こどもの5分はおとなの5年
この言葉をいったのは、宮崎駿だ。
いった場所は、いつかのジブリ映画の完成記者会見の場所か、あるいは養老孟司との会談(または書籍のなか)でいったのか、覚えていない。
少しマクラを挿入させてもらうと、
以前、京都のときに安アパートに住んでいてぼくは家賃を直に家主の老人に手渡ししていた。いつもは妻の老婆が受け取るのだが、その日はある新春の晴れた日だった。ちょうど今頃かもしれない。二月分の家賃を払う時期だったかもしれない。家主さんが奥のこたつに居て、玄関まで挨拶に来てくれた。ぼくは上がり框に腰掛け、封筒を奥さんに渡した。
「蒼ヰさん、齢はおいくつかね」
家主はいう。
「こんにちは、いつもお世話になってます。ぼくはもう三十六です。最近はすごく時間が速く感じてなにをやっても追いつかないんです」
とぼくはいった。家主は窪んだ眼球を光らせていう。
「ぼくはもう八十もとっくに過ぎた、この年になるとね、一年が三日に感じられる。それくらい時間が速いんだ」
同時のぼくにはそれが理解できなかった。
それと宮崎駿のいう。
どういうことか?
ぼくはある小説を書いていて、しみじみと、いや愕然と悟ってしまったのだった。
上の掌編小説は、途中でテーマがずれてしまて別の話になってしまった。「少年の視点」から家族の問題へと捻れている。ボツといえばボツだ。が、「家族の問題」がテーマであれば纏まっている。
じつは子どもの一人称のみで語って少年に流れる時間だけを描きたった。だが外部(社会、家族)との時間軸との比較がないと少年の時間は浮き彫りにならない。そこでしかたなく母と父と(蛇足にも父の愛人までも)登場させてしまった。
この記事(あるいは上記の掌編小越)では、ぼく(筆者)はなにがいいたいかというと。
人間は人生のなかでいちいち感動する。人生で感じる時間とはの【感動(過去の記憶も含まれるかもしれない)】の「度合い」「量」「回数」「質」「密度」それらによっていちいち「時間が止まる」。
とまった時間で人生の尺が長く感じる。
逆をいえば、
まったくおなじもの(下記ではハンバーグ)を見て、感動を感じなければ、時間はそのまま止まらずに流される。スルーされるわけだ。
例をかく。
少年は朝食の食卓にハンバーグがでる。とする。
キッチンから母親の「今日の朝は、ハンバーグを作ったわよ」という声。
そのハンバーグは、5歳の少年の人生のなかで15回目のハンバーグだ。過去14回のハンバーグの強烈な旨味の記憶が蘇る。涎がでる。実際に見る。ハンバーグの湯気が立っている。ワインソースの匂いが鼻に突きささる。「あなたは和風おろしソースでいいでしょ」と母親が父親にいっている。がそんなものどうでもいい、割り箸で食べようか、フォークで食べようか悩む。テレビがついている。面白そうだ。だがハンバーグがまじ美味そうだ。朝からハンバーグが食べられるなんて!少し夜ご飯のためにのこしておいたほうがいいんじゃないだろうか?お父さんはあまり朝食を食べないから、自分のを残しておいて、お父さんのハンバーグの残りを食べて朝食にした方がいいんじゃないかな?「早く食べなさい」母が言う。実際に箸をハンバーグに突きさす。「なにやってるの、お行儀よくしなさい、ナイフとフォークで食べなさい」言われて、ナイフを突きさす。ハンバーグのなかから肉汁が出てくる。もうやばい!感動は絶頂に達している。突き刺したハンバーグを口に入れる。まじやばい!ウマすぎる!… 今度はワインソースをつけてポテトやにんじんを食べよう。ワインソースをつけた白飯がまじうまい!…
と、とんでもない回数の感動と、その感動の密度、が怒涛のようになって少年を襲う、そのあいだ、時間はいちいち止まって、時間の流れがゆっくりと感じられるわけだ。(上記の文字数を見ればわかるだろう)
だが、大人たち(母、父)どうだろうか?
父(あるいは母)は、そのハンバーグは人生で何度目のハンバーグだろうか?3500回目だろうか8900回目のハンバーグだろうか? 一流レストランのハンバーグだろうが手作りハンバーグだろうが、妻(あるいは自分)が作ったハンバーグの味には慣れてしまったかもしれない。感動は薄い。
ハンバーグの食べ方だって、自宅だ。そこはフランスの三星レストランじゃない。感動は薄い。時間が止まるはずなどない。さらに父は新聞を読んだり、テレビを見たりしながら食べていたら、ハンバーグの存在自体あやふやだ。夜になって、あるいは明日になって、ハンバーグを食べたことすら思いだせないかもしれない。だが5歳の子どもははっきりと覚えているに違いない。もしかしたら「ぼくは将来、さっきママがつくったハンバーグを超える美味しいハンバーグを作る職業になりたい」と思ったほど感動したかもしれない。
こんなにイチイチ感動する子どもは、1日が長いに決まっている。イチイチ感動して長い1日を過ごし過ぎて、疲れ果てるわけだ。
が大人は、昨日(あるいはその日)なにをやったかさえ覚えていない。無感動で過ごすというのは時間(感動)をスルーしているのだ。
宮崎駿の言いたいことはこれだ。
ぼくは、書き手として、物語では、いつも子ども(の目線)になって、イチイチを、文章に(描写)していきたいと思った。