろ、くちばいろ、ちゃいろ、こげちゃ、くろ、はいいろ、しろ。
塗り絵の花の線画は、男にはバラなのか熱帯の花なのかよくわからなかった。がしかし、大きくひらいた一輪の花の中央に鮮血のようなあかいろの色粘土は盛りあがって、時計まわりに、だいだいいろ、みかんいろ、きいろ、レモンいろ、きみどり、みどり、ふかみどり、みずいろ、あお、ぐんじょう、あいいろ、むらさき、あかるいむらさき、ももいろ、うすだいだい、おうどいろ、くちばいろ、ちゃいろ、こげちゃ、くろ、はいいろ、しろ。
若い女は自分の意思ではなく端にある色からどうやら塗っていた。またそれは逆のグラデーションをなして鮮血のようなあかいろから、だいだいいろ、みかんいろ、きいろ、レモンいろ、きみどり、みどり、ふかみどり、みずいろ、あお、ぐんじょう、あいいろ、むらさき、あかるいむらさき、ももいろ、うすだいだい、おうどいろ、くちばいろ、ちゃいろ、こげちゃ、くろ、はいいろ、しろ。色の濃淡は異常なほど強烈に鮮やかだ。さらに恐ろしいことに、たった二十四の色と色のあいだに男がみたことのない色がみるみると生まれでる。若い女が描く塗り絵は男が生きてきて見た絵のなかでもっとも色鮮やかで美しかった。こんな色は自分が一生描きつづけたとて生まれまい。と絶望に近い目で男は塗り絵に見惚(みと)れた。若い女には花はどう見えるのだろう。しかし若い女は実物の花を見て塗り絵をしているわけではなかった。若い女が見える花を描いているだけだった。
絵を表現する行為はふつう作品をどのように見せたいか他者にどのように見られたいかに依る。描き手はどのように描くかで悩む。しかし若い女は塗り絵を他者に見せたいわけではなかった。ゴッホにしてもムンクにしてもこの若い女にしても他者を圧倒する絵は、書き手が作品を他者にどう見せたいかではない。自分が見た世界がどう見えるかだ。と男は思った。
「耳がぼわんぼわんって。でも、もうずいぶんと経つのよ。十年よりもっと。ひょっとすると二十年から経つかもしれないわ」と母は言った。
二十年来幻聴のように耳がぼわんぼわんする母の話を聴いて男は、自分にもひとつある節を思いだした。スニーカーのヒモを絞めてカバンから古い日記帳を取りだして開いた。
五、六年前に体験した事だ。
当時、男は京都に住んでいた。夜、いつものようにラジオで落語を聴いて布団に入る。すると左耳に奇妙な音は聞こえてくる。最初は蝿かと思った。その羽音は、耳元に近づくにつれて小人たちが編成する鼓笛隊のパレードに形を変える。羽音は鼓笛隊の輪郭をはっきりと形づくって耳元に歩いてくる。そんなふうに感じて、男はふりむく。なにもない。だがすこし経つと羽音はまた小人たちが編成する鼓笛隊のパレードに形を変える。鼓笛隊は男の耳元に、一糸乱れぬ音を鳴らして、近づいて歩いてくる。男はふりむく。なにもない。はめ殺し窓が見えるだけだ。そんな狐に化かされたみたいな奇妙な夜が、秋から春にかけて、あった。春先に、狂ったようにまぐわった女と別れた直後だったので、心労と思って放っておいた。知らないうちに、小人たちが編成する鼓笛隊のパレードは、男の耳元に姿を現さなくなった。
上半身をかがめて男はスニーカーのヒモの左右対称が蝶の羽根の形になっているかを確認して、また硬く結び直した。
でっぱった腹の肉は太ももに窮屈にあたる。あまりに太った。引きこもりで三年寝たきりだった時間を、男は嫌悪する。
背中に母の視線の冷たいのを感じた。男は息を吸いこんで腹をへこませる。すると逆に、みぞおちの高さに、重くぶあついまるでチャンピオンベルトのようなぜい肉が、自分の腹に巻かれている現実をつよく感じる。ズボンのボタンを留めるだけで、下腹は締めつけられる。
三年九州に引きこもって男は急激にふとった。
毎日ひる過ぎにようやく起きあがる。リクガメが涙を溜めたような顔をして洗面所に立つ。太っただれかが目の前の鏡にうつる。男はおどろく。こいつはぼくじゃない。ぼくでない別の人間だ。
「オマエはいったいだれだ? 」
「オマエは化け物じゃないか! 」
頭をかかえる。
