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タイトル決まる「消えた小説」、最後のどんでん返し。

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■ あとがき(四月五日・水・晴明節) 南京

 

 この物語の編集に代えて。

 私は中国の南京に住んでいる。私はこの物語の筆者である「男」と十八年前に上海の職場で知りあった。五章で男は電話をかけた。その電話の相手は私だ。

 あとがきを上梓するに中国の晴明節に間に合った。

 晴明節とは人々が墓に参って先祖や死者をまつり若い娘は野山にでかけて春のあそびをする民間の祭日だ。川の多い江蘇省には晴明節のこんな歌がある。

 正月灯 二月鷂 三月上墳船上看嬌娘

(元宵節には灯籠を愛で、二月は凧を揚げ、三月は墓参りをして船の上でかわいい娘を見る)

 昔の中国の令嬢は、春の墓参りは男と出会うチャンスだった。女は新しい服で船に乗って沿岸の風景を愛でる。山野であそび、楽しむ。甚だしい場合は密会し、野合する。

 七日前、男は死んだ。

 男は一篇のこの小説を書いて死んだ。

 男が死んだ日から推察するに、男はこの小説を四日で書きあげて、その後すぐに私あてに国際郵便を送った。

 私の自宅にダンボール箱がひとつ届いた。ダンボール箱にはこの小説を書くにあたって男が集めた資料がぎっしり詰まっていた。いちばん上のクリアファイルにUSBがひとつ入っていた。そのデータは男が見た群馬のさまざまな模様の空や関東平野をかこむ山々や一面にひろがる田んぼの風景や春の青い麦畑の写真、三月に野に咲く草花から園芸種にいたる花木図鑑や男が録音したさまざまな鳥の声やラストシーンのオクサンの解雇通告の音源などが日付順にファイルが整理されてあった。あとはコピー用紙に印刷された書類だ。喜ちゃん飯店に関するさまざまなウェブサイトやURLや聞きこみをした人の連絡先、男の給与明細、男がバイトのあいだ肌身はなさずにもった、まるで警察手帳のごとくよれよれになったメモ帳があった。遺書はなかった。

 もしや、と私は急いで男の実家に電話をかけた。入れちがいだった。

「なぜアキトの死をわかったのですか? 昨晩、仏間の梁に首を吊ったんです」

 男の母は私に言った。

「つかぬ事をお聞きしますが、アキトくんは遺書のようなものは書いていなかったですか? 」

 私は男の母に訊(たず)ねた。

「夜な夜な部屋で文章か何かを書いていたようすはありましたが、パソコンもなにも捨ててしまったようで部屋はアキトの私物はほとんどありませんでした。なぜかあれだけ可愛がっていたネコもいないんです」

 男の母親は言った。

 男は、そもそも人生を生きること自体に、くよくよと悩んでいたが、それ以外の、通常の人間であればさほど考えぬ瑣末なことにもやはりくよくよと悩んだ。男はそんな人間だった。仕事でそんな素ぶりは私以外のほかの人間には見せなかった。

 男は私をただの仕事の同期の間柄とは見ていなかったようだ。結婚して娘ができて、妻が変わったと私に真剣に嘆(なげ)いた。

「それはフツーじゃねーかな。女は母親になったんだ。そこに女を求めちゃ奥さんに酷じゃないか」

 私は男にかるく言った。

 中国では春節や国慶節ともなると大型連休は十日にもなる。男の韓国人の妻は一歳になる娘と男の給与をすべてもって韓国にひと月帰った。じつは男は密かに家族でチベット旅行を計画していた。やることがなくなってしまい、大型連休のあいだずっと海賊版DVDを見るかテレビゲームのドラクエシリーズをやりこみ倒したと私に愚痴った。私は思わず笑った。男は子を産んだ妻は女でなくなるのか? 家族は、愛はどこにあるんだ? 男は真剣に頭を抱え、私は笑った。

 あの日、私が電話に出なければ、あるいは私がほかの回答を男に提示していたらば、五章とこのあとがきは存在しなかったかもしれない。

 いまから五章を私側から補足をする。五章で私は男とこう会話をした。

「何をどう書いてもいい。それが小説ってやつじゃないのか? 」

 私は言った。

「ちがうんだ、これはぼくが書いちゃいけないと思うんだ」

 男は言った。

「なぜ、お前が自分を書いちゃいけないんだ。よくわからないな」

 私は言った。

「最近、つきあい始めた女がいるとする」

 とつぜん男は言った。男は私の問いには答えなかった。

 私は最近、こいつは女とつきあい始めたんだな、と心で思った。

 それから男はまた不意にこんな変なことを言った。

「男が存在するならば、必要な箇所だからだ」

「ちょっと待った。わからないな。物語の『男』がか? それとも『お前』がか? 」

 沈黙が降りた。男はその私の質問には答えなかった。

「その女は十歳年上の助産師なんだ。マッチングアプリで知り合ったんだ。西東京に住んでいるという。一男四女の母親だ。もちろんマッチングアプリで知っただからバツ有り。それは前提になる。まだ顔も見たことはない」

 男は私に言った。

「で、なんかその女と問題があったのか? 」

 と私はたずねる。

「通話はよくするんだ。でも向こうは日勤だの当直だの夜勤だのオンコールだの、オンコールってのは自衛隊のスクランブル待機とおなじだ。産気づく可能性が高い患者が産院にいて自宅でコール待ち。待機」

