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日高真美インタビュー / 浦嶋デスク / 「仮・霧岬の炎」(スケッチ)

――まずは、ご自身のことを少し語っていただけませんか? 

私は日高真美といいます。日高健治の実の妹になります。四十二歳です。いまは七福食品で事務をやっております。(ちなみに七福食品は東九州では老舗の即席カップ(また袋)麺の会社である)バツ一です。大別市の中心街から山手にのぼった内海が見える小さなアパートの二階で息子三人と四人暮らしをしています。息子は上から健侑(中二、十四歳)、慶吾(中一、十三歳)、柚葉(六歳)です。

――あそこの遊具で遊んでらっしゃるのが柚葉ちゃんですか?

(遊具からとびおりた長髪の子が日高真美に手をふると彼女はそれに応える)やはり女の子に見えますか?

――失礼しました。男の子だったんですね。

はい。服とか靴とかどうしても女の子っぽいのを選んじゃうんです。親って馬鹿ですね。ふたり続けて男の子だったでしょう。私、結婚後の当初からなぜかどうしても女の子が欲しかったんです。男の子を年子でふたり産んでからもまだどうしても女の子が欲しくって悶々としていました。三人目なんか産んだら生活が本当に厳しくなるんだぞって旦那に口酸っぱくいわれていたんですけどこれが打ちどめだって頼んで産んだら、なんの因果かやはりこの世に産まれでてきたのは男の子でした。笑。(柚葉くんに手をふる日高真美)でも、結局なんだかんだあっても一番下の子って、女の子でも男の子でも関係なくすっごく、可愛いんですよ。母である私が末っ子の柚葉をいちばんに可愛がってるのを長男も次男も当人の柚葉もみんな知っちゃってるの。笑。それと別々の命の男の子を三人も産んでからよくわかったんですけど、血のかよった兄弟って本当に不思議な共同体といいますか変な言い方ですけどヒエラルキーを形成するんですよね。真面目で成績もいい健侑は長男の典型で責任感があって実直で几帳面な性格です。だからいつも私から「大丈夫、一番上のお兄ちゃんだからってひとりで抱え込まなくていいんだよ、家のことは家族みんなでやろうね」っていっても、離婚してから父親が居なくなってから家族のまとめ役になってくれています。まだ中学二年生なのに「九大に受からなかったらぼくは就職するよ」って自分の口からいうんです。私からウチは貧乏なんだから三人分の大学の教育費はいくらかかるんだよとかまったくいってないのに。おおらかだけれど照れ屋で緊張しい次男の慶吾は幼少の園児の頃から妙に女の子にモテてて、なにかと要領がよかったんですけど柚葉が生まれてきてから急に私に甘えてこなくなっちゃって。小学に入ると問題を起こすようになったんです。ショッピングモールや駅前銀座や駄菓子屋での万引きとかですけど。その点、柚葉はちょっと違うんです。ちょっといいかたがオカルトっぽくなっちゃうかもしれないんですけど、私がずっと女の子が欲しいって願っていたというのもありますし生まれてすぐに女の子の服とか着せていたり名前も「ゆずは」で女の子にもとれるような名前にしてしまいました。そういう怨念っていうんですかね。お腹のなかにいるときから伝わっていたのか身体の下にはちゃんとおちんちんはついてるんですけど、まさに私が本当に思っていた通りの女の子のようになって育ってきちゃってて、私でも怖いくらいです。あと、柚葉に関していえばなんですけど、なんだか罪の意識がないっていうか善悪の観念がそもそも欠落しているっていうか、善とか悪とか罪とかが何だかまだまったく分かっていないようなんですね。(砂場から鳴き声が聞こえる)あ、すみません。少し失礼します。(日高真美は砂場へと走っていった。ベンチから砂場を見ていた私からは勝手な判断はつかないが砂場で柚葉くんが他の子と揉めていたようだった)

――少し休憩しますか?

いいえ、結構です。こんなコロナ禍の時期でしょう。外でのおしゃべりは本当に気持ちがいいんです。日頃はパソコン相手にエクセルで表計算ばかりですから。春の青い空に映える白いコブシとハナミズキ。できればこんなマスクなんかむしり取りたいわ。えっとどこまで話しましたっけ?