「これじゃあ巨大な芋虫だ! 」
洗面所に倒れてうずくまる。
「ぼくは毒虫になっちまった! 」
男は台所まで這っていく。床の上に、くの字に、つの字に、への字に、しの字に、Uの字に、Cの字に、のの字になってぐるぐると蹲(うずくま)ってのたうつ。
「毒虫に変身したグレゴール・ザムザがここにいる! 」
鏡に向かってさけぶそんな地獄の苦しみじみた朝を男は三年つづけた。
男がもつ余所行きのパンツは一張羅だった。別府へむかう国道二一三号沿いのコンビニのバイトで穿くためにしまむらで安く買った。が、男はコンビニで限界集落の偏見に満ちた主婦らに揉(も)まれた。三週間後、男を雇った店長は移動すると主婦に染まった新店長が男にクビを言い渡した。そのときのパンツは、いまは窮屈で入らない。なので、実家に帰ってから男は二階のタンスをひっくり返して学生の頃からの昔の衣類を漁った。果然、いまのウエストに合うものなどはひとつもなかった。
額に汗は玉になって噴きでた。メガネのフレームの角を、親指と中指の二本の指で、上へと押しあげる。老眼になったのか。蝶の形になった結びがボヤける。メガネの内側に、汗がひとつぶ、垂れた。
ネコは近寄ってきて膝にとびのる。頭蓋骨を手のひらでゆっくりとつつみこむ。少年野球の軟式ボールよりひとまわり小さい。ネコは頭蓋骨をこすりつけてくる。メガネのフレームを押し上げた二本の指で、倒れた耳の後ろの柔らかく凹んだ部分をこりこりと掻いてやる。ネコはヒゲを垂らして気持ちよさそうに目をつぶって喉をゴロゴロと鳴らした。握力の限りにこの頭蓋骨をにぎったらば、ネコは苦しむだろうか。
それから男はネコの頭蓋骨をつかむ自分の手の甲を、注視する。
男は自分の手が奇妙に見える。三年、九州に引きこもっていたおかげで肌荒れはひとつもない。それでいて野良をする老いた農夫の渇いた手に見える。おや指の根元に真っ赤な血の筋が見える。鮮やかな緋色だ。ネコにやられた生傷だ。手ぜんたいが生々しく奇妙だ。若さと老いが撞着(どうちゃく)している。
もういちど男は、ネコの頭をかるく撫(な)でる。ネコは目をつぶって自らの頭がい骨を、もっと撫でてくれ。と男にぶつけてくる。
母は階段の化粧手摺に掛かる、猫じゃらしヒモをとって、新体操のリボンのようにひゅるひゅるさせて、玄関まですり足でやってきた。
「ナミダちゃん。わたしにはまだぜんぜんなついてくれないわねえ」
母は言った。
「ネコは家につくもんだよ」
「そうかねえ」
「そうだよ」
男は笑ってみせた。
「そのうちなつくよ」
「そうかねえ」
「そうだよ」
「そうだって、ね。ナミダちゃん」
ネコは九州の国東半島から帰郷する男といっしょに特急と新幹線と鈍行列車を乗り継いでやってきた。
ネコはシルバーのベンガル種で三歳になる。世間ではベンガルはその紋様でアメリカンショートヘアによく間違えられる。ネコは死んだ祖父母と両親の二世帯家屋に移ってきてから家のなかを活発に動きまわる。家のサイズに合わせたように太った感はあった。
母はネコを初孫のごとく可愛がった。がしかしネコは男にしか懐かなかった。九州で男が購入して三年、男とネコはずっと一緒に過ごした。
母は男が九州から家に連れてきたネコをネコの保険証に登録されている「ナミダ」にちゃんづけをして「ナミダちゃん」と呼ぶ。辞書にならんだ字義どおりに、ねこ可愛がりをする。男はネコを「ナミダ」と呼んだためしはいちどもない。
男はゆううつだった。
翌日は、男の誕生日だ。四十六歳になる。
離婚してすぐにつとめた埼玉の羽生にある盆栽の会社で知り合った同僚に飲み屋で「おれにそんないっぱしの講釈をぶつんだったら、おまえ自分で書いたらどうだ。書きもしないでうだうだと抜かすな」と尻をたたかれ、小説を書きはじめてもう何年にもなる。病魔におかされてからは期間の半分は寝たきりだったが。さりとて男はずいぶんと書いてきた。結果は最終選考にすら箸に棒にもかからなかった。
母は翌日の男の誕生日には触れようとはしない。
框(かまち)まできて母は、おいしょ、としゃがんで膝をつく。