「なるほど」

「で、女はぼくの通話に出てくれて道を歩きながら美容院に入った。すると女は『美容院に着いた。きるね』っていって電話を切るんだよ! 」

 私は腹を抱えて笑った。

「当たり前じゃないか。その女の行為のいったいどこがヘンなんだ? 」

「ちがうんだ! ぼくがきみに言っているのは社会システムのことをいっているんだよ! 」

「社会システム? 美容院に入って受話器をきる行為と、社会システムとがどうつながっているんだ? 」

「つまりだね。美容院に入って受話器を切る社会的な常識行為は、戦争で人を効率よく殺す訓練で自動化されて敵兵を掃射する行為とおなじじゃないかってことなんだよ。人間の感情はマジョリティに抑圧されると自動化される。最終的に個はシステムに押しつぶされ歯車になる。人間の個々の思考は停止されてしまっているってことなんだ」

「そりゃあ思考が飛躍してやしないか? 一瞬でそこまで思考がすっとぶとなると、お前、あれだぞ、たしかアスペルなん」

「アスペルガー症候群だろ」

「そうだ。サヴァンとかはそういう部類に入るんだよな、たしか。ADHD注意欠如・多動性障害にも多いそうだが、その代わりに一部の記憶能力や瞬発的な計算能力や色彩感覚などは優れているとか」

「ぼくはちがうよ! 」

「なにがちがうんだ」

「ぼくの主治医がちがうっていったんだよ。相談すると医師は鼻で笑ったんだ。患者の訴えを鼻で笑ったんだぜ! だからADHDについても聞けないでいるよ」

「主治医が誤診ってのはないのか? 」

「えっ」

 かるい沈黙があった。

「それと、おまえ。それって自己承認欲求じゃないのかな? 」

「どういうこと? 」

 男は純心に、訊ねてきた。

「いやね。わざわざ中国の南京に住むおれに電話をかけてきてくれてさ、だからこそ訊(たず)ねられたってのもあるかもしれない。だがな。そのお前の根源的な問いに答えようとするとだ。まず女が美容院に入って電話を切る行為と社会システムや思考停止への思考が浮上する。またそれが瞬時に直結する。それがアスペルガー症候群かはさて置きだ。そこに他者へ自分の不満なり感情なりが現れるそれは自己承認欲求のひとつだろう」

 沈黙がおりた。

「見方によっちゃあ、その女から見れば、だ。お前の主義や主張あるいはひとつの意見は、ただの難癖だぜ」

 私はしばらく黙っていた。重く冷たい沈黙がおりた。まるで北極の夜のしじまのような静けさだった。

「他者、その集合体である社会は自分がどう思うかとは関係なく動く。自分の意思とは関係なくアメーバのごとく変容しつづける」

 男の沈黙はつづいた。沈黙に距離があるとすれば、男と私との距離である北関東と南京の時差よりもある。私にはそんな気がした。

「たしかに見方によっちゃあ、女が美容院に入った直後に自動的に電話を切る行為は社会システムのひとつのメタファーと解釈はできるが」

 やはり男は喋らなかった。私は口をひらく。

「それと、己の個の感情っちゅうモンはだ。他者がどう思うか、それをみた自分の心の闇のはざまで揺れる。こちら側の問題。それだけだ。受けとる側の感情が人よりも豊かとか繊細とかあるいは訓練によってコントロールされているかのちがいだけじゃないのか? あとは身体的な器官の疾患など、おまえは双極性感情障害ってことはつまりその揺れが極端に… 」

「それ以上いうのはやめえてくれ! 」

 東シナ海の向こうで、男はさけんだ。

「悪かった。病気について触れるな。だったな」

「そうそう。これを小説にしても一次選考で読まずに落とされるからな」

 二人のあいだに爆笑が起こった。それから男は体調が悪い日に女から「今日の調子はどう? 」ってよく聞かれる。答えようがない。そんなことを私に訊ねてきた。男の声はいつもの声に戻っていた。私はそんなときこそ自分の脳をを思考停止させて女に『今日の気分は最高です! 』と答えてやれよと言った。すると男は饒舌になった様子で矢継ぎ早に私にむかって『君を好きなんだ、いま君を抱きたいんだ! 』と自分の気持ちをまんま女に素直には言えないのか? 若い頃はよくいった。女にもよく言われたものだが、と私に訊ねてきた。そりゃあ女によるだろうよ。

「女は抱かれたら結局アナタはこれを求めていたんでしょうってなるし、男はみずから腰を吸いつけにくる女の尻に冷たい目を浴びせる。それが人間ってモンじゃないのか」

 私はいった。

「お前こそがぜひ小説家になるべきだ! 」

 男は笑った。そうやって私たちは電話を切った。

 それが五章の内幕だ。


 あとがきの最後に。

 資料のコピー用紙の一枚に、男の手書きでこう書いてあった。

「これは新人賞の応募原稿でも遺書でもない。世界にひとつだけの、ぼくのすべてが描かれたラブレターだ。一部だけを刷ってくれ。その一部を女の住所に郵送してくれ。あとの資料はすべて焼き捨ててくれ。たのんだぜ」

 私は、ダンボール箱のなかの資料を取りだした。そのなから、田中未知子の住所を見つけだした。確かに一部だけをプリントアウトした。その女の住所に国際郵便で送った。



 この長いながいラブレター「消えた小説」を読んだ田中未知子さんへ。

 あなたはわるくない、小沢彰人に愛されていた。

 あとがきを書いたこの私が、保証をする。

 小沢彰人の冥福を、心より祈る。

大澤章信 於・南京


〈了〉


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