――末っ子の柚葉くんが何だか善悪や罪の意識に欠けているとか。

 あ、そうそう。柚葉を見ているとハッとするときがあるんです。あの女の色気のようなのってやっぱり前夫の血なのかなって。そう思いながら三兄弟を見てみると健侑と慶吾は私に似ていて、柚葉は前夫に似ているかもしれませんね。柚葉が将来、前夫のような人間になるのかと思うと気が重くなりますけどね。笑。この間は家族でこんな問題がありました。ある日、私が財布を持って出かけようとすると中身のお金がなくなっていたんです。私は部屋にいた三兄弟のだれかがお金をくすねたと思って子どもを部屋に座らせて叱ったんです。私が一人ひとりにキツく詰め寄りますと慶吾がおどおどし始めました「あなたなの! 正直にいえば渡すのにいったいいくら欲しいのよ!」って黄色い声をだしていうと、今度はいきなり長男の健侑が柚葉の胸ぐらをつかんで頭をげんこつで殴ったんです。すると柚葉はわんわん泣いちゃって。「お母さんは、本当にぼくらのことを分かってないんだ。慶吾は柚葉にそそのかされたんだよ」「そうなの! 」って慶吾を問い詰めました。実際にそうでした。柚葉は駄菓子屋でお菓子とオモチャを買うからお母さんの財布からお金を取ってきてくれ、捕まりっこないよ。黙っていればぼくがママにいいようにいうから。ママはぼくを絶対に叱らないからと。じつは私、柚葉のその言葉を聞いて心臓が止まりそうでした。たしかに私、柚葉を叱れないんです。それで健侑が柚葉に向かってテメェそれを解ってやったのか確信犯だなふざけんなって殴ったんです。ウチでは健侑がゆいいつ柚葉を叱る役目になっています。その柚葉が血を受け継いだ格好となった前夫は、大別ケーブルテレコムの地方局のテレビマンでした。彼、私には「俺は大別県民を抱腹絶倒に巻きこむバラエティ番組のプロデューサーなんだぞ」っていっていましたけど、いつも携帯の向こう側から弁当の予約はしっかり確認しろ領収書は忘れるな、レンタカーの用意はできたのか、キャメラの数がどうのって声が聞こえていました。ですから財政難の地方局のディレクターよりもアシスタントディレクターに近いようなポジションだったんじゃないかなと素人ながら思っていました。私には九大の法学部をでてるっていってたんです。だったら弁護士でなくとも行政書士だとか社労士だとかなんでもできるんじゃないんですかね。なんでテレビマンなのかしら。そういえば夫の大学の卒業証明書、みたことないわ。え、うそまさか、学歴詐称で私と結婚? となると九大法科卒って嘘だったのかしら。夫との馴れ初めは十五年前です。私が大別女学院短期大のサークルのO G会で集まったときに知り合いました。そのときの幹事が「私たち結婚適齢期。私も真美もここにいるみんな二十九歳」って、婚活もついでにって男性陣も集めたんです。幹事からも彼は九州大学の法学部出身だって、背が高くて一重瞼で二枚目でした。着ている服も高価そうでオシャレだしみんなで顔を見合わせたほどでした。ああいうマスクっていうのかしら東京とかにしかいないものだとおっていましたから。まさか平凡でなんの取り柄もない私に声をかけてくるとは思いませんでした。後でわかったことですが他のみんなにも電話番号を教えていたんですけどね。お話も上手でそのときの前夫はとても輝いてみえましたね。一緒にお酒を飲んですぐに付き合い始めました。それで一番上の健侑が生まれてできちゃった婚。それから柚葉が生まれてすぐに浮気が発覚したんです。それから浮気が立てつづけに三度あって離婚。笑。

――(日高真美さんの話が饒舌になってきた頃合いを見計らって、この話を切りだしたつもりであったがこの質問は新人記者として私の失敗であった、文脈の流れにより、日高真美さんを含めるすべて読者の誤解を招かぬように質問の全文を掲載する)日高さんに妹さんがいるなんて、知りませんでした。いまは週刊毎朝の記者をやっていますが(霧岬漁協の名刺を渡す)じつは日高さんとは同僚だったんです。仕事では大変お世話になりました。日高さんはぼくが入社してすぐからのずっと上司でかなり可愛がってもらいました。酒癖は悪かったですけど心根は優しい。裏表のないぼくにとってはいい上司でした。