「ナ、ミ、ダ、ちゃ〜んっ」
母は笑って、赤ん坊をあやすようにネコの頭に触れようとする。ネコはするりと母の手からすり抜けて祖父母の位牌のある仏間へと逃げていった。
「月末にはお父さん、退院するから」
男が靴のヒモをいじる手は、一瞬止まった。母の言ったそれは二度目のはずだ。
家の外、遠くからオートバイの爆音が聞こえる。
「ああ、そうだったね」靴のヒモ見つめたまま男は言った。
父は大腿骨骨折で高崎の駒江病院に入院していた。骨折したのは昨年の秋だった。帰郷して初めて男は父の今般の入院の件を知った。
「今回は六ヶ月を超える入院生活だったし、九州に住んでいる息子にそういうことを言ってもしょうがないから」
と母は帰ってきた男にそう言った。
現場には居合わせなかったが男は父の行動は手に取るように分かった。
定年を過ぎて父は、若い頃からのビール党が祟(たた)って糖尿病をわずらい、週四で透析にかようことになった。家から出なくなった。ベッドに根を下ろしたように寝たきりになった。元警官とは思えぬほど、からだは枝のようにほそくしぼんだ。居間の外にも出ない父の足腰は弱った。透析なので家にいる間は小便にはほとんど立たない。それでも数少ない尿意を催したのだ。
父は根っこのように張った重い腰をあげて、居間のふすまを開ける。いま男が座る吹き抜けのある玄関にでて、母が顔を覗かせた台所のドアのある北のトイレへとあるく。その最中の、数歩のあいだの廊下の床に、足をすべらせたのだった。全治五ヶ月の大腿骨骨折だった。
男が九州に行く直前にも父はいちどおなじ大腿骨骨折をしていた。裏庭にある浄化槽横の風呂場の石油ボイラータンクのフタを外すのに滑ったのだ。それをたまたま二階の窓から顔をだしていた男が発見をして母が一一九番に連絡したのだった。
男は遠くから聞こえるオートバイの爆音が耳にかかった。
「今日、開催日だっけ」
「なにが? 」
「オートだよ。伊勢崎オートレース。今日は地元開催日だっけ? 」
「お母さん。オートのことなんかまったく知らないわよ。お父さんなら詳しいかわかんないけど」
伊勢崎オートレース場はナイター設備がある。夏から秋にかけてはG1やSGレースなどのビッグタイトルもふくめて連日連夜、ナイター開催で盛りあがる。ナイター日はバババババッと路面に堅い爆発物をたたきつけるような、異様に高い爆音とともにドームが煌々(こうこう)と光る。優勝戦が跳ねると、花火が乾いた音を立ててあがる。春のこの時間は場外発売のはずだった。
「じゃあ練習の音かな」
「そうね、場外だとしたら、練習ね」
母は言った。
とつぜん、男の胸に仕事への緊張がせりあがってくる。カバンからリョーマがメモ帳に記したアンチョコを取りだす。昨晩、部屋でメニューの略語をなん度もそらんじて読みあげたが、おぼえは悪かった。人前で働くのは三年ぶりなのだ。それだけでからだの全身に異様な緊張が、みなぎる。
「どうしたの、顔色が真っさおよ」
「え、あ、うん。なんでもない」
母はだまった。
男もだまった。
母は両膝をついて立ちあがった。
「ナミダちゃんどこへ行ったのかしら、お祖父ちゃんとおばあちゃんがいる仏間かな? 」
そう言って母は祖父母の位牌がある仏間へ入っていった。
男はメモ帳を開いて、ひざ頭にむかってぶつぶつとしゃべる。リョーマが言ったよくでるメニューに、ひとさし指の腹をこすっていく。伝票に書き記す略語を復唱する。
「広東麺は、うまにそば。ぎょうざは、ギ。春まきは、春。五目あんかけ焼きそばは、炒面。かた焼きそばは、炸面。五目中華丼は、中か丼。カウンター席はCに卓番号。座敷席はザに卓番号。テラスはマル外に卓番号… 」
「緊張しないでね」
母の声が聞こえる。そろそろ家をでる頃合いだ。男は両手を膝について腰をあげる。
「緊張しないで、大丈夫」
母は仏間から顔をだした。
「うん」
男はうなずく。男は話をついだ。
「それと病院の通院のことなんだけど、次回の診察はやっぱりまだ行けないって、葦森先生に」
男は言った。
「精神医療センターのほうのね」
「うん」
