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嘘くさい事実と、リアリティのある嘘
おはようございます。
ぼくプロ(ぼくのプロットプロジェクト)Vol.3です。
昨晩(下記、ぼくプロVol.2)が今回のマクラです。
つまり今回は上記のフィードバックになる。
布団のなかで、「なぜ、兄弟子の小説(直木賞受賞作)、その物語は、あんなにリアリティをもってぼくの目の前に迫ってきたのだろうか? 書き方の問題だろうか?」
と悶々と考えていた。
考え方を変えて、ぼくの好きなゲームソフト(古くてすみませんが)、1986年に発売されて、7歳のぼくが夢中になってピコピコやっていたファミコンの「ドラゴンクエストⅠ」ラスボスのりゅうおうのことば、
「わたしの友だちになったら世界のはんぶんをやろう」
☞「はい」
☞「いいえ」
りゅうおうのセリフはなぜあんなにリアリティをもってぼくに迫りつづけるのだろうか。(36年も経てなお!)
どちらも、真っ赤な嘘だ。
ぼくが自分で書いていて、瞬く間にリアリティを失ったのが、下記の二点、
❶佳世のセリフで、解放センターの(八嶋さんから聞いた)くだり。
❷(群馬県出身の)聡、がおもう部落解放センターの説明のくだり。
実際に、ぼくが京都滞在時に、あるカフェで部落解放センターの女性から聞いた事実である。これがどうも嘘くさい。書く意欲はなくなった。
が、下記の少女編の7歳の少女(ぼくが描いた架空の少女)はいまだにいきいきと、ぼく(筆者)のなかに住んでいる。
真っ赤な嘘で固めた直木賞物語、と、ファミコンゲームのボス(ドラゴン)のセリフは、真実に迫る。
書き(描き)方だろうか?
文脈の描かれかただろうか?
ぼくはここで師匠の言葉を思いだす。
「おまえは私小説はまだかけない」
物語に「じぶん」を描くことはではない。もし描くとしたら「じぶんとおなじ人物をみつけ、そのモデルを客観的に丸裸にできたとき」だ。
この師匠のセリフを先の記事に当てて掘りさげると、聡はぼくだ。
昨晩は「99%のぼく」として描いた。
⑴京都に住み始めて二年のよそ者(群馬出身者)が、その浅い視点から、歴史ある京都、京都人の風習を、そのただの感想をセリフに並べただけに過ぎない。
ことになる。
これが読者にわかって(ばれて)しまうことが、かいていてわかったのだ。
⑵筆者と登場人物を乖離させる。
できなかった。
大命題である。
ちょうどいまリアルタイムで、師匠の記事があがった。
夏目漱石の「こころ」、「それから」を素材にしている。
ここで先生がプロなのは、noteユーザー(読者の需要)しか書いていないことだ。
まさしく、プロの記事だ。
その点、この記事は素人の「ブログ」だ。
じぶんの備忘録でnoteを利用しているんです。
「そういう言い訳はなしにせよ」
と師匠にいわれたらデビューまでのすべての記事を削除せねばならないが。
いまのところはじぶんの気づきのため、なんでもかくことにしている。
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