物語に命が吹き込まれた瞬間
まだ、書きかけだが。上記のレジュメ(美月、蒼ヰ、三橋、三人の動静)
物語が動きはじめた。
注意)
この記事は、ぼくの個人的な創作メモであります。ですので、だれのためにもなりません。読まなくとも良い記事であります。
これは、文章指南を受けたプロの作家からいわれたことを実行した。
一日の空白を埋めよ。
これは、本稿、決定稿以外でも、物語の世界を筆者が把握しておきなさいよ。という意味だろうとおもう。
とはいえ、氷山の理論(アーネスト・ヘミングウェイ)なるのもあるのだが、簡単にいえばこうだ。
筆者が物語の隠れている8分の7に知悉しているのなら、書くべきは8分の1でいい。
上記は、ネットから引っ張ってきた一般的な「氷山の理論」の解釈だ。
だがこれは、誤解されがちだ。ぼくが手にしている『ヘミングウェイ短編集』の編訳者の西崎憲氏は、下記のように解釈している。ぼくは西崎憲さんのこの言葉こそ、真だとおもう。
「書き手が熟知していることだったら、省略しても構わない。氷山の表面上に現れた部分、つまり八分の一を精密に書けば読者は残りの部分についても書かれているような感覚を持つはずだし、その省略は作品に力を与えてくれる。しかし自分が書いているものについて知らないという理由で省略してはならない。それをした場合、そこに残るのは空虚だけだ。」
ヘミングウェイが言っているのは、ただ単に八分の七を省略すべきだということではないだろう。つまりは自分が書くものについてはよく知っておけ、ということのようである。(西崎憲)
ぼくは決してアンチラノベじゃない。むしろ好きだ。けれども、あまりにも、小説の世界を、無責任に読者に丸投げしすぎて、空虚としかいえない小説が多い気がする。
ただ、文字数を稼ぐようにつらつらと書けばいいのか? 筒井康隆もいっているが、否。ぼくはあるとき「もしや、ラノベとは、ただ無駄な文字をシャワーのように浴びる、その感覚がこそが、ライトノベルを読む心地よさなんじゃないか?!」とハタと思ったことがある。それも立派な読書だし、時代の潮流かもしれない。
よく考えれば、レジュメ、プロットを作る作家には、作り込みは必須のことかもしれない。
以前まで、ぼくは、純文学を書いてきた癖で、文章を書きながら物語を展開、動かしてきた。短編(100枚程度)くらいならそれでいけるんじゃないか。と高をくくっていた。だが今回、本稿には描かれないかもしれないキャラクターのバックグラウンドを書いてみて、やはりそれはちがうと思った。
たまに「この出版原稿は250枚の作品だが、じつは元々は3000枚ほど書いた原稿をどうにか、その枚数に収めた」というような作家の内輪話を聴く。
世界的な名作だが、安部公房の「箱男」は(以下、wikiより抜粋)、
『燃えつきた地図』の次に書かれた長編であるが、安部公房は『燃えつきた地図』発表直後、次回作の構想を、「逃げ出してしまった者の世界、失踪者の世界、ここに住んでいるという場所をもたなくなった者の世界を描こうとしています」と語り、それから約5年半の間、あさってには終わる感じで時が経ち、書き直すたびに振り出しに戻っては手間がかかり、原稿用紙300枚の完成作に対して、書きつぶした量は3千枚を越えたという。
こういう話は、ほかに枚挙にいとまがない。
書いたそのままの量が、じぶんの作品の質の向上になれば、目を瞑ってパチパチと、明後日のほうをみながらでも、なにも悩まず延々と文章をかきつづければいい。
でもそれって「バッティングセンターでありえない速度の180kmの豪速球がバンバン打てるただの素人」ってことに他ならない。10割で打ち返せるとしてもそれはやはり、自己満足だ。
が、プロ野球選手はちがう。180kmのピッチングマシーンは打てないけど、対戦するプロ投手の球種に(もちろん得手不得手はあるが)対応できる。対応させる。ヒットを打つ。それも、ボテでもゴロでも、ヒットゾーンに3割うち返せれば、もう日本を代表する、一流のバッターとなる。つまり、観客を魅了するプロ選手だ。
観客(読者)は、プロの素振り(捨てた原稿)なんか知らないわけです。
レジェンドの王貞治(安部公房)クラスになって、それも後年になって初めて「いやぁ、やっぱりあんだけ凄まじい素振りを、あんな膨大な数の練習をやってたんだ」となる。
マクラが長くなったが、前回の「1月17日の動静」はそれであった。
ぼくはとくに「蒼ヰ瀬名」と「三橋眞也」の1月17日の半日の動静で三橋が日高を探して漁村をあちこちあるいたなかで、病院のなかの「事務員ら」と「狭山巡査長」をそれも「群像劇的に描くこと」で「日高健治」なるキャラを浮き彫りにできた。
「群像劇」的に描く?
そうである。これはぼくの過去の記事の文脈になるが、宮部みゆきの「理由」と貫井徳郎の「乱反射」がまさに群像小説(それも最高品質の!)だった。それを読んでいなければ上記の「動静(レジュメ)」はかけなかったと思う。今後の財産になった。
昨日の執筆時間はぼくにとって、まるで原生林のジオラマをつくり込んでいくとき、小人になったぼくがそのなかに踏み込んでいって、一本一本生えるすべての樹を、360度まわりからぜんぶ、その写真を収めていって、その森全体を浮き彫りにするような、そんな感覚を感じた。
あと、これもまた個人的な備忘録(これ自体がぼくの創作note)ですが、
(創作に使うか未定のキーワード)
三橋眞也になりすました、田川勇作が、北関東から流れてきた湾岸労働者だった場合、こちらの田舎の言葉は、話せない設定になる。
すると、こちらで三橋眞也の虚像を作るために、周りに嘘をつくことになる。三橋眞也はこちらの高校を出て東京の大学に行って戻ってきたという。帰ってきてからも東京言葉を話している。
葬式、蒼ヰの父(OKか)、か安藤の祖父(NGか)、の死。葬式に集まる村人のうわさ話。
三橋は日高の顔をまじまじと見つめた。ぎょっとした。背筋に冷たいものが這いあがってくるようだった。落ち窪んだ眼球には焦点がなかった。
狭山巡査長は、次の日には駐在所のデスクに座っていつものように仕事をしていた。始末書も罰も受けていないようだった。