(蒼ヰ記者の言葉で、日高真美の顔が急にこわばった)私にはよき兄ではありませんでした。

(それから、長い沈黙があった。5分くらいだったろうか)

――いま無理にお話にならなくとも構いません。取材期間はまだあるので時間をあけてまた私蒼ヰがこちらへ伺います。日高真美さんがお話になりたくなった時点でご連絡くださっても構いません。ぼくは真実をねじ曲げるような記事は書きません。お約束します。

いや、ちょっと考えごとしていただけなんです。そもそも真実。って、いったいなんなんだろうかなって。さっき私、前夫が本当に九州大の法学部をでていたのかって笑ったでしょう。それってよくよく考えてみたら、本当は簡単には笑っちゃいけないことなんじゃないかって。人間という生き物はよく、それも平気で笑うでしょう。テレビを観ても映画を観ても、それこそこうやってお話しをしていてもヘラヘラと笑うでしょう。笑うって行為って見逃す行為なんじゃないのかなって。いや笑っていながら心から絶対に見たくないものに目を背けるっていえばいいのかしら。今の若い子って笑ってスルーするとかいうじゃないですか。本当だったら怖かったりうざかったり面倒だったりと、本来自分が直視すべき現実を笑って見過しちゃうことですよね。そうやって私は夫との飲み会の出会いから離婚届を突きつけたときまで笑って過ごしてきたんじゃないかなって思ったんです。こうやって週刊毎朝さんが兄である「日高健治の真実を描きだします」なんていいますけどね。いやお宅がどうのって訳じゃないんですよ。でも真実ってなんだかカッコいい言葉に聞こえるじゃないですか。でもそれって、ただ単に伝える側の論理じゃないんですか? 真実っていうのは無数の解釈によって笑って見過ごされた、あらゆる偏見や勝手な嘘や誤解とかのいびつな総合体なんじゃないかなって、いま思ったんです。いまから私が兄、日高健治のことをじつの妹の日高真美が、私の言葉で語るとするでしょう。でもそれを読んだ読者は実際になんて思うのかなって。印字された文字って一通りしかないわけですよね。例えば「日高健治は悪だ」って。でも国民全員がまったくおなじ悪だと思うことないですよね。それとおなじように、言葉って、とりわけ週刊誌やゴシップ雑誌や今回起きた限界集落の漁村の伝聞って、それが事実であれ真実であれ真っ赤な嘘であれ、大勢で語られれば語られるほどさらに乱雑に、バラバラになっていくもんなんじゃないのかなって思うんです。私、テレビと新聞と週刊誌と映画と小説の違いがわからなくなっちゃった。

――ここで日高真美は場所を移したいと私に申しでた。公園のベンチでのインタビューは小一時間が経過していた。このときすでに夕暮れの近くになっていて一旦、アパート脇にある公園から家に帰って柚葉くんを寝かしつけたようだった。私は公園のベンチで日高真美が戻るのをまっていた。公園のベンチではブルージーンズにネイビーカラーのパーカー姿だった日高真美は、二十歳は若返ったような黄色の膝丈のキュロットスカートにピンクのボートネックニット姿で現れた。それから日高真美と私は、公園からでた通り沿いにあるアパートが見える喫茶店に入った。窓際に向かい合って(柚葉くんが寝る部屋が見える位置に彼女は座った。起きると部屋の明かりがつくのだという)三時間ほど彼女は日高健治について語ってくれた。


2022年4月26日、午後8時45分、東京都内、雑誌週刊毎朝編集部。

「おい!蒼ヰ!どこだぁ!」

 廊下側から、ぼくの名を勢いよく呼ぶ浦嶋恒雄デスクの、喉が潰れたダミ声が聞こえてきた。ぼくは立ちあがろうとすると編集部にちょうど現れた浦嶋デスクは「そのままそこに座っとけ、おれがそこにいく。原稿、プリントアウトしておけよ。パソコンも閉めるなよ」ぼくは浦嶋デスクに睨まれたまま固まっていた。座っとけと言われたが座ったまま原稿のプリントアウトはできないのでコピー機に走って行ってプリントアウトをして自分の席に戻った。

