三章、冒頭スケッチ(GM)20230430sun
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■ 三章(三月二十一日・祝)
「いいんだよ。おれは、余計なカネは払わねえんだ! 」
父の声だった。声は階下から聞こえた。男は取手をつかんだまま部屋に入りもどった。音はカチリ。小さく鳴る。だれにも聞こえないはずだ。しかし心臓はふるえる。
バイトに出勤する前だった。男はケータイをだして時刻を確認する。家をでるまでにまだ半時間の余裕はあった。
ラインに母からの未読メッセージがあって、男はひらいた。それは昨晩に送られたメッセージのようだった。
『明日の午前にお父さんは一度、家に帰ります。そのとき高崎の駒江病院の介護士さんも四人くると思います。家の風呂場や廊下や上り框や三和土や玄関などに手すりや歩行補助のための器具の設置、工事でバリアフリーができるかなど、その確認だそうです。決めるのはお父さんです』
「オザワさんね。でもですよ。補助金をご利用いただけければ、本人のご負担はほんのごくわずかなんです。また万一オオケガでもなすったら、それこそオオゴトでしょう。医療費用だってバカになりませんし、病院でまた半年も入院したくないでしょう」
沈黙があった。階下のふすまが閉まる音が聞こえた。
テレビとベッドがある父の居間に入って介護士たちはからだを硬くして正座をする。そんな絵面が男にはありありと頭に思い描くことができた。
男は部屋の小窓をあけて顔をだした。
真下に玄関が見える。東側は祖父母の仏間、西は両親の棟に沿って廊下だ。北の浴室へ行く角にあるトイレはここからは見えない。三和土には背丈が高い観葉植物が雑木林のように置かれ、シダ植物が植わる青い陶器鉢の横に咲くシクラメンの影にネコが座っている。
ガラガラ、と玄関が開いた。
「ただいまあ。あれ、ナミダちゃんこんなところに。オババは神社のそうじ当番をやってきました。ナミダちゃん、ほら外に出ちゃだーめ」
母だった。ビニール袋に草刈り鎌を入れた母は上を向いて男と目が合った。男はうなずいて父親のいる部屋を示した。ネコは母に何かを感じて、天井を見上げる。男と目が合った。
「あら来ていたのね」
玄関で脱いだいくつもの靴を見て母はいった。母はビニール袋を下駄箱の下におろして靴を脱ぎ始める。ネコは吹きぬけの階段を犬のように駆け上がってきた。
「おいっ! 」
ふすまから、父が怒鳴る声が聞こえる。父のその声は、吹きぬけの空間中にひびいた。
物心ついた頃から男は父が怒鳴るのが怖かった。
父は車が好きだった。三歳のとき父の愛車グロリアの窓に男が指で触れるとすごい剣幕だった。三歳だった男はからだを強張らせ泣きそうになった。父がこの家を建ててからは、居間に大型テレビを置いてそこで父はひとりでボクシングや総合格闘技などを見る。父以外はダイニングで食事をするがテーブルにも小さなテレビがあって母は耳鳴りのせいかボリュームをあげる。すると居間から「うるせえ! 」の怒号がとんでくる。
音量に関していえばそれは紛れもなく怒号だった。だが、父は決して怒ってはいない。父の怒号のなかには怒りの感情はふくまれていない。それを男が知ったのは大学の通信生になって大学図書館に通うために横浜に一人暮らしを始めてからだった。
最近、そういえば母は、父にいくら怒鳴られても動じない。
「ご足労、すみません。お茶でもいかがですか」
下から母の声が聞こえる。男は小窓を閉めた。
ラインにもう一つ未読のメッセージがあった。ミチからだった。
ミチとはマッチングアプリで知り合った。先月、男は婚活マッチングアプリでミチと数回メッセージを重ねてすぐにラインを交換し、そのあと男は即座にアプリを退会した。
男は婚活アプリを都合、三ヶ月間、課金をしてやった。
婚活アプリAIが男に推薦する相手は、男と同世代かそれよりも年上の年増女が多かった。アプリでマッチングしたある種の年増たちから受けた仕打ちは男にとっては手痛い現実ばかりだった。
男は九州国東半島にいたときになん度かお見合いコンパ、いわゆるオミコンに参加した。大分市までロードバイクで出向いて県主催のお見合いコンに参加したこともあった。婚活オミコンに参加した男はそこにある種の年増女たちが居ることを感じた。婚活アプリにもかならず、いた。それは実家住まいのある種の年増たちだった。四十路五十路で実家暮らしのとくに未婚年増は男には手に負えなかった。男は年増女と話が通じなかった。年増女とは対話をする余地がなかった。年増女がもつ価値の押し売りセールだと感じた。この年増女たちに十四歳があったとは男には思えなかった。
実家暮らしの未婚年増は自分の境遇は噯気(おくび)も出さずに男の顔を見て笑った。男に年収を訊(たず)ねる。車は何を乗ってるん? ビーエム? どのような仕事をなさってるん? へー。それって出版業界ですか?
