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ポエトリー・ゲームズ

1-1
「自由」が「創作」を可能にする。

1-2ー1
自由とは、自分を自己の中の規律(ルール)に従わせること。

1ー2ー2
つまり、「自己ルール」をさす。

1-3-1
「自己ルール」は、まず己れのためになされ、己れの心(「マインド」)に、「意志する」を与える。

1-3-2
「意志するマインド」は、「現実」をも寄せつけない。

1-4-1
現実とは、「イデオロギー」にすぎない。イデオロギーとは、他人の主張である。

1-4-2
イデオロギーとは、他人の規律(ルール)に従うこと、つまり、「他者ルール」である。

1-5
よって自由は、いつでも現実と対立しうる。

1-6
「創作」が、自由と現実、2つをつなげる。

2-1
創作とは、「詩/アート」である。

2-2
「詩/アート」とは、その利己的活動から、利他的生産物(「作品」)を産み出す。

2-3
利他的である「詩/アート」の作品は、「人と人をつなげる」、つまり、「社会性」を帯びる。

2-4-1
「経験」とは、社会性における「個性」をさす。

2-4-2
「経験/個性」とは、「大人」であり、「主観的」な憂いであり、ア・ポステリオリに存在する。

2-4-3
それは自身の体験に基づいた「知識」であり、経験において「語りうる」すべてのものである。

2-4-4
そこで語られる主題には、「私の〜」という前置詞を置くことができる。(『私の深淵』、『私の希望』等々)

2-5
「自己ルール」が自由を生み、自由が「詩/アート」を生み、そして「詩/アート」が人と人をつなげる。

3-1
哲学的主張とは、「詩/アート」における「詩情/イメージ」と等しい。

3-2
その主張は、「曖昧に」こそ語られうる。

3-3-1
「曖昧に」とは、
①「事態(可能性)/事象(現実性)」同士の間に、
②「物体」同士の間に、
③「事態/事象」と「物体」との間に、
「類似」(『ルイージ』)する「詩情/イメージ」を見てとることである。

3-3-2
「詩情/イメージ」とは、「先験的」な事態を、「経験的」に語る「擬似体験」のことである。

4-1-1
「詩/アート」は、「論理」によって語られる。

4-1-2
「詩/アート」の「曖昧さ」は、人の「理性」における、「手段」として機能するものでなくてはならない。

4-1-3
それは、人の「感性」と、ことごとく対立する。

4-2
「詩/アート」とは、「表現」の形式上の概念ではなく、「詩情/イメージ」を伝えるための「手段」である。

4-3
「詩/アート」の「曖昧さ」とは、「表現」で行われるのではなく、類似する「詩情/イメージ」を伝える手段として機能する。

5-1-1
類似する「詩情/イメージ」を見てとるという行為と、「説明する」という行為は、まるで相容れない。

5-1-2
しかし、そのどちらも「論理」によって語られる。

5-2-1
哲学的主張を、「曖昧な詩情」だと理解するならば、それを「説明」しようとする行為は、野暮な試みであると、私は感じる。

5-2-2
思いつきで喋ったギャグの説明を求められたときの恥ずかしさを、私に思い出させる。

5-3
「君の主張の真意をわかりやすく説明したまえ」と相手は言うかもしれない。君はそのとき、快く(しかし、どこか恥ずかしさを感じながら、)説明したとする。その説明と、元々の君の主張とは同じものであろうか? そのあと、君は自分自身(の心の広さ)に、こう言いたくなるかもしれない、「意味など捨てろ」と。

5-4-1
哲学的主張とは、その「使用」にある。

5-4-2
それは、「詩/アート」の「曖昧さ」が「手段」として機能することと符号する。

6-1-1
いついかなる場合においても、人は「真理」を証明することはできない。ただ「曖昧に」語りうるだけだ。

6-1-2
例えば、君が「神」について、その存在を証明することができないとしても、君はそれについて、相手に「類似的に」語ることはできる。相手も、君の口にした「神」について、「何か」を想像するだろう。この場合における君の「神」と、相手の「何か」は、「類似」しているのだ。それは何かの「遊び/ゲーム」のように。

6ー1ー3
それは、「死」についても同様である。(私の『大空のハンティング』という詩において、君は何をイメージするか、もしくは、しないか)

6-2-1
その「曖昧な」主張を相手が理解するとき、2人の間の「言葉遊び/連想ゲーム」は成立する。

6-2-2
その「遊び/ゲーム」は、「詩情/イメージ」によってなされる。

6-3
私は、その「遊び/ゲーム」を「ポエトリー・ゲームズ」と名づける。

6-4ー1
「ポエトリー・ゲームズ」は、「生活」の場での事態をも包括する。

6ー4ー2
生活とは、つまり、「人と人とのつながり」である。

6ー4ー3
人と人とのつながりは、実に「遊び」のように、無意識的になされる。

7-1
「遊び」は、「無垢」を必要とする。

7-2-1
「無垢」とは、「子供」であり、「先験的」な笑いであり、それはア・プリオリに存在する。

7-2-2
「無垢」を「経験的」に証明することはできない。ただ「曖昧に」示されるだけである。

7-3
「子供の詩」は「無垢」である。つまり、私たちの「経験」を超えている。

7-4-1
大人は「子供の詩」を書けない。(いくら、不誠実な詩人が、己の詩を「ひらがな」で書こうと)

7-4-2
私たちは、ア・プリオリな事態について、何も証明できないからだ。

7ー4ー3
私たちは、ア・プリオリな事態について、「曖昧に」語れるだけだ。

8-1-1
大人が、いくら子供っぽい詩を書いても、それは「幼稚な詩」にすぎない。

8ー1ー2
しかし、その「詩情/イメージ」は届くはずだ。

8ー2ー1
大人であっても、「無垢」をイメージし、それを伝えることは許されるはずだ。

8ー2ー2
それを「回帰」と、私は呼びたい。

8ー2ー3
回帰とは、自身の、または世界の「記憶を辿る」ことと等しい。

8ー3
回帰は、ポエトリー・ゲームズによってなされる。同じく、ポエトリー・ゲームズは、回帰によってなされる。

9ー1ー1
たとえば、私が、君の知らない「名前」を(電話帳のように)並べるとき、私は君に「思い出話」をしているのだと考えて欲しい。

9ー1ー2
そして、私の「思い出」に、私の「身の上」が隠されているのだと。

9ー2ー1
私が「太古の詩人」たちの名前を並べるとき、そこでは、私たちがもはや「経験」し得ない、太古の記憶を、つまり太古の思い出を話しているのだと考えて欲しい。

9ー2ー2
そして、太古の「記憶」に、いわゆる人類の「身の上」が隠されてはいないか?

9ー3ー1
私の思い出が、(「共感」ではない)新しい「人と人との」つながりを生み出すとしたら、それが「詩」の正体だとしたらーー素晴らしいことだと、私は予感する。(ああ、「共感」なんて、私は欲しくない!!)

9ー3ー2
「思い出」つまり、「記憶」こそ、「生」における宝物であると、私は言いたい。そして、それは「世界」においても。(どんなに残酷な「現実」であっても。)


(私が)明日書く詩も、すでに(君の)過去において存在していることをーー私は願う。

1ー0
「創作」とは、「思い出す」ことである。

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