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タイピング日記048 / 絶筆〜だまし庵日記〜 / 野坂昭如

絶筆、だまし庵日記 野坂昭如 2007〜2008年 81頁〜83頁


4月某日
後期高齢者医療費保険証なるものが届く。
75歳以上の人間を後期高齢者と呼ぶ。
アメリカに占領されて以後、わが国独自の言葉の文化を忘れてしまった。
物事は言葉から始まる。その場しのぎのお上の姿勢はいただけない。
後期高齢者医療制度という言い方もその一つ。後期とはどういう意味だ。これで終了、後がないという意味か。
クソ爺いとか、死に損ないと呼ばれる分には腹も立たないが、後期高齢者と変に体裁をつけてられると、その名称に含まれるいやらしさを発(あば)きたくなる。
偽善者メ。


5月某日
日本は四季がはっきりしている。
それぞれ特徴がある。
中でも5月はぼくの好きな月だ。
昭和20年5月。神戸の家は空襲で半分壊れた。家のすぐ横に爆弾が落ちた。その時ぼくは学校にいた。
中学三年生。学校の横穴壕にいた。
家に帰ってみると家は半分壊れていた。5月11日、昼過ぎのことだ。
その1月後、神戸は3回目の大空襲に見舞われる。
昭和51年5月、胃の手術。2/3切っている。
5月の空は美しい。
5年前の5月26日。ぼくは脳梗塞に襲われた。さっぱり記憶にないが、早朝のことだったという。気が付けば集中治療室のベッドにいた。
確かにその頃の体調は疲労は限界に達しいつ死んでもおかしくない体の有様だった。それでも酒を飲んでいた。よく今があるものだ、と我ながら不思議に思う。
5月はぼくの人生の節目なのだろうか。
五月晴れの空を眺め、あの頃を思う。


5月某日
連鎖的自殺者の続発。
何か一つの事件をきっかけに負の連鎖を呼び込む。硫化水素による自殺も同様。
現在の日本の若者達にとって、敵はいない。敵をことさら必要とする世の中がいいとは思わないが、他人を知らなければ、自分を知ることは出来ない。敵は鏡なのだ。
ぼくは今まで、何でもやってきたが、自殺だけはしていない。
世間の常識からすれば、ぼくの飲酒は自殺行為と同じとうつっただろう。言い訳がましいが、ぼくの飲酒はあくまで生きるための事だった。酒との付き合いは長いが、死のうと考えたことはない。
昔から自殺者はいた。
ぼくのまわりにも何人かいる。
自殺した文豪の胸の内を知るよしもないが、もの書きは、書けなくなると死にたくなるもの。だがそうならば、ぼくなどとっくに死んでいて当然。
おかげさまで、まだ生きている。
子供の自殺は大人の責任。
大人も含め、毎年3万人の自殺者がいるという。
命の危険がいたるところにあった頃、自殺者は少なかった。
上辺平和の時代こそ、自殺者の温床。


5月某日
某有名料亭の料理使い回しが明らかとなって非難の声が高い。
われは違う。有名料理屋の料理などハナから食べない。
なにせ食べ盛りの頃、闇市をうろつき食べたシチューが何よりのご馳走。
それは進駐軍の残飯で作られていたらしい。その中身は知らないが実に美味かった。
店側の「もったいない」と言う気持ちも判らないでもない。ならば自分たちで食べればよろしい。客には出すな。この発覚について、眉をひそめる方は多い。
ところで日本人がうみ出す残飯の量は世界一。これは生きものとして、みっともない限り。残った料理の使い回しは食品衛生上いけないのかもしれないが、日本人の食べものとのつき合い方は下手になるばかり。