「え? アンタ養育費を払ってないの? それはねえわな〜。養育費を払えないアンタは最低男だけど、もしアンタがこれから大成をしたとしてよ。こん後、自分以外の女や子どもに慰謝料や養育費を払いつづけるアンタとはアタシ、いやまずアンタとは絶対に無理やわな〜。っはっはっは」
別府で実家暮らしをする五十路女は男を見て快活に笑った。
婚活アプリでもそれはおなじだった。男にとって正直に自分を語ることは針の筵(むしろ)に正座をして焼けた油を呑む行為に等しかった。九州では特殊詐欺に遭ってクレジットカードは停止され、川舟祭でたまたま知った役場の多尾に勧められて生活保護になって婚活はやめた。アプリは三ヶ月つづけたがそれが限界だった。男は婚活アプリを辞めることにした。
退会期限日の三日前にマッチングしたのがミチだった。男は捨て鉢になって鎌倉で実家暮らしをする五十路未婚年増に書いた文面を、そのままをミチに送ってやった。
メッセージは三日来なかった。サブスクリプションが切れる直前になってミチから驚くべき返事が男にとどいた。
「それ言うの、辛かったよね。言ってくれてありがとう。あなたの告白に対して私はぜんぜん動じてないよ。正直に話してくれてありがとう。きっと勇気をふり絞って話してくれたと思う。私、その気持ちを全力で受け止めたい。だから心配しないで。一番つらいのはあなたです」
この返信を読んで男は、この女は信頼できるかもしれない。と思った。
彼女は本名を田中未知子と名乗った。彼女は未婚女ではなかった。西東京に住んでいて実家は愛媛県の松山市だった。一男四女をもつ母親だった。助産師をしているといった。だが、双方ラインで素性や本名を証明する術はどこにもない。九州でベトナム系の詐欺グループから二百万だまし取られたそれも、まんまとヤツらの偽造運転免許証を信用してしまったからだったが男は自分の運転免許証の写メを、さんざん逡巡した挙げ句に田中未知子に送った。田中未知子は男を信じたようすだった。それから男は最初から思いきって彼女の名を呼び捨てにすることにした。男は田中未知子をミチと呼んだ。
ミチは五十六歳で男よりも十年上だった。
「そのことじゃねえって、さっきから言ってんベーに! 」
階下から父の怒号が聞こえる。介護士のだれかに向かって怒鳴っているのだろうか? 男は怯えた。震え、こぶしをにぎりしめて全身を強ばらせる。動悸が高まって息苦しくなる。まるで巨人に心臓をつかまれてにぎりつぶされているようだ。
「だからバッテリーだよ! アガっちまってんだ。プリウスのよ。ずっと乗ってなかったんだいの! 」
バッテリー? 男は首をかしげた。それと父が怒鳴った「の」は北関東の話者が同調を求める「だよね」が訛(なま)った「だいに」の「に」と、ニュアンスが微妙にちがう。男は感じた。強調の「の」か。男は自分では喋らない群馬弁について思考がめぐった。
二度、まぶたを瞬かせた後男は何かに気がついて唾をのむ。
父は介護士たちを前にして電話をかけているのだ。相手は元町十字路の角のトヨタのディーラーかあるいは父の知己の下仁田の近藤オートのどちらかにちがいない。
父は空気が気まずくなると別件でどこかに電話をかける。男が中学のとき父は館林の駐在所勤務になって家族で行った。男が伊勢崎の高校を受験するのをしおに父は祖父の、いまのこの伊勢崎の土地に新居を建てる決心をした。
ある秋の夜だった。注文住建の若い営業マンが駐在所にやって来た。茶の間にはいつもより濃い目のカルピスが出、男と妹はよろこんだ。父は木材や間取りの設計には笑顔だった。が、予算の話になると眉を寄せて黙りこんだ。しばらくして父は遠くの知りあいに二十分ほど電話をかけた。リネンの白い幾何学模様のレースが敷かれた四角いテーブルを囲んだ、母と男と妹と訪れた注文住建の若い営業マンはみな黙って正座をしたままテーブルにうつむき、父が電話を終えるのを待った。コオロギが鳴いていた。なんとも気まずい時間だった。
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