冒頭で出会うVol.17_大学病院
なにが普通なのかわからなかった。ここは大学病院の心療内科の待合ロビーだ。ぼくはながい待ち時間をつぶすために文庫本を開いて物語にのめりこんでいた。ここが病院(さらには大学病院の精神科外来前の待合ロビー)だってことさえ忘れていた。それは突然に起こった。
ぼくの斜め前の、みどりのビニールの長椅子に、寝そべるようにすわっていた、オレンジのシャツを着たでっかい子どものような体格のいい男性が突如、大きな声で喚きだした。とてつもない金切り声だった。
「きぃぃきぃいきぃいいいいぃ〜きぃいあゃぁきゃぁ〜いいぃぃぃぃ〜」
オレンジのシャツを着た患者のさけび声は、その場にいあわせたすべての人間を不快にさせた。待合をかねる大学病院の心療内科の廊下は一瞬、騒然となった。
待合ロビーの廊下は、ぼくのほかに老夫婦やこども連れの女や、サラリーマン風の男がいた。けれどぼくを含めみんなはまったく騒ぐことはなかった。ぼくだってオレンジのシャツを着た患者のようになるかもしれないんだ。ほかのみんなもそれを知っているようだった。ぼくはすぐに落ち着きを取り戻した。周りを見ると皆、また新聞に目を落としたり話しに興じ始めている。ぼくも文庫本に目を落とした。そのときだった。
前方の廊下の角から、五名の男性看護師が一斉に走ってきた。それからオレンジのシャツを着た患者をとり囲んで、羽交締めにした。
「佐々木さん、ダメ。ほかの患者さんに迷惑かかるから、ね。普通にしよう。病室もどろう」
胸に「看護長」のプレートをつけた九条という男が、ほら、個室にまた入れちゃうからね。などといっている。さらに叫び声は大きくなった。
「ぎぃぃ〜ぎぃいぎゃあああぁぁあぁ〜ぎぁあぁ〜ぎゃあああぁぁあぁぁ」
オレンジの男の悲痛な声は、九条の男への拒絶でもなんでもないようだった。羽交締めにあった人間の当然の生理反応のようだった。オレンジのシャツを着た患者はからだ全身の筋肉と硬直させ、肩や腰や腕や太ももを掴まれ全身をぶるぶるとふるわせ、ことばにならぬエネルギーを放出している。頭でまとまらない意志のようなものを喚いているようだった。むしろそれは動物としては自然な行為で、彼は恐怖に怯え、じぶんで制御できなくなった神経や器官や筋肉に怯え、ただ助けを呼んでいるだけなんじゃないか。もしや「ほら大丈夫だよ、怖がらなくていいんだよ」とぎゅっと静かにどこまでも抱きしめてもらいたい、それだけなんじゃないか? ぼくは邪推さえする。
「佐々木さん、普通のことができないの、ダメだよ。ほらみんな見てるんだから」
「ぎゃあああぁぁ〜ぎぁあぁ〜ぃぃ〜ぎぃいぎゃあああぁ〜ぎぁあぁ〜」
オレンジ色の男性はどうやらぼくらのような一般外来の患者じゃなく閉鎖病棟の入院患者らしかった。
「それ以上、騒ぐと、拘禁室に入れるぞ」
看護長の九条は、オレンジの男に凄んだ。それは脅し文句にも恫喝行為にも聴こえる。周りを見るとみんな眉を顰めている。
ぼくは静かに本を閉じる。じぶんをおちつかせようと深呼吸をする。だけど、ぼくの怒りは収まらないようだった。ぼくの身体が震えている。腹の底から凄まじい憎悪にも似た怒りが込みあがってくる。この大学病院が崩れるほどの大声で叫びたかった。
「ここは病院だろうがっ! ここは東京駅じゃねえんだよ! 普通ってなんなんだよ!」
叫ばなかった。まわりが看護長を冷たい目で見ている。オレンジのシャツを着た男が5人の看護師に引きずられていった。
白目を剥いて天井をみあげて、口角から泡を吹き、涙をながし、きゃ〜ああああぁあぁあぁ、とさけびながら廊下で小さくなって消えていく男とぼくは、一瞬、目があった。ぼくはそのオレンジのシャツを着た男のところへ駆けていって、大丈夫だ、きみは絶対に悪くない。そうやって抱きしめてやりたかった。