浦嶋デスクはぼくの原稿を三度、読みかえした。

「で、録音の音源はどこだ?」

 抽斗からスティックレコーダーを取りだしてパソコンの上におくと浦嶋デスクはUSBをパソコンの口に差し込んで音源を流した。

「だから、あんたいったい、なにが聞きたんだよ! ちょっと待ってろよ。柚葉テメェ! ほかのガキと喧嘩すんなつってんだろうが! 何度いったらわかるんだよ。泣いたってオメェのせーだろうがバカ! すいません、きつくいって聞かせておきますから。テメーは痛てぇーじゃねーよ。マジで次やったらぶっ殺すぞ、クソガキが!」

――少し休憩しますか?

いいよ。時間がもったいないよ。今日だって会社サボってきたんだから。終わったら久しぶりにこれ、パチ行きたいんだよ。第一こういうのってギャラくれんの? それにこんなコロナ禍の時期でさ、家では食欲と性欲の旺盛なガキが二人もいてさあ、会社でも結構ストレス溜まるんだよ。見かけによらずほらけっこういけてるでしょ。(はい)いいよ世辞は。(いや冗談ぬきできれいなかただと…)うぇ〜いどこ見てんのよ〜、笑。冗談よ。でもこうやって外で若い男とのベシャリはいい気分転換なんだよ。日頃はさあ豚だか馬だかわからないような間伸びしたアホ面の上司相手に尻触らせて茶を配ってさあ、パソコン相手にエクセルで表計算ばかりでさやんなっちゃうよ。こんなマスクだってむしり取ってやりたいよ。でどこまではなしたんだっけ? アンタ火、持ってる?

浦嶋デスクはレコーダーを止めた。コツコツコツ、コツコツコツ、コツコツ、浦嶋デスクがぼくの机に置かれたノートパソコンの角をボールペンで叩いている。

「蒼ヰ、お前いったいなにが書きたいんだ? 」

 ぼくは黙っていた。本当に頭に何も思いつかなかった。

「こういう、美談でまとめるのは、通称、泣かせ。っていうんだ。火災や震災の記事で消防士や自衛隊の仕事の辛さをたたえる物語をよんでさあ、おまえが読者だったら感動するのか? おまえはそういう美談で読者を感動させたいのか? 」

「違います」

 キッパリと言った。つもりだったがすぐに自分でも真意がわからなくなった。

「じゃ、いったいぜんたいおまえは記事でなにをかくんだよ! 蒼ヰ瀬名くんよ! 忘れもしない先々月の末日だよ。おれの携帯に、ある電話がかかってきてよ、先方は、よ浦嶋、元気か。おれ久しぶりにまた蒼ヰっていう田舎もんの内弟子をとったんだよ。そこでだ、ネタだけはあるから。こいつ蒼ヰの作家の修行の一環だとおもってよろしくな。ってんで、いきなり先月からこの週間毎朝編集部出身の作家美月華樹先生からきみを預かったわけだよ。ウチでよ! 」

 浦嶋デスクは捲し立てた。

「はい、すみません。」

「すみません。じゃないよ、すみません。のひとことで物事の決着がついたら警察いらないよ。お前がかけなかったら、誌面に穴が開くんだぞ! 美月先生の面子も雑誌の紙面もまるつぶれだよ! そのうえさ、おまえしかかけないネタだからおまえはデスクや編集長に記事をかく任を仰せつかったんじゃないのか。おい貴様! 貴様こそ霧岬漁協葬儀課首謀による年金不正受給事件と死亡届証拠物隠滅事件の当事者だろうが! 」

