処女作はぜったいに妥協はするな!
じぶんのためだけのメモ。
タイトルが思いつかん。
箇条書きに。
⑴全力で書かないなら作家をやめた方がいい(これはマスト)。
⑵処女作は妥協するな(作家人生のその後のすべてが決まる作品だ)。
⑶新人賞であれば〆切に追われるべからず➡︎⑴⑵が最優先だ。
備忘録(第一稿後に気づいたこと)。
じぶんの経験則は当たっていた。
ぼくは第七稿目までのブラッシュアップ原稿が完成原稿になる。
こんかいは急ぎ足で「第三稿」を応募原稿にしようとした。
■焦った原因はchatGPTに書かせた章(パラグラフ)があった。それが気にかかり急いでいた。冷静に考えれば大した原稿ではない。
■横書き(Googleドキュメント)から縦書き(MicrosoftWord)へのフォーマットへの切り替え。
これは物語の筋と内容を中心にゴリゴリと書いていた横書きから応募要項に合わせた縦書き原稿に移植の際のことだ。素人でかなり舐めていた部分がある。プロならわかるが「ぶらさがり」などの書籍(紙原稿)を目から離して見たときの感じだ。これはスティーブン・キングも村上春樹さんも(書くことについて)言っていた。これは補正をかけるべき所だった。あるいはプロ歴が長ければ編集から事前に補正がかかると思うが。デビュー前はひとりでしなければいけない。
■二稿から三稿の段階はまだまだ改善の余地のある原稿だ。
手直しでまだまだ上手くなる。これらはまだまだ上手に描ける下敷きの文章だった。
■第二稿からのじぶんの文章(やキャラが立ってきて動きや会話などのシーン)の変化が面白い!!
こんかいの小説は千ページある。その原稿(物語)は九十のシーン(章)から成り立つ。九十個のパラグラフ(舞台)に始まりがあって終わりがある。つまり九十の短編小説がまとまって原稿用紙千枚のひとつの総合小説になっている(よく考えるとどの小説もそうですけどー。滝汗。)。九十の短編を再ブラッシュアップするとなると気が遠くなるが。焦らずに「このレベルならば最初に世に出るじぶんの作品として応募できる」というレベルまで仕上げなければいけない。ぜったいに妥協をしてはいけない。思った。
■こんかいはクルマが多く出てきた。駐車場に入ってくるシーン、十字路を曲がるシーン、縁石を乗り越えるシーン、さまざま書いた。まだまだ上手くかける。もっと面白くかける。もっとこういうふうに書いてみたいな。もっと上手くなったらこういうふうにかけるかなぁとかみたいなのが湧いてくる。
■パラグラフ(行へ)の解体(ぼくの言葉です)。
これは純文学を書いてきたせいで、段落に文字をぎっちり詰めて書くような体感で書いていた。でもやはり、今般はエンタメ作品である。紙の原稿(パソコンのディスプレイ)から三十センチはなして引いていて原稿を見てみる。するとやはり《小説らしくない》のである。隙間がなかった。なので固まったパラグラフに改行をほどこした。
⑴時間経過で改行。
⑵カメラワーク(別の人間の視点の移動)で改行。
⑶音(擬音語、擬態語、ぱんっ。ぎゃー。ごくり。ぎょろり。など)で改行。
⑷回想は改行。
⑸時間の離れた回想)の挿入は一行を開けて改行。
⑹メタ効果で改行。
村上龍の「五分後の世界」では村上龍は脱稿の原稿を、気が狂うほど音読を繰り返した。と言っている。とてもよくわかる。
255頁×600字=153000字
原稿用紙382枚だ。
ぼくはいま(2024/8/30/fri)484386字=原稿用紙1210枚だ。
書籍になれば÷600=807枚の文庫本。すこし厚いか。
安く売ってくれないと売れないので価格は下げて欲しい。
パラグラフの解体ですこし枚数(空白部分)が増えるが、文字数は変わらない。
一気呵成は原稿用紙五十枚(短編小説)まで。
■これは山本一力さんの「蒼龍(五十枚)」を読むとわかる。この作品は一晩でまさに一気呵成で書いた凄みがある。借金が四億円(借金は奥さんだったらしいが)の凄みだ。
■村上春樹さんと綿矢りさの処女作は(中編小説・二百五十枚)でふたりとも執筆に十ヶ月を費やしている。
■処女作で千枚を一気呵成でなどで書けるはずがない。ミニ総合小説の分量だ。だが時間だけはある。それがデビュー前の特権である。ぜったいに焦るな。焦って良いことなど絶対にない。