男が九州に出ていた三年間は、母が代理で通院をして薬を処方してもらっていた。
「葦森先生はアキトがその気ならこちらから往診もできますって」
「往診とかそういうんじゃないんだ」
「あらそう」
「悪いね。まだどうもダメみたいなんだ」
「そう」
男は笑ってみた。いま自分の顔はいったいどんな類の顔をしているのか、男は想像ができない。
「葦森先生も、ネコを飼ってらっしゃるのよ」
「そうだね。年末の手紙にそう書いてあったね。三毛だろ」
「動物愛護団体から貰い受けたんですって」
男は息をのんで、母を睨(ね)めた。
「ぼくはそういうのは嫌なんだ」
男と母とのあいだに、妙な間が横たわった。
しばらくして母はその間を、重く気まずい雰囲気に感じたのか、とつぜん口を開いた。
「葦森先生もおっしゃっていたわ。アキトがお母さんに送って寄越したラインの文面みたいに、動物愛護団体が飼い主へむける虐待者をうたがうとげとげしい疑念の目。あのいや〜な感じ。葦森先生も肌でお感じになられたんですって。アキトとおんなじだって」
男は母のことばにではなく、ことばの使いように、息子へむける阿(おもね)りが感じられた。なにかを裏切られた、妙な気分になった。最後につけた「アキトとおんなじだって」は、母が勝手に脚色をしただろうにちがいない。男は思った。
「ペットショップで購入するのと動物愛護団体から引き受けるのと、べつだん変わりはない気はするよ。殺処分の被害を一匹、減らすだけだ」
男は「気はするよ」のよ、と「減らすだけだ」のだ、をつよめに、発音した。
「道中、気をつけてね、アスファルトの農道を走りなさい」
「わかった。でかけるよ」
男は玄関をはんぶん、開けた。三和土に置かれたロードバイクのホルダーにスマホをはめる。
「まだ開けないで」
母はさけぶ。
「どうしたの」
男はふりかえる。母は男の足元を指さした。観葉植物の下でネコは丸くなっていた。玄関の外にでるのを狙ってるようだった。男は玄関を閉めた。
昨日、散歩にでると生垣の根元にネコの死骸が寄せてあったのを男は思い出した。道路の中央ライン寄りに血の塊が破裂した痕があった。男はそのことを母に言った。
「こっちに来たばっかりだから、いま外に出たら危ないな」
「あの野良。ここ最近ずっとウチの周りで見かけたネコよ」
「頭がつぶれてた」
「ナミダちゃん牡だから。あの野良は牝ネコだったのかしら? 」
「頭が丸ごとつぶれてたよ」
「そうなの」
「そうなんだ」
「あの野良、家のまわりをうろうろうめくような鳴き声で鳴いていたのよ」
春だ。ここ最近、夜は家のまわりはネコの鳴き声ばかりだった。
「ウチのネコもおなじだよ。家の外の目抜きどおりに出てしまえば車に跳ねられるよ」
「最近の車はあんな細い道でも容赦しないからねえ」
「ぼくが役所に電話をしたんだ。母さんがパートから帰ってきたあとは家の前にはネコの死骸はなくなっていただろう」
「あらそうだっけ? 」
「役所に電話するとネコ処理センターっていうネコの死骸専門の引き受け業者の番号を教えられたよ」
「去年、守の宮の北に新たにできた超高温度焼却センターで焼くのかしら」
「知らないよ」
「ゴミを燃やした熱で市民やすらぎの湯をやっているわよ」
「こんど、行ってみるよ」
「それはそうと、ネコ危ないわね」
男は時刻が気にかかって尻ポケットからスマホをだして時計を見る。すると鼻に、猛烈なのが、つんとあがった。顔をあげると母は額にシワを寄せて鼻をつまんでいる。
「ナミダちゃん。またやったあ」
母は鼻声になって笑った。南側の縁側につながる観葉植物が置かれた通路にならぶ、青バケツの下が黄色く濡れている。ネコがマーキングをしていた。
「やるのは、そこだけ? 」
「いまのところは、ここだけね」
「バイトから帰ったらそこの床はぼくがお湯で洗うよ」
「たのんだわね」
「ペット消臭だけ。シュッシュしておいて」
「わかったわ」
「去勢手術の件は来月でいいかな。年金は偶数月にでるから」
「そういえば、大分の国東市役所のタオさんって男性から電話があったわ」