「はい」

「死体は見たのか? 」

「え? し死体? 」

「死体だよ、変死体。東九州全域強盗放火殺人事件で燃えた白骨死体の焼死体だよ。蒼ヰはその目で見ていないのか? 」

「はい見てないです」

「はいはいらないよ」

「はい」

「おまえが警察にしゃべった調書はおれら世間一般人も知ってるわけだよ、じゃお前、霧岬漁協関係者でおまえだけ事件のこと知らなかったってわけか?」

「え、あ、そういうことになります。安藤真帆もですがぼくと彼女が事件の真相を知っていたとなると警察に捕まっていますから」

「じゃおまえ、北海道や富山や東京にいる読者となにもどこも変わらないじゃないのよ」

「はいどこも変わりません」

「おい! 貴様! 寝ぼけてんのか! 」

「すみません」

「おまえ、あれか、なんだっけ、ほら、あれだ。ゆとり世代か」

「はい」

 浦嶋デスクはうなだれた。ぼくはゆとり世代をぜんぶ十把一絡げで一括りにしないでほしいと訴えたかったがやめた。浦嶋デスクは去り際にぼくの肩を叩いた。

「もう一度、録音を聴いてみろ、日高真美が笑いがどうの真実がどうのってところだ、あそこにヒントがある。それに、警察がまだ知らない情報で、蒼ヰ瀬名だけが掴んでる情報ってのがだ、必ずお前の頭のどこかにあるはずだ。それがネタってやつだ。三月さんから聞いたんだが、お前はプロの小説家になりたいんだろう。それで作家の三月さんに弟子入りしたんだろう」

「はい、そうです」

「記者と小説家の違いはわかるか? 」

「わかりません」

 浦嶋デスクは親指と中指でこめかみを摘んで目を瞑って天井を見あげた。大きなため息をひとつついた。

「小説家ってのはな、嘘をでっちあげて真実を暴きだす言葉の詐欺師だ。覚えておけ」

 浦嶋デスクは編集部から去っていった。

 ぼくはスティックレコーダーをなんども再生した。

――無理にお話にならなくとも構いません…ぼくは真実をねじ曲げるような記事は書きません。お約束します。

週間雑誌がいう真実っていったいなんなのよ! どこに真実があるのよ! 兄がなにをしたっていうのよ! 警察が全国指名手配しただけじゃない! まだなにもわかってないくせに決めつけないでよ! なに話しても嘘だと笑われる推定加害者の遺族の気持ちがアナタにわかるわけ? 笑いは人を見下す仮面よ。軽蔑の仮面。軽蔑する笑いの仮面をつける動物は人間だけ。人間は軽蔑することで自分を安心させているの。周りと違うと除け者にされる自分を安心させたくて恐怖で笑いの仮面を外せなくなった。アナタだってテレビを観ても映画を観てもそれこそこうやって私と話しをしていてもヘラヘラと笑って自分を安心させているんでしょう。ほら笑ってるじゃないの! 違いますじゃないわよ。笑ったのは事実じゃない! さっきのアナタの笑いは私に心から絶対に見られたくないものに目を背ける行為なんじゃないの? またそうやって笑ってスルーすんなよ! そうやってアナタはいままで本来直視すべき現実を私を笑って見過してきたように生きてきたんじゃないの? 私だって夫との飲み会の出会いから離婚届を突きつけたときまで笑って過ごしてきたと思うわ、でもこうやって週刊毎朝が、日高真美の実兄である日高健治の真実を描きだしますなんていってもねアナタのいう真実なんか嘘くさいだけよ! ただ単に伝える側の論理でカッコいい言葉つかってるだけでしょう。真実っていうのはないのよ、存在しないの! 妹が兄の日高健治は無罪だ悪だっていってどうなるのよ。国民全員がおなじく悪だ無罪だと思うことなんかないわよね。

カチ、録音を止めて気づいた。自分が文章をこねくり回した原稿より、文字起こしをしたまんまの記事のほうが読者の心に百倍は伝わる。がこれをそのまんま記事に載せることは憚られた。それからぼくは頭を抱えボイスレコーダーをきき三時間を過ごした。深夜を回っていた。原稿の締め切りは明けた今日の0時だ。ぼくはまた自分がかいた原稿を読み返した。編集室にはぼくしかいなかった。都内某所の毎朝ビル四階の編集室の北の窓からは浜離宮庭園が見下ろせた。学生の頃、築地中央卸売市場の氷作業員でバイトをやっていたがいまは閉鎖され、そこだけ漆黒の跡地になっていた。まるでそこに宇宙から指定された未確認飛行物体が着陸しそうなほどに黒い。

「アホいちゃ〜ん」

 廊下の南側から、酒焼けしたような、かつ上機嫌でドスの効いた低い声が、聞こえてくる。三時間前に聞いたばかりの聞き覚えのある嫌な声だ。振り向くまでもない。浦嶋デスクだった。息が気絶級に酒臭い。おなじくらいに口臭がヘビー級に酷かった。合わせて即死級だ。