5月某日
この時季は、食材が揃い、何を食べても美味である。
昔の母親は、それぞれの家で、自家製の常備食を作ったものだ。蕗のとう味噌、木の芽味噌、梅干、ラッキョウ、数々の佃煮、ジャム。7月には漬け込んだ梅酒を、まだ早いと知りながら、氷を入れて飲んだ。青梅は、まだ酒の味が強く、顔が赤くなったものだ。
新聞や週刊誌での健康相談の欄に相談者の一日あるいは一週間の食事の内容が紹介されている。
チラッと眺めただけだが、栄養学にはとんと無知なぼくの眼にもなんとも貧しいメニューが書かれている。
朝食はヌキ。または珈琲か紅茶に、せいぜいパン。
伝統食でも、飯、味噌汁、干魚程度は食卓に並ぶ。その他に、母親の心配りである常備食がある。これが一応、日本人の朝食であろう。学校に行くにも働きに行くにもこれでは力が出ないというものだ。健康相談が聞いてあきれる。
もっとも酒ばかり飲んでいたぼくに言う資格はありませんが。
若いお母さん達に申し上げたい。
子供に食べさせろ。食べ物は人間を豊かにする。食べる事で身も心も大きくなる。
あなたの夫も同じ。





野坂昭如 wikiより一部抜粋、

野坂 昭如(のさか あきゆき、1930年10月10日-2015年12月9日)
日本の作家、歌手、作詞家、タレント、政治家。

放送作家としての別名は阿木 由起夫(あき ゆきお)シャンソン歌手としての別名はクロード 野坂(クロード のさか)、落語家としての高座名は立川 天皇(たてかわ てんのう)。

1967年、『火垂るの墓』『アメリカひじき』で直木賞受賞。

人物像

文壇界きっての犬猫好き、酒好きである。酒に関しては、高校時代に酔っ払って真っ裸で深夜の街を歩いたり、また大学時代に酔っ払って教室の窓から入ったり、などの武勇伝を残している。その後、1952年に自主的に精神病院に入院して治療をしてからは、酒乱の癖はおさまったという。また、「趣味の雑誌『酒』昭和47年新年特別号」の付録「文壇酒徒番附」において、東方横綱に立原正秋と共に列せられている。ちなみに、東方大関三浦哲郎、池波正太郎、西方横綱梶山季之、黒岩重吾、大関吉行淳之介、瀬戸内晴美などがいる。

1990年10月23日、映画監督大島渚の真珠婚式パーティーで挨拶を行う予定であったが、野坂が帰ったと勘違いした大島が野坂の順番を飛ばして進行したために、当初の予定より出番が大幅に遅れてしまい、その間に大量に飲酒し酩酊してしまった。ようやく登壇し祝辞を終えると同時に、左後ろで野坂の挨拶を聞いていた大島の眼鏡が吹っ飛ぶほどのパンチを食らわすが、大島も負けじとマイクで野坂の顔面を2発殴った。後に大島が野坂に謝罪の手紙を書き、野坂も謝罪して和解した。また野坂も大島へ謝罪文を送り、大島の妻である小川明子にはお詫びの品としてブラウスを野坂から贈られた。

放送作家・野坂昭如

テレビ黎明期(1950年代から1960年代)において放送作家として活躍した。放送作家としての筆名は阿木由起夫。一度だけ『シャボン玉ホリデー』の台本を書いたが、いくつかの歌の曲名と「板がズラッと並んでいる。これがホントのイタズラ」といったつまらない駄洒落を3つ4つ並べただけで全く使い物にならないため、仕方なく青島幸男が書き直したという。

歌手・野坂昭如

西城秀樹の「YOUNG MAN (Y.M.C.A)」が大ヒットした時、それに対抗して「Y.W.C.A.」なるカバー曲を発表。しかしライブ版(『野坂昭如 昭和ヒトケタ二度目の敗戦コンサート』収録)にもかかわらず泥酔状態で歌詞を間違えるわ、歌を女性コーラスに任せっぱなしにするわ、本人はただ喚いているだけなどやりたい放題。その上歌詞の途中「Y.M.C.A.」に対抗した曲にもかかわらず合いの手として「わい、えむ、しー、えい!(YMCA)」と発言している。後にこの歌がラジオ番組『コサキンDEワァオ!』(TBSラジオ)で紹介され、リスナーの爆笑を誘う。

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