「こっちにつくと生活保護は解除される。ちゃんと帰省したか、その確認だとおもう」
いま男は障害者年金で暮らしている。九州にいたときに男は生活保護を申請した。
多尾とはコロナが始まる前の年の川舟祭で知り合った。多尾は地元の役場の人間だった。男とおなじ歳だった。
夏、漁港に浮かぶかがり舟に、豊漁をねがって火を焚(た)く。ガソリンが敷かれてあるのかどういう原理かはわからないが、杓(ひしゃく)ですくった海水をかがり舟にまくと、夏の夜の闇に火柱が大きく舞いあがる。それを見にひとは陸地のへりに集まる。アスファルトに輸血車が一台止まって脇に設置されたテントで粗品のトマトジュースを二人で飲んだ。話が、春に男が参加した武蔵町のマリンピアで開催された釣り婚お見合いパーティーの話題になった。
「おうそれな、そりぁあおれが福祉課に移動になる前に企画した婚活パーチーですよ」と多尾は言った。
国東市役所では、それまで婚活事業全般を担当していた人権同和対策課は政策企画課に名前が変わった。それにより人事は再編された。
明くる年、多尾は福祉課に移動になった。
「きみ。やっぱさあ、これって左遷かなあ」
かがり舟から火柱が勢いよくあがって舟に乗った褌(ふんどし)姿の男は漆黒の海へ飛びこんだ。
多尾は飲み終わったトマトジュースの空き缶を手にもって立ちあがる。左利きの多尾は胸をそらせて大きく振りかぶる。空き缶は多尾の頭上の高いところで止まる。左腕に、交通整理係の黄色い蛍光ビニールの腕章が光った。
空き缶の黒い影は光の筋がゆれる黒い海に落ちた。
「ミヨちゃん。マネしちゃダーメ」
女の声が左から聞こえた。
「きみ障害者年金と生活保護制度ちゅうはまったくのベツモンじゃぞ。障害者年金受給者じゃろうが生活にこまっちょれば、生活保護申請は、できる。きみそれは知っちょるのか? 」
男は首を横にふった。
暫(しばら)く男と多尾は、まるで江戸切り絵のようになった真っ黒な漁港の影をながめた。それから多尾は目をほそめ、小声で、四はイカンじゃろうが。と言ってまた喋りはじめた。
「きみが生活保護申請をして、決定通知書がおりりゃあ、きみの年金の額ならばよ。アト二三万はもらえちょるはずじゃがのぉ。しかし四万はもらえんじゃろうが。それでも生活の足しにはなろう」
多尾それから頭を描いて「わしは学はねえし、育ちは山んなかで、地頭は悪りぃが。じゃがよ。こまっちょる人間を見てみぬふりはできん性分なのよぉ。国東役場のタオさんっちゅう人間はよ」
両手をテーブルについて多尾は席をたった。
それ以来多尾は、男の生活保護申請から民生委員へ提出する意見書・連絡票の書き方、最初の生活保護決定通知書がとどくまで、面倒を見た。
もともと男には障害者年金が偶数月に十六万弱が受給される。生活保護決定通知書は男の手元に無事に届いた。多尾のおおかた言ったとおり、毎月三万弱が支給されるようになった。
で、それで生活は本当に足りたのか。と、母は男に一度も訊(たず)ねたことはない。男が帰省した理由は、ベトナム北部の山の中に拠点を置いた中国人系詐欺グループからFX投資詐欺に遭って二百万をだまし取られ、すぐにクレジットカードは止められ、生活の首はまわらなくなった。それで男は実家に帰ってきたのだった。
男は靴ひもの蝶々の輪が左右対称おなじ大きさになっているかをいまいちどしゃがんで確認をして結び目をつよく固めた。あっ。
男は弛(ゆる)んだ股に温かいものを感じた。尿が漏れたのか。数年前からはこんなことは頻繁になった。背に母がいた。いったん部屋にもどってパンツを履き替えるのは憚(はばか)られた。ロードバイクのペダルをこいで道中で、乾くと良いが。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
男は内股ぎみで立ちあがってネコをなでた。
母がネコを祖父母の位牌のある仏間へと追いかける隙に、男は玄関をあけて、ロードバイクを推して家をでた。
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