「アホいちゃ〜ん。まだ帰らんのか〜い」

 浦嶋デスクはぼくにしなだれかかってきてから隣の椅子に腰掛けた。

「ええ、時間がなくって、デスクがいわれたその…」

 デスクの上着を見てぼくはギョッとした。浦嶋デスクが着ている上着は女性のリクルートスーツだった。シャツは血塗れだった。顔はよくみるとキスマークだらけで左耳が血に塗られて半分ちぎれているように見える。下も女性用のスカートを穿いていた。つまり女装していたのだった。

「銀座の秘宴の真紀ママにフラれちゃったよ。バーボンをボトルで二本も開けたのにさ」

 銀座のクラブで酔ったペナルティかなにかで女装させられたのだろうか? ぼくはそれについては考えないことにした。ただ日高真美のいうとおり笑いはせず浦嶋デスクを見つめていた。だがデスクはどうやらぼくに叱ってほしいような潤んだ目をぼくに向けていた。そういう癖の持ち主なのかもしれない。首都圏で働くホワイト層の管理職では珍しくないのかもしれない。

「アホいちゃ〜ん。そういうの、もう気にしないきにしないの、ヒック。忘れるのも重要な才能のひとつです。」

 浦嶋デスクは酔うと日本語が丁寧になる傾向があるようだった。ぼくがここ数日見ているかぎり、デスクは酔えば酔うほど低頭平身になる。ひとつ試してみることにした。

「浦嶋! 」

「はい! なんでしょうか! 」

「きみはデスクとして自分の才覚をどう思っているのかね。週刊毎朝の編集部をまとめるキャップの長として自分をどう思っているのかね? ここでひとつ自己批判をしなさい」

「ああ! このぼくがぜんぶ悪いんです! この部署だけ売りあげが悪いのも、夕毎や日朝によくスッパ抜かれるのも一階ロビーの受付の契約社員がみんなブスなのもぼくのせいなんです! 」

「じゃあ、明日、出勤前に受付にいって今日のお前たちはとりわけの選りすぐりのワールドクラスのブスだな。とちゃんと伝えるか? 」

「そうさせてください、それこそぼくのためなんです。ぼくが自らのこの手でブスらをどうにか救済します! だってブスなんですよ! 」

「そもそも自らの手でブスをどうにかするっていうのはどういうことだ! 貴様、論点を逸らしやがったな! そもそも自己批判になってない! 」

 ぼくは浦嶋デスクのちぎれそうな右耳を殴った。デスクは恍惚の笑みを浮かべて机に転がった献血でもらったボールペンをじっと見つめている。インクで黒く光ったペン先のボールをどこか柔らかい肉に刺してほしいような目つきだった。その潤んだ目がぼくを見つめると、今度は浦嶋デスクがぼくの唇を奪いにきた。

「あぐっ」

 ぼくは浦嶋デスクのこめかみを容赦なく殴った。白目を剥き涎を垂らしながら浦嶋デスクはいった。

「ここはどこですか? 」

「え? ここは週刊毎朝の編集室です」

「アホいちゃ〜ん、ちゃうよ、ここはどこかって聞いているの? なんのビル? 」

「毎朝新聞社本社ビルです。その四階です。週刊毎朝の編集です」

「アホいちゃん違うよ、十階はなにがあるの? 」

「毎朝新聞社の編集部です。」

「アホいちゃ〜ん、じゃあ、十一階はなにがあるの? 」

「資料室です。あ!」

 コテ。浦嶋デスクは気を失った。ぼくは三時間前に浦嶋デスクがいったことを思いだしていた。「もう一度、録音を聴いてみろ、日高真美が笑いがどうの真実がどうのってところだ、あそこにヒントがある。それに、警察がまだ知らない情報で、蒼ヰ瀬名だけが掴んでる情報ってのがだ、必ずお前の頭のどこかにあるはずだ。それがネタってやつだ。三月さんから聞いたんだが、お前はプロの小説家になりたいんだろう。それで作家の三月さんに弟子入りしたんだろう」「小説家ってのはな、嘘をでっちあげて真実を暴きだす言葉の詐欺師だ。」

 ぼくは十一階の資料室に向かって駆けだしていた。

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